「あの…博士役の持つ小道具が美術室にあるって聞いたからそれを取りに…上田先生の言いつけで…」

谷村はおどおどと説明する。もっとも、彼はいつもこんな感じだからさして不審には思わないが、嶺亜は少し不機嫌そうに黙って小道具のる場所まで早足で行って無言でそれを谷村に渡した。

「あ、ありがとう…」

また挙動不審で谷村は小走りに去って行く。

「…」

嶺亜の浅い溜息が微かに聞こえた。彼は克樹の方を振り向くと、キャンバスを指差して

「それ、今週中には下書き終えててね。僕仕事思い出したから職員室に戻るけど」

「え…あ、はい…」

克樹が返事をする前にもう嶺亜はすたすたと出て行ってしまった。

なんだか急に素っ気なくなった気がして克樹は戸惑う。やっぱりさっきの態度が変に思われてしまったのだろうか…考え出すと止まらない。

「克樹まだここにいたの。もう暗くなるし帰ろうよ。寮に戻ったら琳寧のセリフ稽古に付き合って」

琳寧が呼びにくるまで、克樹は時間の経つのを忘れていた。気付けば窓の外はもう夕闇に染まっている。しかし、キャンバスの絵は何一つ進んでいなかった。部屋の時計は午後6時過ぎを指している。

美術室の鍵を戻しに職員室に入る。克樹はいつもの癖で嶺亜の事務机の方を見たが、彼はいなかった。仕事をしに戻ると言っていたからてっきりいると思っていたのだが…

さっきの態度の変化がどうにも気になってしまって克樹はきょろきょろと職員室を見渡してしまう。そこでコピー機の前にいる谷村と目が合った。

「…」

谷村は落ち着きなく視線をそらし、その背中からはわずかに動揺すら見られた。しかし克樹にはその意味は分からず、訊けそうな人が他に見当たらなかったので歩み寄った。

「谷村先生、あの…嶺亜先生どこにいるか知りませんか?」

「え?嶺亜く…中村先生?さあ…」

コピー機から吐き出された用紙は倍率の設定がおかしかったのか、変なところで途切れている。物理の授業の資料のようだった。それが目に付く。

「多分まだ帰ってはいないから、何か伝言があるならしておくけど」

「いえ、いいんです。ありがとうございました」

取り立てて用があるわけではないからそう言って踵を返すと、聞き取るのがやっとの声で克樹は呼び止められた。

「本髙…あの…」

「はい?」

克樹は振り向いて谷村を見る。いつも冴えない表情で、おどおどとした彼の顔を改めて冷静に見てみると非常に整っていることを認識する。太い眉に大きな二重まぶたの瞳…まるで彫刻のように彫りの深い顔立ちと少し見上げなくてはならない高い身長は、ぼんやりと描くヨセフ像のようだった。

婚約者のマリアが自分の子でないイエスを妊娠していても、婚約破棄をするどころかそのイエスを我が子として育てたというヨセフ…克樹が知っているのはこれくらいだったが、なんとも健気な男性だ。それこそ無償の愛と言えるかもしれない。

「いや…なんでもない。ガブリエル頑張って」

何か言いたそうな目を谷村はしていたが、それを追求するほど克樹に余裕はなく、礼を言って職員室を出た。