「岸先生遅いなあ…10時に始める約束だったのに」

寮の多目的ホールで、颯と玄樹は岸を待っていた。10時半を過ぎたが岸はまだ来ない。一度、玄樹が岸の泊まっている部屋をノックしたが返事はなかった。携帯電話を鳴らしても反応はない。

「もしかしたら学校に行ってるのかも。仕事が残ってたとか僕たちのために資料を用意してくれてる、とか」

玄樹がそう推測すると、颯は頷く。

「そうかもしれないね。あ、神宮寺は?来るんじゃなかったっけ?」

「…うん。昨日の晩はそう言ったんだけど…今朝はいくら起こしてもあと5分あと5分って一向に起きないからもう諦めて出てきた。また後で呼びに行ってみるけど…」

浅く溜息をついた後、玄樹はふっと笑う。

「時間にルーズなのは神宮寺も岸くんも同じだから、待ち合わせをするといつも僕が一人で待ちぼうけになるんだ。なんだかその時を思い出しちゃって…」

玄樹は岸と幼馴染みだ。だから颯の知らない岸を知っている。そこに興味があった。

「岸先生ってやっぱり昔から優しいの?頼りになるし一生懸命だし皆から好かれてたんだよね?」

憧れでキラキラした颯の瞳を見ると、玄樹は益々笑いがこみあげてくる。それが堪えきれなくて吹き出してしまった。

「岸くんのこと、そんな風に好意的に見てくれる人の方が珍しいよ。明るくて人から好かれるのはまあそうだけど…抜けてるしドジだし突拍子もないことするし…。大抵岸くんがやらかして、僕と神宮寺がフォローしてるからね」

「そうなの?でも面倒見が良さそうだし、教師を志すくらいだからリーダーシップ取れる人柄なんだと俺は思ってるんだけど」

どこまでも颯は岸を神聖視しているようだ。玄樹はしかし、その気持ちも分からなくはない。

「まあ…面倒見がいいかどうかは置いといて、側にいてくれたらホッとする人ではあるかな…確かに小さい頃は年の差があるから優しくて頼りになるって思ってたところもあるし。転んで泣いてたら励まして家までおぶってくれたこともあったっけ…」

「そうなんだ!やっぱ優しいんだね。昔から」

「うん…優しいのに、押しつけがましくなくて自然と助けてくれるところが僕は大好きだった。僕はいつも岸くんの背中を見てて…」

そのエピソードを色々と語るうち、玄樹の中に懐かしさとはまた別の感情がこみあげてくる。もうとっくに自分の中では消滅したものが…

颯の不思議そうな顔に気付いて、慌てて玄樹がそれを封印しようとするとドアが開く。入ってきたのは神宮寺だった。寝癖でボサボサの頭を掻きながら、大きな欠伸をしていた。

「何?岸くんまだ来てねーの?まーた寝坊かよ」

「人のこと言えないでしょ。多分岸くんは学校に寄ってるんだと思うよ。それよりその寝癖…ちゃんと直してからおいでよ。まだ岸くん来そうにないし」

神宮寺が来たことで、ホッとしている自分に玄樹は気付く。ほんの少しの罪悪感を抱えていると颯は発声練習を始めていた。

「ちゃんと歌えるようになって、岸先生にも早く安心してもらいたいから頑張らなくちゃ」

その純粋な颯の瞳を、複雑な心で玄樹は見た。