「…」

何とも言えない予感が走っていた。嶺亜が気になって、ダメだとは分かっていたが準備室の内ドアのすぐ側で聞き耳を立ててしまっていた。静かだったこともあり、それは思った以上に鮮明に響いてくる。

「…来るなら来るで連絡くらいしなよ。急に学校に元同級生が現れるとか心臓に悪いじゃん」

「よく言うな。最近連絡先を変えただろう?しようにも出来なかったんだ。まあ知っててもするつもりはないがな」

「相変わらずだね。で、何?からかいに来たの?」

カタン、とコップか何かが机に置かれる音がする。克樹は自然と息を殺した。

「お前の方こそ相変わらずだな。近くに寄ったから母校を懐かしもうと思っただけだとさっき言っただろう?卒業以来一度も来てないからな。食堂やら礼拝堂やら今見るとなんだかいいもんだなと思えるな」

「まあ学校とは全く関係ない仕事だとそう感じるかもね。具体的になんの仕事してるの?僕には知らない世界だしちょっと興味あるけど」

「言って分かるかどうか知らんが、今は経営関係を学んでる。スポンサーになるにも業務実績がいるもんでな。颯達の劇団のそれになるには何人もの頭の固いおっさん連中を納得させなきゃならなかったんだ」

「ふうん…そういや岸と颯とは未だに連絡取り合ってるの?」

知らない人名が出てきた…と思ったが、克樹の記憶の引き出しはすぐに開いた。確かその人名は聞いた事がある。

「そんなに頻繁ではないがな。さすがにスポンサーの件では色々やり取りをしたが」

「…あの二人、上手くいってる?」

不思議と声のトーンが少し違って聞こえた。克樹はより聴覚に神経を集中させる。

「上手くいってる、とは?」

心なしか挙武の声色も少し変わったように思えた。そして何か緊張感のようなものが走っている…気がした。

「別に。深い意味はないよ」

「それこそ相変わらずだ。颯は岸くんをあの時以上に慕っているし、鈍感な岸くんはそれに気付かない。何一つ進展も後退もない」

急に事務的な口調に変わったがしかし、そこには何らかの感情が存在しているように克樹には感じた。挙武という人のことを全く知らないが、それでもそう感じさせる何かがそこにはある。

「…岸くんはお前に会いたがっていたぞ」

一瞬の沈黙。しかしその沈黙は美術室と美術準備室の壁を隔てて確かに克樹に伝わってきた。

何かある

漠然とした予感を抱いた時には、無意識に握りしめた掌にじわりと汗が滲んでいた。

克樹は岸という人物の情報を整理していた。劇の練習が始まったその初めに観た生誕劇のDVDでガブリエル役を演じていた生徒…そしてその後聖神7学園の教師となり、一年経たずに退職した。

噂では、聖神7学園には生徒に手を出してクビになった教師がいる…

それらがぐるぐると脳内を駆け巡る。何故か息苦しくなり、克樹は慎重に深呼吸をした。

「僕は会いたくないよ」

「…誤魔化すのは上手なくせに、嘘は下手だな」

嶺亜の返答に、挙武は即座にそう指摘した。克樹はじっとしているのが少し困難な程に心臓が早く脈打つのを自覚する。この先を聞くべきかそうでないのか…そんな選択が掠める。

「嘘じゃないよ。会いたくない、というよりは会ってもそんな意味がないってこと。あっちは売り出し中の劇団員、僕は校務に追われる高校教師…そんな暇はお互いないからね。近況報告なんかそれこそメールかなんかでも充分じゃん」

案外冷静な答えが返ってきて、克樹の鼓動は平時の早さに戻っていこうとする。何かあると感じたのは自分の勘違いだったのか…

浅い溜息の音が聞こえた。それは挙武のものだった。

「どうやら本当みたいだな。今のお前には栗田よりも、岸くんよりも大切な存在がいる…あの時舞台で岸くんが問いかけた質問の答えに嘘はなかったってことか」

大切な存在がいる…?それは一体誰のことだろう。克樹は頭が付いていかない。まだこの会話で得られた情報の整理の真っ最中だ。次から次へと情報が飛び込んできて理解が追いつかなかった。

「…そういやそんなことあったっけ。まああれはそうでも答えとかないとややこしいというか、あんなところで個人的な質問をするもんだからお客さんも不審に思い始めてたし、さっさと切り上げるにはそう答えるしかなかったんだよ。ほんとそういうとこ常識ないよね、岸は」

「でも岸くんはあの後の飲み会で嬉しそうだったぞ。…ちょっと寂しそうでもあったがな。兎に角嶺亜に今大事な人がいて良かった、って。自分があんな形で目の前からいなくなってしまったからずっと気がかりだったって」

「それこそ下手な嘘でしょ。僕のことを気にしてる余裕なんかなかったと思うよ」

「素直じゃないのは変わってないな。いや、むしろこじらせてるか?お前にとって岸くんが大きな存在になろうとしていたように、岸くんにとってもお前は…」

「でもそうじゃなかった。そうならなかった。岸は僕の目の前から去った。その原因を作った一人は挙武じゃん」

嶺亜の口調は責めている感じではなかったが、挙武は数秒押し黙る。

克樹は動けない。知りたいという欲求と、聞いてはいけないという戒めが交錯して身動きが出来ないでいた。