鐘が鳴る。それを合図のようにして鳩が飛び立つ。講堂の屋根の十字に何羽か停まっているのを見上げると、この後ひと雨来そうな曇天の空が視界に映る。洗濯物を干してきたことを若干後悔しながら講堂のドアを開けた。

中はまだざわついている。しかし、自分が入ってきたことによりそれは徐々に静まっていく。聖壇までの数メートルをゆっくりと歩きながら、マリア像を見た。

マリア像は古びていて、所々塗装が剥がれかけている。先月の職員会議で近々修復が施されることが決定したと校長が説明していたのを思い出した。

「今日は牧師の先生が出張のため、代理で行います」

事務的に告げ、事前に確認していたマニュアルに従って礼拝を進めていくと、途中で挙手が起こる。

「センセ、しつもーん」

「何?佐々木」

声の主を確認して、無視して進めようかとも思ったが仕方なしに指名すると彼は立ち上がり、ニヤつきを抑えられないその顔でこう問いかけてきた。

「そのー、マリアって処女っしょ?処女ってことは経験ないんっしょ?それでも子どもデキちゃうってどういうことっすか?」

予想通り幼稚な下らない質問だったことに浅い溜息をつくと、佐々木大光の後ろの生徒が彼の後頭部を聖書で叩く。

「いって!何すんだよ克樹!俺はあいつの聖壇デビューの応援してやろうと…」

周りで笑いが起こる。あまり長く付き合うと礼拝が時間通りに終わらなくて後で自分が叱られかねない、そう判断してにっこりと微笑みながらその質問に答えた。

「子どもはまだ知らなくていいんだよ。そんなこと考えている暇があったら英単語の一つでも覚えた方がいいんじゃない?」

ばっさりシャットダウンして礼拝を終え、通り過ぎざまにその生徒の頭を小突くと、へへっと笑って得意げにこう言い放った。

「どうよ?聖壇デビューは?俺のエール届いた?」

「何がエールだよ。授業妨害だから。担任に報告しとくからね。多分罰としてニワトリ小屋の掃除させられると思うけどまあ自業自得だよね」

「え、ちょっと待てよ。それだけはカンベン!分かった、購買のドーナツ2つで許せ!」

「牛乳もつけてね」

昼休みに屋上に出向くと、約束通りにドーナツ2つと牛乳を用意した大光と、周りにいる数人と一緒に昼ご飯を済ます。

「けどさー先生ホント先生に見えないよね。制服着たら普通に馴染みそう。大光の方がオジさんだし」

スポーツドリンクを飲みながら菅田琳寧が言う。うんうんと周りも頷いていた。

「誰がオジさんだよ。そういやここの卒業生だったっけ?」

ドーナツをかじりながら、生徒達の質問に答える。在学中はあまり屋上で昼休みを過ごしたことはないから不思議な気分だった。

「そうだよ。まあ先生であり先輩だよね。もうちょっと敬ってくれてもいいと思うんだけど」

「なんで母校の教師になろうなんて思ったんですか?恩師がいる…とか?」

弁当の箸をかじりながら、矢花黎が問う。

「恩師ねえ…」

問われて、一瞬だけとある顔が浮かぶ。しかし可笑しくてそれを即座に封じ込めた。

「恩師というより反面教師かな。ああはならないでおこう、みたいなのはいたけどね。あ、予鈴鳴った」

5限は担当教科の授業があったから少し早めに教室に行っておきたかったのを忘れていた。立ち上がり、向かおうとすると呼び止められる。

「落としたよ、先生。何これ?ミュージカルのチケット?こんなん観るんだ先生」

今野大輝が拾って手渡してくれようとした。忘れないように、と直にポケットに入れておいたそれが落ちたようだった。お礼を言って受け取ろうとするとサっと横取りかのように大光がチケットを手にまじまじと見て読み上げる。

「なになに…劇団神7定期公演ミュージカル…あー知ってる。最近売れてきてるんだろこの劇団。中学の同級生がファンだっつってた。こういうの好きなんだ。見えねー」

「好きって言うか…古い知り合いなんだよ。チケット送りつけてきたからまあ行ってやってもいいかなと思って」

チケットを取り返しそう言うと、ちょうど通りかかった同僚を指差す。

「あいつと共通の知り合いね。多分、あいつももらってるはず」

「え、谷村先生が?うっわ余計に分かんねーあの人ミュージカルとか観んのかよ」

急に自分の名前を呼ばれてビクっと谷村が反応するのを可笑しく見ると、後ろでボソっと呟き声が聞こえた。

「谷村先生と仲いいんだ、先生…」

「仲いいっていうか谷村もこの学校の卒業生だからね。さっきも言ったけど共通の知り合いだから」

先生、と呼ばれることにまだ慣れていない嶺亜はその生徒…本髙克樹を振り返り、そう答えた。

本鈴が鳴る。小走りで美術室に向かい、嶺亜は授業を始めた。数年前は生徒として過ごしていたこの教室に、今は教壇に立って教鞭を振っていることに不思議な感慨を抱きながら、定時まで業務をこなす。そうして仕事を一区切りつけると職員室内の一角に向かった。

「まだ終わんないの?545分のバスに乗らないと間に合わないよ?置いてっていい?」

「あ、ちょっと待ってこの資料だけ作成したら…さっきまでパソコンの調子が悪くて思うように進まなくて…」

あたふたとパソコンのキーボードを叩く谷村の後ろで溜息をつくと、珍しく校長が寄ってきた。

「中村先生、谷村先生も今日は急ぎの用事があるから定時であがらせてくれと言ってなかったか?大丈夫なのか?」

校長は新任の嶺亜と谷村にはまだ厳しい一面を見せない。在学中は教頭だったが一昨年から校長に就任したそうだ。先輩教師の間では厳格な教育者として一目置かれている。

「ありがとうございます。谷村先生があと少しとのことなので…ちょっと後ろで応援を」

「そうか。まあ仕事はきちんと仕上げてもらあわないとな。ああ、それと…」

校長は周りを見渡しながら、それまでとは少し声のトーンを落として嶺亜と谷村にだけ聞こえるようにこう呟いた。

「彼に会ったら、こう伝えておいてくれ。私も都合が合えばいつか観に行くかもしれない、と」

「はい。喜びますよ」

そうしてバスの発車時間ギリギリに間に合い、二人で乗り込む。乗客は嶺亜と谷村の他に数人だけだった。

「ちゃんとチケット持ってるよね?」

なんとなく確かめると、谷村はゴソゴソと鞄を探り始めた。しかしなかなか見つけられず不安が伝わってくる。まあ、なかったら置いていこうと嶺亜が思っているとようやく鞄の底で見つけたらしく、「あった…」とボソっと呟いた。

「良かった…なくしてたらどうしようかと思った…」

谷村の握ったチケットはくしゃくしゃに折れていた。それを引き延ばしながらその券面に刻まれた文字を嶺亜は確認する。

そのチケットにはこう印刷されていた。

『劇団神7 1stオリジナルミュージカル 主演:岸優太 出演:髙橋颯… 協賛:羽生田グループ』

今年、母校である聖神7学園の美術教師として採用が決まり(奇しくも谷村も同じく物理教師として採用された)社会人としての新生活の準備でドタバタとしている中、嶺亜の元に一通のLINEが届いた。

それは岸からのもので、彼は色々あって今、自分たちで劇団を立ち上げてその稽古に勤しんでいるという。その劇団には颯もいて、そして挙武が家を継いで若き社長として就任し、岸たちの劇団のスポンサーになってくれたという内容だった。近々単独公演を開催する予定だから是非来て欲しい、と。

岸は別れ際にああ言ったものの、それから一度も連絡をよこさなかった。ちょうど嶺亜も一念発起して美大の進学を目指していたからその忙しさの中で自分からも連絡を取ることはしなかったから実に4年もの月日が流れていた。