生誕劇の練習は順調だった。セリフ覚えに苦戦していた琳寧と今野も上田の熱心な指導で覚えつつあったし、大道具の類も着々と完成しつつあった。その合間に文化部の生徒はそれぞれの部活の練習にも出ていく。克樹も一応は美術部で、油絵を一枚仕上げなくてはならなかったから時間を見て進めていた。

「なあ克樹、パソコン得意だろ。ちょっと頼みあんだけど」

昼休み、珍しく大光が購買のあんパンをくれたと思ったらやはり下心があった。

大光はクラスの卒業アルバム制作委員になっていて、行事ごとの写真を納めてあるパソコンの操作に苦労しているようだった。

「なんで僕があんパン一つでそんな面倒なこと…」

言いかけて、大光がこう耳打ちしてきた。

「パソコンには向こう10年の写真が保存されてるらしいぞ。あいつの写真ももちろんあるんじゃね?」

悪魔の囁きだった。克樹は自分に言い聞かせる。これは困っているクラスメイトに協力するだけであって決してやましい気持ちはない。ただ、大光からは「同じような写真削除しといて」としか言われてないのでちょっとフォルダをあちこち見てみないと分からないから…

気が付けば克樹は職員室の片隅にある共用パソコンで、77回生の卒業アルバム用の写真フォルダを開いていた。

「あ…」

順にめくっていって、それを発見した時の喜びたるや形容し難い。若々しい学生時代の嶺亜が笑顔で写っている。

「これ…この人…」

それは1年生の時の行事である林間学校のものだ。山道で、腕を組みはち切れんばかりの笑顔で写る二人…嶺亜ともう一人の少年。

マリア像のあの人だ。小顔で、すらりとしたモデルのような体型の可愛らしい顔立ちをしている。

克樹は数秒その画面に見入った。屈託なく笑う嶺亜のその笑顔はあどけない少年のそれで、どこまでも純粋な幸福感に満ちている。きっと、この人と一緒にいられるから…そんな推測すらやってきた。

しかし克樹の中にはもう黒い靄はない。もとより覚悟の上で開いたし、もう自分の中で昇華したつもりだ。しみじみと眺めた後またクリックして次へ進める。

さすがに一学年150人を満遍なく掲載できるように編集されているから嶺亜がはっきりと写っているものは少ない。林間学校の他は今のところ部活動の記録である油絵を描いている姿と二年生の時の球技大会で卓球のラケットを持って立っているところ、そして各学年でのクラス写真だった。

3年生のページに移ると、まず克樹は文化祭に焦点を定めてクリックする。狙い通り、練習風景から撮影されていたから何枚かに嶺亜は写っている。

「あ、谷村先生」

谷村と嶺亜が立ち位置を確認している写真があった。谷村はこの頃からもうすでにどんよりしているところが写真からも伝わってくる。代役だそうだがそれにしても誰が推したのだろう。

稽古の写真は実際にアルバムには掲載されていなさそうだが、10数枚あった。ガブリエルであろう役の生徒は精悍な顔つきで、スポーツ万能の爽やか少年といった風貌だった。本番では声が出なくなったみたいだが、聞いた話だと相当に上手かったようだ。

「お。これは…」

嶺亜ともう一人、少し憂いを帯びた綺麗な少年と写っている。また違ったタイプの美少年だ。これが予備校でこのあいだ話した生徒の従兄かな…と推測する。確かに暴力事件など起こしそうにない、大人しそうなイメージだ。別の写真で一緒に写っているチャラそうな少年の方がよっぽど気が短そうに見える。

さて、この次は卒業式くらいかな…と思っていると急に名前を呼ばれ克樹は飛び上がりそうになる。

「は、はい」

慌ててファイルを閉じて返事をする。克樹を呼んだのは上田だった。

「あれ?お前アルバム委員だったっけ?まあいいや、講堂が急遽開いたから明日の放課後は生誕劇の練習を講堂でやるからな。あと、衣装も付けるから」

「はい。分かりました」

「お、本髙。ちょうどいいところに。ほれ、これやる」

別の教師が通りかかって、克樹に問題集をくれた。学年で一位の克樹には教師の期待がかかっているのか入試関係の資料をくれることがある。有難く受け取っておいた。

「そういやお前、ガブリエル役なんてよく引き受けたな。そんな暇あったら勉強したいだろうに」

「いやコイツけっこう筋いいんすよ。覚えるのにも時間かかんないし。俺が強要したんじゃないっすからね」

上田とその教師は和やかに談笑を始める。それを克樹は適当に相槌打って聞いていた。

「ガブリエルと言えば、岸がミュージカル俳優になったらしいぞ。校長に聞いた。あんな辞め方したから心配してたけど、あいつのガブリエル良かったよな」

話が発展して、克樹の知らない人名が出てくる。ここらでそっと退散しとこうか…と考えると同時に何かが記憶の端に引っかかる。

ミュージカル俳優…

ちょっと前の記憶だ。嶺亜が劇団のチケットを持っていた。古い知り合いが送りつけて来たから谷村と観に行く…と。

嶺亜と谷村の共通の知り合いはこの学校関連しかない。嶺亜は美大卒だし谷村は国立大卒だからそこに共通の知り合いなどいないだろうし、大学の在学中に会うほど仲は良くないだろうから。

「そうっすね。俺は元々あいつはなんか人前に出る仕事に就くと思ってたから…教師より合ってたんじゃないっすかね。教師のあいつも見たかったけど」

あんな辞め方…

それはもしかして一年経たずに辞めたというこの学校出身の教師がその岸という人なのかもしれない…そして岸という人は生徒に手を出してクビになった…という噂を呼んだその人である可能性もある…そんなパズルが組み上がってゆく。

しかしそのパズルはそれ以上組み上がらなかった。ボクシング同好会の生徒が上田を呼びに来てその話は中断されたからだ。

生徒と教師というのはやはり、許されない関係なのかな…と克樹は嶺亜のことを思う。

もしもこの想いを打ち明けたとしても、それは実らないのかもしれない。生徒と教師である以上は深い関係になることは許されないというのが世間一般の常識だ。

そこまで思って、自分にその気持ちを打ち明ける度胸なんてないことも再確認して浅い溜息をつきながら克樹は職員室を出た。