文化祭の次の日には余韻に浸る間もなく期末テストの準備がやってくる。職員室内の雰囲気もすでに切り替わっていて慌ただしい。
「岸先生、明日牧師が出張だから礼拝の代打頼む」
前日にそう告げられ、岸は聖書を持ちながら礼拝堂の前に立つ。吹き抜ける冷たい風はもう冬の訪れを告げていた。
「…」
何故かぼんやりと、春の記憶が蘇る。緊張しながらこの横を通り過ぎた時のことを。
どんな教師になりたい、とか何を成し遂げたい、とか具体的な目標はなかった。理想に燃えていたわけではなくただ自分に出来るだろうかという不安の方が大きかった。
毎日の忙しさから、その不安はいつの間にか払拭されこの生活にも慣れていたように思う。案外順応性はあるようだった。
この先もそうなのだろうか。
ふと、そんな思いがよぎった。来年の春には担任を持って、部活動の顧問なんかもして…
しかしそんな未来予想図はすぐに吹き散らかされていった。なぜか思い描けない。
その答えはここにある…そんな予感と共に岸は礼拝堂のドアを開けた。
「…」
聖壇までの道を、岸は少しゆっくりめに歩いた。視界には神宮寺、玄樹、挙武、谷村、颯…そして嶺亜が次々に映し出される。まるでスローモーションのように。
マリア像の真下が聖壇になっている。岸はそこに立ち、マリア像を見上げる。
まるで、磔になったキリストの気分だった。
「では礼拝を始めます。まず、黙祷」
そんな微かな精神のざわつきを抑えながら、岸は礼拝を進める。いつものように、真面目に参加している者、居眠りをする者、内職をする者…様々だった。そう、なんら変わりのないいつもの光景だ。
10分間の礼拝は、ほぼ自動的に終わろうとしている。最後に主祷文を全員で唱え、これで終了となる…はずだった。
「…?」
周りの視線がそこに集中した。挙手をした生徒がいる。岸はその生徒の名を呼んだ。
「挙…羽生田?どうした?」
指されて、挙武はゆっくりと立ち上がった。その眼は鋭く、まるで審判のように裁きを求めているように見える。
「先生に読み上げていただきたい一節があります」
挙武は普段岸を「先生」とは呼ばない。今は礼拝中だということを差し引いても一歩引いた、冷たいその声にしかし岸は不思議と落ち着いてそれを聞く自分を自覚した。
「マタイによる福音書、第5章の27節。それを読み上げてくれませんか?」
俄に周りがざわつく。挙武の前に座っている颯は驚いた表情で彼の方を振り向いた。少し離れた席の神宮寺と玄樹も不思議そうに視線を挙武に合わせる。谷村は岸のいるところからは見えない。そして嶺亜は…
「…」
張り付いたような能面で、ただ真っ直ぐ前だけを見ていた。
「マタイによる福音書、第5章…」
岸は聖書をめくる。熟読している者ならすぐにどのあたりかピンと来るのだろうが、岸はそうではない。そのページを開くまで分からなかった。
そして、それを読み上げた。
「汝、姦淫するなかれ…」
またざわつきが起こる。しかしそんなこととはお構いなしに、挙武は鋭い視線を岸に飛ばしながら誰にでもはっきりと聞こえる声でそれを言い放つ。
「あなたは、生徒と姦淫したのではないですか?」
「挙武…何を…」
颯が挙武の名を呼んだ…気がした。
岸がそれを認識する前に、挙武の指はそこを指していた。
「そこにいる、中村嶺亜と」
その直後、礼拝の終了を告げる鐘が鳴った。