「じゃあね颯、岸に言っといて。今日は病院だって」

HRが終わると同時に嶺亜は教室を飛び出して行く。それを見送って颯は日誌を職員室に届けに行く。今日は日直に当たっていた。

「失礼します」

担任のデスクに日誌を置く。職員室では教師がそれぞれの校務に向き合っている。室内をなんとなく見渡すと岸の姿があった。

「…」

知らない教師と何やら和やかな雰囲気で談笑している。その顔は颯があまり知らない教師の顔だ。

颯が岸を初めて見たのは今年の着任式だ。入学式の前日にそれは行われる。講堂の舞台に立ち、校長から紹介されてガチガチで自己紹介を始め、かみまくりで笑いが起きていた。

だけど颯は笑わなかった。いや、笑えなかった。

その一生懸命で真っ直ぐで、潤んでいたであろう瞳から目を反らすことができなかった。自分でも自覚できるくらいに魅入られていた。

この世に神を見た人がいるかいないかは知らないが、きっとこんな感覚なのだろうな…と思う。理屈ではなくどこか精神の奥深い部分に訴えかけるもの…それが颯にとっての岸だ。

自分のこの感情が世間でどう呼ばれているのかには興味がない。ただ颯は岸を見ていたかった。その姿を追い続けていたかった。その、ステンドグラスのように色鮮やかな瞳を…

するとふいに、その瞳がこちらを向く。瞬間、颯の心臓は跳ねる。

「あ、颯、いいところに!あのさ、嶺亜に伝えといてもらいたいんだけど、この後の練習でさ…」

「すみません岸先生。嶺亜は今日、病院みたいで…」

鼓動を整え、颯は答えた。

「え、そうなの?そっか…じゃあ本番まであと2回くらいしか練習できないな…明日は使用表埋まってるし」

腕を組んでうーんと悩むその姿に颯は自然と癒やされる。浄化作用が岸にはあるようだった。

「寮で練習しようかなんて言ったら嫌がるだろうなあ…じゃあまた次の練習日にするか」

「一応相談してみましょうか?俺も練習したいし」

それは半分本音で、もう半分は岸と一緒にいる時間を少しでも作りたいという思いだ。颯は提案した。

「ホント?頼んでいい?あ、そうだ。ガブリエルの衣装でさ、こないだ羽の部分にほつれがあったじゃん?あれってもう直ってる?」

「あ、そう言えば…確か神宮寺達にお願いして、挙武が持ってきてくれてると思うんですけど…」

衣装を収めてある講堂の楽屋まで並んで歩く。岸は颯より数センチ背が低い。それに気付いたのは最近だ。こうして生誕劇の練習で接する機会が増えて、岸に関する小さな発見が増えていく。それは颯にとってこの上ない喜びだった。

「あったあった。これだ。うん、ちゃんと直ってる。神宮寺と玄樹のどっちがやってくれたのか知らないけど案外器用だなー。あ、博士の帽子も見とこうかな…」

講堂の楽屋には生誕劇以外のものも沢山収納されている。この時期は衣装ケースやダンボールでいっぱいになり、バランス悪く積まれているから気をつけないと雪崩を起こしてしまう。狭い室内で寄り添うように颯は岸と衣装のチェックをした。

「えっと…あ、これこれ…うわっ!」

岸が博士の帽子をダンボールから取り出そうとすると、足下に黒い物体が動く。部屋は埃っぽいし決して清潔ではないからもしかしたらゴキブリの類がいたのかもしれない。颯は平気だったが、岸は苦手なのか仰天して避けようとして体ごと積んであるダンボールにぶつけた。

「岸先生、危ない!」

積んであるダンボールがバランスを崩してグラグラしだす。これが崩れてきたら岸が下敷きになってしまう。咄嗟に颯は岸を守ろうと覆い被さった。

懸念通りダンボールが落ちてきて次々に背中や頭を打ってきたが全く痛みを感じない。痛みよりも強烈な感覚が全身に走っているからだ。

それは岸の体の感触…それがダイレクトに自分に伝わってくる。

「いてて…颯、大丈夫?」

すぐ側の耳元で響いてくる岸の声…その際発せられた息が頬を撫でる。

どくん、と心臓が大きく脈打つのを颯は自覚した。あまりにも大きな鼓動だったから、密着した体を伝って岸にバレてしまわないか焦った。

こんなに近くで岸の声を聞いたことがない。こんなに近くに岸の吐息を感じたことがない。それは颯の体温を急上昇させた。

「颯?どした?どっか打った?」

心配する岸の声がまた耳を撫でる。だが颯は動けない。岸に覆い被さったままその体勢を直すことが出来なかった。頭では早く立ち上がって「全然大丈夫です。岸先生も大丈夫?」と答えなきゃいけないのに…

「岸先生、俺…俺…先生のこと…」

代わりに飛び出したのはそんな言葉だった。自分の意思とは無関係に発せられる。瞬間的に動揺は頂点に達した。

気持ちを伝えようなんて思ってもいなかったのに。どうして…

矛盾する自分の感情に、颯はパニックになる。この先の言葉を口にしたらもう後戻りができない。瞬間的に天秤が揺れた。

岸が受け入れてくれるはずがない。だけど、感情が暴走してしまってそれはついに自分から放たれてしまう。そうしたらもう、これまでのように接することが出来ないかも知れない…

それでもいいのか。自問いが脳の奥で数万回のこだまとなって乱射される。

颯が決断を下す前にしかし、やはり耳元でそれが鳴り響く。

「颯、大丈夫か!?お前に今何かあったら生誕劇崩壊だからどっか痛いとこがあるんならすぐ保健室行こう!どこ?頭?背中?」

必死なその声に、颯はあれだけ大きく波打っていた感情も鼓動も驚くぐらいに引いていくのを感じる。それと同時に起き上がっていた。

心配して自分を見上げる岸の顔を、自分でも不思議なくらい冷静に見下ろしていた。

そしてこう答えた。

「大丈夫だよ。俺、先生のこと…守れて良かった。俺より岸先生に何かあったら生誕劇出来なくなっちゃうから」