「谷村ありがと。助かった」
一瞬、谷村は幻聴かと疑った。だが紛れもなくその言葉は目の前の嶺亜から発せられている。
「いや…」
どう返して良いのか分からず口ごもっていると嶺亜はさっさと鞄を掴んで教室から出て行った。そのまま恐らく校門を出て麓のバス亭に急ぐのだろう。
谷村は、自分のしたことは決して褒められるべき行為ではないことは分かっていた。だが考えるより先にそれをしてしまっていた。
6限の物理の授業で、抜き打ちの小テストが実施された。一定の点数に達しなかったら放課後に追試を受けなくてはならないという。当然ながら生徒からは大ブーイングだ。
そのブーイングに混じって、後ろの席の嶺亜が、その隣の席の颯にぼやいている。
「追試なんかしてたらバスの時間間に合わないじゃん…N市の病院まで日帰りで戻ってくるには4時15分のバスに乗らなきゃいけないのに…!」
病院…?あぁ、栗田のだな…と谷村は思い至る。確か意識不明の状態から反応があったと聞いた。きっとその様子を毎日見に行っているのだろう。
栗田と嶺亜の仲が良いことは谷村も熟知していた。何せ栗田は谷村のルームメイトだから、嶺亜もしょっちゅう部屋に来ていた。
「70点取ればいいんだから頑張ろうよ。それに、もしダメでも事情を話せば…」
颯がそう言ったが嶺亜の声は暗く、苛立っている。
「70点なんて無理。僕最近物理の授業ずっと寝てたし。それに事情話してる間にバス来ちゃうよ。HR終わってすぐに出なきゃ間に合わない。ただでさえうちのクラスのHR長いのに…。さすがに追試すっぽかしたら面倒なことになりそうだし、どうしよう…もう…」
「俺が答案見せてあげるよ」
気が付けば、谷村は後ろを振り向いてそう耳打ちしていた。嶺亜の驚いた顔がそこにあったが、すぐに彼はほっとしたように頷く。
「頼む。お願い。谷村だったら70点なんて余裕だよね?」
谷村は頷く。そしてテスト中に教師が見ていない隙をついて嶺亜に答案が見えるようにずらした。勿論、他の生徒にもバレないように…
そしてそれは上手くいく。机の位置が端だったのが幸いだった。
谷村は満点近かったが、嶺亜も用心深く全てを写さず適度に空欄を作ってギリギリ70点を超える程度に収めた。
カンニングがバレたら厳重注意だろうが、致し方ない。自分でも何故こんなリスクのある行為をしようとしたのか分からない。嶺亜が困ろうが、谷村には関係がない。別に嶺亜に恩があるわけでもなんでもない。むしろ普段少し小馬鹿にされているからそんなことをする義理もない。
だけど谷村はそうした。そして、それでいいとすら思っていた。何故か清々しささえあった。
だから気持ちを切り替えて生誕劇の練習に向かおうとした。教室を出たところで、クラスメイトの一人に声をかけられる。
「おい谷村、星の衣装今日合わせるからな。ほつれ直してるよな?」
「あ」
しまった、と谷村は片目を閉じる。小道具係の嶺亜が殆ど練習に参加しないから、自分で直すことになって昨日悪戦苦闘しながら直したが、鞄に入れるのを忘れてしまった。
寮に取りに戻らなくてはならない。急ごうとしたが、その途中で担任に声をかけられる。進路指導の面接があったのを忘れていた。
結局、谷村が衣装を取りに戻れたのは練習もそこそこ進んでいるであろう時間だった。追試組も合流していると思われる。
走って寮に戻り、靴を脱いでロビーを通ろうとした時、誰かの叫び声が轟いた。
「…?」
知らず、その声のした方へと谷村は向かっていた。本能的なもの…何かが起こったという予感に他ならない。
「え…」
その光景に、谷村は絶句する。鞄が落ちた音を遠くに聞いた。
「岩…橋…?」
自分の視界に、血のついたカッターナイフを握って泣きながら震えている玄樹が映っている。それが現実のものなのか、幻覚なのかを認識する前に背後からざわつきが聞こえてきた。
玄樹の足下には、血の滲んだカッターシャツを抑えて蹲る誰かがいた。