文化祭を二週間後に控えた時には生誕劇は大分形になっていた。衣装合わせに入る段階で、各々サイズを見ている。

「克樹似合うじゃん。本当の天使みたい」

笑いながら琳寧が茶化してくるが、彼のヨセフの衣装もなかなかに様になっている。今野は着けるのを嫌がって「あとは本番だけ」と言って衣装を着けての練習は一度きりを貫いていた。

「どうよこれ。素晴らしい出来だろ」

大光の製作した宿屋は紀元前とは思えぬモダンなデザインで、それがウケている。音響は全て矢花が仕切り、裏方にも気合いが見えた。

「んじゃ今日は通しでやるぞ。スタンバイ付け」

この日も嶺亜は練習に姿を見せなかった。谷村は音響の手伝いをしているが、嶺亜は一向に現れる気配はない。

「…」

最近なんとなく関わりが薄くなっている気がした。作品を進めようと美術室に行ってもいないことが多いし、いても他の部員もいてあまり話も出来ない。劇の練習も、大光の大道具が完成してからは顔を見せなくなっていた。

それに、一番気になるのは就寝前のLINEが途切れたことだ。一度それとなく訊ねてみたら「受験勉強したいだろうから、もう好きな時間に寝て。無理しないように」というシンプルな答えが返ってきただけだった。

接点が急に失われつつある…それこそ、一度も姿を見ることがないまま過ぎていく日もあり克樹は思いが募るばかりだった。

「はぁ…」

何度目かの溜息をついていると、琳寧が顔を覗き込んでくる。

「どしたの?克樹、ここんとこ覇気がないけど」

「…そうかな…夜遅くまで勉強してたから睡眠不足かも…」

「昨日11時には寝てたじゃん。なんなら琳寧より早かったよ?」

琳寧は変なところが鋭いから、隠し通すのは無理のように思えた。素直に白状すると彼は「んー」と視線を上に向けて考える仕草をする。だがこれはあまり真剣に考えていない時であることを克樹は知っている。期待できそうになかった。

「あ、そうだ」

しかし琳寧は何か思い出したのか、急にバッグの中からタッパーを取り出した。

「今日の調理実習で余った時間に琳寧クッキー作ったんだけど、嶺亜先生に食べてもらおうと思ってたんだ。前にクッキー好きだって言ってたから。克樹、渡してきて」

ナイス琳寧、克樹はそう叫びたいのを堪えながら練習の休憩時間に職員室に向かった。だが嶺亜は職員室にはいなかった。

ならば美術室かな…と検討をつけ、足早にそこに向かおうとするとちょうど美術室にさしかかる曲がり角で誰かにぶつかってしまう。

「あ!」

その拍子に持っていたタッパーを落としてしまい、蓋が緩んでいたせいか中身が散乱してしまった。

「…すまない。よそ見をしてしまっていた」

冷静なトーンで詫びながら、散らばったクッキーを一緒にかき集めてくれたその人は、高そうなスーツに身を包んだ若い男性だった。だがこの学校の教師ではなさそうだ。少なくとも克樹には見覚えがない。

「いえ、僕の方こそ急いでしまってて…すみません」

「弁償したいところだが、生憎この学校の周りには店がない…クオカードでいいかな?」

スマートな仕草でスーツの懐に手を入れ、その男性はクオカードを渡そうとしたが、克樹は困惑する。琳寧の手作りクッキーだしもらうわけにはいかない。

「何やってんの?…え…挙武…?」

後ろから嶺亜の声が響いて、振り向くと彼は画材を抱えながら驚いた表情でその男性を見ていた。

「近くまで来たんでな。4年ぶりに母校を訪れるのも悪くないと思って」

挙武と呼ばれた男性はネクタイを少し緩めながら答える。洗練された、上流階級の人間の仕草だ。

「克樹、何やってんの。それ何?」

嶺亜は一時的に挙武から視線を克樹に移し、拾い集めた砕けたクッキーの入ったタッパーを指差す。

「あ、琳寧が調理実習で作ったから先生に食べてもらってって言ってたから届けに…」

「それを俺とぶつかって台無しにしてしまった。お詫びにクオカードを渡そうとしたんだが断られてしまってな。まあお前が食べる予定のクッキーならその必要はないか」

「相変わらずだね。克樹、クオカードもらっときなよ。それくらい紙きれみたいなもんなんだからこの人にとっては」

挙武の手にあるクオカードをさっと取ると嶺亜は克樹に手渡してくる。どうしたもんか判断できず、受け取ってしまった。

「あ、あの…先生のお知り合い…ですか?」

ようやく出たのはシンプルな疑問だ。今し方『母校』と言っていたから卒業生かもしれない。

克樹の推測通り、嶺亜は頷く。少し面倒くさそうに視線を下に向けた。

「高校の同級生。今何やってんだっけ?会社継いだの?岸たちの劇団のスポンサーになったことだけはこないだ知ったんだけど」

嶺亜に問われて、小さく咳払いをした後、挙武は否定とも肯定ともつかぬ返事をする。

「完全に継いだわけじゃない。社会経験もない若輩者がいきなり企業のトップになるなんてドラマくらいのもんだ。今は色々と研修中だ。あの時飲み会に参加してれば色々と皆の現状も知れたのにさっさと帰ったそうだな。なんでも手のかかる生徒がいるとかなんとか…お前がそんなに熱血教師になるなんてな」

「そっちこそ。家は継ぎたくない、俺は俺のやりたいことを探すみたいなこと言ってたくせに。でもまあ神宮寺が板前やるよりは想定内だけどね。あいつちゃんと包丁扱えるの?」

「俺もそれにはおったまげたが、一度店に食いに行ってみたらまあなかなかサマになってたぞ。お前も今度誰か誘って行ってみたらどうだ?谷村とは同僚なんだろう?あいつこそちゃんと教師出来てるのか?」

「心配しなくてもちゃんとやってるよ、あいつは。今も生誕劇の練習手伝ってんじゃない?だよね、克樹?」

急に話を振られ、克樹は戸惑いながら頷く。嶺亜と挙武は同級生だったそうだがいまいち仲がいいのかそうでないのかが測りかねる会話だった。挙武の方はなんとなく皮肉が多い気がする。

「へえ、生誕劇か…懐かしいな。お前もマリア役の指導とかしないのか?」

「するわけないじゃん。殆どセリフも喋ってないし歌も歌わなかったし立ってるだけだったんだから何を指導できるっていうの。あ、でも大道具や小道具なんかはかなり役に立てたと思うんだけど」

嶺亜は克樹を見る。同意しろ、という合図だ。克樹は頷いた。

「まあお前は在学中から教室より美術室に籠ってる印象だったからな…アトリエを見せてもらおうと来たんだが、久しぶりなもんで教室の位置が曖昧なんだ。美術室はこっちか?」

「逆だよ、逆。こっち。でも僕忙しいからあんまり相手出来ないよ。こう見えて職務中だからね」

なんだか訳が分からないうちに嶺亜は挙武と美術準備室に籠ってしまった。克樹はクッキーを渡しそびれ、クオカードを握りしめたまま美術室に忍び足で入室していた。