颯と玄樹が岸の稽古を終えたのは10時過ぎだった。熱が入っているから抜けにくいのもあるが、純粋に楽しんでいるのもある。特に颯なんかはまだやりたそうだった。

「うわ、もうこんな時間かよ?ごめんごめん、付き合わせすぎた。明日は二人の都合のいい時間でいいから」

手を合わせながら岸は頭を下げる。そんなところも昔とちっとも変っていない。玄樹は疲れも忘れてクスリと笑った。

「でもおかげでセリフがちゃんと入るようになったよ。皆の前だとやりにくいし、こうやって個別に指導してもらって僕は良かったかも」

「俺も!岸先生にこんなにしてもらえるなんて…絶対成功させなくちゃ」

颯は感激しながら興奮気味だ。彼は誰の目にもはっきり分かるくらい岸を慕っている。玄樹もそれは知っていた。

「ありがと二人とも。そう言ってくれると俺もこの指導を買って出た甲斐があるよ。俺にとってもこの生誕劇はけっこう思い入れあってさ…」

それは初耳だった。何せ高校生の頃の岸はそのほとんどを寮で過ごしていたから玄樹と神宮寺は夏休みなどの長い休みにしか会えなかったし、その貴重な時間にわざわざそんな話はしなかったからだ。

「最初はさ、違う奴がガブリエルやる予定で、俺は大道具だったんだよ。でもそいつが事故に遭って…一命はとりとめたんだけど、下半身に損傷が残って、歩行困難な状態になって。すげー人気のある奴だったし歌も演技も上手かったから正直、誰も代役やりたがらなくて」

「へえ…」

その話を聞いて、玄樹はふとある人物が頭をよぎる。颯も同じらしく、少し神妙な顔つきをしていた。

「元々そいつがクラス引っ張ってたし、それが原因ってわけでもないんだけど…なんかこうガタガタっとクラスの絆が崩れ始めちゃってさ、もう辞めようかってなった時にお見舞い行ったらなんでか分かんないけどそいつが俺を代役に指名してきて…」

「岸くんを?なんで?」

「俺も耳疑ったよ。俺ってそんなガラじゃないじゃん?皆の前で歌うとかさ…絶対無理!って思ったんだけど…」

岸は窓の外を見た。相変わらずまっ暗だった。

「そいつが言うんだよ。岸がガブリエルやってくれたら、俺もリハビリ頑張れるって。そいつの親にまで言われちゃってさ、この子のためにも…って。さすがに断れなくて」

「へえ…でも、岸くんを指名したその人の気持ち、ちょっと分かるな」

「え、なんで?…まあとにかく俺はそっから死にもの狂いで練習したわけよ。そんで文化祭当日、そいつが車いすで観に来てくれて…終わったあと、クラスみんなで達成感で号泣したんだよな…だからなんか、そん時の気持ちが蘇っちゃって…」

「そうなんだ…そんなこと聞いちゃったら僕たちも頑張らないわけにはいかないよね、颯?」

「うん!岸先生、俺明日一日中いけますからいつでも呼びに来て下さい!」

「ありがと。明日は谷村にもちょっと付き合ってもらいたいかな…あいつ、どうも自信なさげだしこれを機にちょっと自信つけてほしいかなと思って」

「うん分かった。声かけてみる。じゃあまた明日」

ちょうど風呂場の前を通りかかり、颯は予めもってきていたセットを手に風呂場に入っていった。その後ろ姿を見送ると、岸は伸びをする。

「俺も後で入ろ。俺さ、在学中に風呂場の水道壊したことあって…そん時寮長さんにすげー怒られて暫く風呂入るのも怖かったんだよ。あの右から二番目のやつな。だから多分そこだけちょっと新しいと思うぜ」

「え、そうなの?後で確かめてみよっと」

玄樹と神宮寺の部屋の前まで来ると、岸は2つ隣を指差す。そこは今は2年生が入室している。

「あそこが俺の部屋だったんだ。いやー懐かしい。ベッドに彫ったラクガキ、まだあるかなー」

「そんなことしたの?ホント、岸くんって自由だね」

笑っているとドアが開く。待ちくたびれた神宮寺が若干膨れっ面だ。

「おせーじゃねーかよ」

「あ、ごめん。俺がこんな時間まで付き合わせたから…てか神宮寺、お前も来いよ。セリフ覚えらんねーんだろ?」

岸が誘うと、神宮寺は決まり悪そうに頭を掻く。

「勘弁してくれよ。俺、今からでも挙武に変ってもらえねーか打診しようとしてたくらいなんだし」

「もう…頼りなさすぎ。挙武に変ってもらってもいいけど、その代わりマリアとヨセフのキスシーンが追加されても文句言わないでよ?」

嶺亜に言われたことをそのまま神宮寺に言うと、彼は不満げに口を尖らせた。

「わーったよ。やりゃいいんだろ。やりゃ」

「その意気その意気。神宮寺だって本気だしゃセリフの一つや二つわけないだろ!明日は一緒にやろうな!」

岸が去って行った後、部屋に入った玄樹は台本を広げて神宮寺にセリフ練習の相手をしてもらうよう言ったが…

「それよりもさ、俺さっきまですげー待ちぼうけだったんだから少しくらい癒やしてくれてもいーんじゃね?」

神宮寺は後ろから玄樹の首に腕を回す。その意味をすぐに察知して、仕方ないなあ…とそれに答えようとした時、いきなりドアが開いた。

「玄樹!神宮寺!三人で風呂入ろう!背中流してやるよ!」

無遠慮な岸の声が響き、一瞬の沈黙の後彼は気まずそうにドアを閉めた。