欠伸を噛み殺しながら岸は職員室のドアをスライドさせた。中には教頭と、数人の職員がデスクに向かっている。入ってきた岸を見て珍しいものを見るような目を向けた。

「どうした、こんな早くに珍しい」

皆が一斉に時計を見る。それはまだ午前7時前で、岸は苦笑いで頭を下げる。

岸は朝が弱い。故に勤務時間の30分前出勤がせいぜいで、その代わりに独身の強みで放課後は夜遅くまで残ってカバーしている…つもりだ。だがこの日は1時間以上も早くに職員室に到達した。

「いやその、仕事が溜まってて…放課後は練習に付き合いたいんで…」

それは事実だった。新米とは言え校務は多い。いつも放課後にそれらを片付けるのだがここのところ生誕劇の練習の方にかまけてしまって仕事が溜まっていた。今日も練習があるから朝来てやるしかない。

「練習?あぁ31の生誕劇?けっこういいそうだね。歌の上手い子がいるんだろ?」

「髙橋でしょ。私もこないだ通りかかった時聞聴きましたよ。とてもいい歌声で…楽しみね、岸先生」

どうもどうもと頭を下げてさて仕事…とスケジュール帳を開いてそれに気付く。今日の礼拝堂の当番に当たっている。当番は礼拝堂に飾る花を花瓶に挿して水を入れたり、礼拝堂に何かものが落ちてないか、などの見回りを礼拝が始まるまでにしなくてはならない。始まる時間までのいつやってもいいが、こっちを先にしておこうと岸はそれ用に栽培されている花壇で適当に何本か拝借した。

花束を片手に、岸は礼拝堂の扉を開ける。勢い余ってちょっと派手な音がしてしまったから中にいた誰かがこちらを驚いた顔で振り返った。

「あれ?嶺亜…」

中にいたのは嶺亜で、少し鬱陶しそうにこちらを睨んですぐに踵を返した。彼がいたのはマリア像の真下で、何をしていたんだろう…と思う間もなく通り過ぎようとする。

「おはよ。早いじゃん。びっくりした」

「そっちこそ。なんだってこんな時間にそんなもの持ってこんなとこ来たの」

相変わらずの態度のように思えたが、心持ち表情が明るい気がした。昨日颯と挙武に聞いた情報がよぎる。

「俺は礼拝堂の当番だからだよ。花の用意と礼拝堂の簡単な見回り点検。先生は仕事が多いんだよ。生誕劇の練習も佳境に入ってきたから放課後も忙しいし」

「先生ねえ…あ、僕暫く練習出られそうにないからよろしく」

「うん。分かってる」

快諾した岸を、嶺亜は少し怪訝な表情で見つめた。

「変なの。前までは小道具作れ作れってうるさかったのに。小道具誰かがやってくれることになったの?」

「いや…まあ、みんなで手分けすれば出来ないこともないよ。大道具はあらかた出来上がってるし」

「もしかして、颯か挙武になんか訊いた?」

隠し事ができない性格の自分と、鋭い嶺亜の勘があいまって、岸はあっさりと白状してしまった。栗田のことを訊いたことを。

それを嶺亜は浅い溜息をついたがしかし、マリア像の方を見やってこう呟いた。

「そっか、栗ちゃんのこと聞いたんだ。まあ別に隠すようなことでもないけど」

意外にも嶺亜はそのまま話し続けた。これまでなら「岸には関係ないでしょ」と一蹴されているだろうが。

「栗ちゃん…」

栗ちゃん…というアダ名が出たことからも、仲が良かったことが窺い知れる。どんな子か岸は会ってみたくなった。

「栗ちゃんね、1年の時にあのマリア像に登ってあわや停学になりかけたんだよ」

「え!そりゃまた大胆な…」

そんな突拍子もない行動はいくら岸でもしようとは思わない。第一、どうやって…とその方法を考えていると嶺亜は続ける。

「その他にも、礼拝中に携帯で動画見て大声で笑い出したり、礼拝堂でキャッチボールしてステンドグラス割ったり屋上で打ち上げ花火したりして、本当に破天荒だったの。いつ退学にされやしないかと僕はヒヤヒヤしてた」

とんでもない問題行動の数々に、岸は戦慄した。会ってみたいと思ったが、今ここにいたらどう指導していいのか分からない。先輩教師達が頭を抱える姿が目に浮かぶようだ。

「でも僕は、そんな栗ちゃんといると本当に楽しかった。だから…」

嶺亜の瞳は真っ直ぐにマリア像に向けられていた。そこには強い感情が宿っている。

栗田という子のことを、本当に好きだったんだな…岸くんは思った。

「もう一度、栗ちゃんと一緒に過ごせますようにって毎日ここで祈ることにしたの。早く目を覚ましてここに戻ってきてくれますように、って」

その瞳に宿った強い感情はすでに色を変えていた。

そうなって欲しいという強い願い

しかしそれとは裏腹に、そうならないかもしれないという不安

それらが混ざり合い、ひどくいたいけな、儚い瞳の色を認識したと同時に岸は嶺亜に突き飛ばされていた。

「いきなり何すんの。何の冗談?」

「え、あ…あれ?ごめん。えーっと…」

岸も戸惑う。突き飛ばされたのは嶺亜に抱きついていたからだ。そんなことをするつもりは全くなかったのに…

自分でも良く分からず、また元通り冷たい視線が飛んできて岸は取り繕いながら礼拝堂の花瓶の花を飾る。嶺亜はスタスタと礼拝堂から去って行った。

一通りやることを終えた後、礼拝堂を出る前に岸はマリア像を振り返る。

そしてこう祈った。

「嶺亜の願いをかなえてあげてください…マリア様」