練習が始まったばかりの土日、克樹は相変わらず予備校通いだったがどうしても嶺亜のマリアが見たくてこっそり上田に懇願して10年分のDVDを借りた。勉強を頑張ったご褒美に寮の多目的室にあるDVDデッキで見ようと使用許可も取った。

「えっと…77回生上演…これだ」

カモフラージュのための他の年度はどうでもいい、震える手でパッケージを開けてディスクを取り出すと、克樹はそれをデッキに滑りこませた。

ドキドキしながら再生ボタンを押す。そして幕が上がった。まず登場したのはヨセフ役の谷村だった。

「あれ?これ谷村先生じゃん。克樹結局DVD借りたんだね。情熱的だねー」

「ぎゃあ!琳寧、いつからそこに!?」

風呂上がりに通りかかった琳寧に見つかってしまっていたようだ。するとあれよあれよという間に大光、矢花、今野も集まってきてしまう。一人でじっくり見たかったのに…

まあいいや…と克樹は画面に集中する。ナレーターの紹介と共に舞台袖からしずしずと現れたのは…

「おお…」

克樹は思わず前のめりになり、画面にかぶりつく勢いになった。

そこに現れたのはまさしく天使…いや、聖母だ。遥か創世記の時代から受け継がれてきた聖なる美…神の恵みがあった。

今よりも若くあどけなさすら残る嶺亜の横顔は、ヴェールに半分遮られていても充分にその神々しさが伝わる。ぐびりと喉がなった。

マリア様…

思わず克樹は声に出しかけた。一人だったら出してしまっていたかもしれない。

「こうして見てると、画になる二人だね」

矢花の呟きが聞こえたがもう克樹の集中は嶺亜に注がれきっている。場面が進んで、ガブリエルが天使のお告げをマリアに伝える場面になった。そして前奏が鳴る。

「…あれ?コイツ声出なくなったぞ」

大光が訝しげな声を出す。マリアの前に立って手をかざし歌い出すはずのガブリエルからは声が出なくなった。

嶺亜はそれを今にも泣き出しそうな顔で見上げた。それもそうだろう、予期せぬハプニングだ。撮影者も戸惑ったのか「フウ、なんで…?」と漏らした声が入ってしまっている。

ガブリエル役の生徒は呆然と立ちつくし、袖から裏方と思われる制服姿の生徒が彼を引きずるようにして舞台袖に引っ張っていった。ざわつきが少し音声に入ったままだ。

嶺亜もそれで動揺したのか、谷村が立ち位置を直してフォローしたり、恐らく台本にない動きでカバーしている。他の役にも戸惑いは多少ながらに広がっている。実にヒヤヒヤする危なっかしい舞台だった。

「なるほどな。こりゃお世辞にも成功とは言い難いわ。どうりで見せたくなかったワケだ」

大光の呟きに、うんうんと周りは頷く。

「けど、これマリア殆どセリフなかったじゃん。俺もそうしてほしいな。歌はともかくセリフ覚えめんどくさいんだよね」

今野が呟く。確かに、台本にはマリアのセリフはヨセフの次に多いはずだったがこの劇中のマリアである嶺亜はほとんど声を発していなかった。

「琳寧は逆に谷村先生があそこまでちゃんと出来てるなんて思わなかったから、ちょっと見直した」

「あーまああいつは思ったより良かったな」

大光は謎の上から目線だ。もっとも、彼は大道具担当になったから裏方なのだが。

「けどこのガブリエル役の奴どうしちまったんだろうな。見た目は爽やか少年でガタイもいいし雰囲気あるんだけどな。緊張したんかな」

「やっぱ本番ってさ、魔物が出るんだよ。どんだけ練習しても頭真っ白になることあるって」

バンドマンらしい発言を矢花がする。

「ダカさんも気をつけて」

「いざとなったらそん時のために口パク用のテープも作っとこうぜ。そうすりゃ安心」

なんだかんだやる気になっている連中をよそに、克樹は嶺亜の出番をもう一度見ようと巻き戻す。特に、登場シーンの優雅な美しさをもう一度見たい。

そこでガラリと多目的室のドアが開く。

「あんた達、もう10時過ぎてるよ。多目的室もう閉めるよ」

寮母さんが鍵束片手に追い出しに来た。つくづくポータブルDVDを買っておけば良かったと後悔していると、寮母さんはテレビの画面を見て眉を上げた。

「あら…これ生誕劇じゃない。あんた達今年生誕劇やんの?このメンツは…77回生の時だね。よーく覚えてるよ。フウ君が本番であんなになっちゃうなんてあたしゃ悲しくて悲しくて…あの子の本当の歌声をちゃんとお客さんに聞いて欲しかったねえ」

寮母さんはしみじみ語る。彼女は寮母を20年以上務めていて、もう60歳を越したそうだがまだ現役だ。多少強引でクセがあるものの、貫禄があって憎めないおばちゃんだ。

聞いてもいないのに寮母さんは色々語り始める。大の宝塚ファンで、その逆バージョンである男だけの生誕劇を毎年楽しみにしているらしい。都合がつけば練習も見に来るしリハーサルも見学に来ることもある。勿論本番はほぼ最前席で観劇するという。

「なんかね、このマリア役の子…そうだ、今年ここの教師になったんだよこの子。4月に挨拶に来てくれたわ。嶺亜くんだったかね…その子とちょっとケンカしちゃったみたいで、それで舞台に集中出来なくなったって噂だったよ。本当に凄い歌声でね…あれほどのガブリエルを見たのは岸くん以来かねえ…」

寮母さんは語り続ける。知らない人名が出てきたが、いかんせん嶺亜に関することだ。他のメンバーは話半分で聞いていたが克樹は聞き入った。

「ケンカ…?嶺亜先生がこのガブリエル役の人と?ケンカとかするんだ…どういう…?」

「んーよくは知らないけどね。この年のこのクラスは色々ゴタゴタ多くてね。マリアもヨセフも最初は違う子がやるはずだったんだけど、暴力事件起こして停学になっちゃったから急遽代役でね。だから色々大変だったんじゃないの。皆ピリピリしてたのかもね」

「暴力事件…そんなおっかない生徒いたんだ…」

矢花が両腕を抱きしめながら「おおこわ」といった仕草をして見せる。しかし寮母さんは首を振る。

「それがね、およそ暴力事件とは関係なさそうな大人しい可愛らしい子だったから周りも信じられなくて。そういや指導してくれてた先生もここの卒業生で、伝説のガブリエル演じたのよ。でもなんか事件起こしてその年一年持たずして辞めちゃったのよ…でもあの子のガブリエル凄かったわよぉ、ちょうど10年前だから72回生ね。見るといいよ。その子も交通事故に遭った子の代役で…」

話が嶺亜から反れていって、克樹は急激に興味をなくした。

「そっか…代役だったからセリフ覚える時間なかったからだな。大変だったんだ、嶺亜先生…」

だからあんまりいい思い出でもないし、気乗りしなかったのかもしれない。放課後の練習の時の浮かない顔の謎が解けた。

「けどさ、その話じゃあ谷村先生も代役だろ?なのにすげーセリフ多かったぞ」

「あの人、やる時はやるタイプなのかも」

「てかあの人国立大出だろ?実はめっちゃ頭いいんだよ。ここでは頼りなさそうに見えるけど」

何故か谷村の株がにわかに上昇して、その日のDVD鑑賞は終了になった。