「岸先生、まだ残ってたのか。そろそろ切りあげたらどうだ?働き過ぎは良くないぞ」

「あ、ハイ」

先輩教師に声をかけられて岸はリモコンを操作して電源を切った。

「何を見てたんだ?」

「生誕劇っす。自分が演じた時の…。これ見て思い出して指導しなきゃって思って」

「生誕劇?ああ、毎年恒例のあれか。今年はどのクラスがやるのか知らんが君が指導なのか。経験者なら適任だな」

「そうなんす。俺、どうも生徒の皆に軽く見られがちだからここらでちょっと頼りになるとこ見せとかないと」

先輩教師は声をあげて笑う。

「そうだな。実際俺も「岸先生」なんて呼ぶことにまだ抵抗があるからな。ついつい岸って言ってしまう。まさかあの岸と同僚になるなんてな。変な感覚だ」

「言わないで下さいよ…今日だって牧師の代打で礼拝担当したんですけど冷やかされるわけっ躓いて笑われるわで…」

そんな話をしていると門に辿り着く。立派なマリア像の向こうに隣接する寮が見える。点々と灯りが灯っていた。

「懐かしいか?」

「懐かしいですねー。あそこで育ったようなもんですから俺は。みんな今頃何してんのかなー」

学生時代の思い出に浸っていると、段差に躓いてこけ、顔面を強打した。

翌日、鼻に大きな絆創膏を張って教室に入るとまた爆笑が起こる。

「岸くんなんだよその顔~!!マジウケる!!なんのギャグだよ」

「うるさい神宮寺。授業中だから私語は慎め。それよりちゃんとヨセフのセリフ覚えてきたんだろうな?」

「文化祭までには覚えるって。けどその顔で指導されるとマジ笑っちゃうから早く治してくれよな」

周りではクスクス笑いが起きている。こんな調子で生誕劇の指導なんかみんなまともに聞いてくれるのかな…と心配になる。勢いよく買って出たはいいが…

放課後、第一回目の練習が講堂で始まる。大道具や小道具はまだだが実際の舞台で練習した方がいいと岸が提案したのだ。

「うおー懐かしい…俺も5年前はここで…」

「ほらほら感慨に浸ってないで。稽古始まるよ」

台本を持ちながらの稽古が始まる。だがいかんせん照れやいい加減さが先立ち練習に身が入らない。真面目にやっているのは玄樹と颯ぐらいだ。

「で、この時博士が持つ本を小道具に作り直してもらわないといけないから…って小道具どこ行ったの?嶺亜は?」

「あれ…HRの時はいたのに」

「またサボリかよ。ったくしょーがねー奴だな。誰か呼んで来いよ。どっかにいるだろ」

学校を出るには許可がいるし、仮に出たとしても遊べるような中心街まではバス電車を乗り継いでかなり時間がかかる。そんな中で普段学校外に出ようとする者など殆どいない。

颯が買って出たが、生憎彼は重要な役に当たっているが故に出番も多い。結局、大道具担当の挙武が呼びにいくことになった。

挙武には嶺亜が何処にいるのかだいたいの検討はついていた。だから迷いなく校舎を歩く。

窓の外に広がる山々が、赤や黄に色づいてきている。秋はもの思う季節…と言い出したのは誰だったか…思い出そうとしたが記憶の引き出しは開かない。代わりに昨日の忌々しい記憶だけが蘇る。

『挙武、お前ももう18になるしそろそろ将来のパートナーを選び始めるのも悪くないだろう』

大事な取引相手主催のパーティーだから、家族揃って出席しなければならないなんて真っ赤なウソだ。…いや、100%ウソとも言い切れない。その中には仕事上大事な相手の娘もいたのだろう。それにしても迷惑な話だ。

思い出したらまた腹が立ってきた。挙武はその怒りを足に集中させ、目の前のドアを蹴る。それはスライドして勢いよく開いた。

「…何?びっくりするじゃん」

挙武の見当どおり、嶺亜はそこにいた。キャンバスの前で怪訝な表情をこちらに向けている。

乱雑に散らばった絵の具を除けながら、挙武は美術準備室の古くさいソファにどっかりと座った。

「俺はお遣いだ。小道具係を連れ戻して来いってな」

「なんかゴキゲンナナメじゃん。トンカチで指でも打ったの?」

応じるつもりのない嶺亜に、また苛立ちが増幅されてゆく。挙武は鼻を鳴らした。

「生憎だがお前を連れて帰るまでは俺もここを動く気はない。さっさと行くぞ」

「今日は無理。これ仕上げちゃいたいから」

嶺亜はキャンバスを指差す。まだ半分ほど白い部分が残っている。何を描いているのか挙武のところからは見えなかった。

「個人の出し物よりクラスの方が優先だろう。何を描いているんだ?」

覗き込むと、なかなかに荒々しいタッチの油絵で女性が描かれている。ヴェールを被っているからマリア像かもしれない。

「マリアだよ。で、隣を誰にしてやろうか迷ってんの」

「迷う?マリアの隣はヨセフかイエスだろう」

「そんなありきたりなのつまんないな、と思って。今朝も言ったけど、マリアって皆が思ってるような聖女じゃないって僕は思ってんの」

「今朝のあれか。今度牧師にでも言ってみろ。反省文ものだぞ」

笑いながら再びソファに座ると嶺亜は筆を取りながらにやりと笑う。

「イエスは誰の子だったんだろうね。それとも、マリアはもしかしたら…」

「もしかしたら?」

「同性愛者だったかもしれない。ヨセフはカモフラージュのために結婚させられたのかも」

またしても大胆な発想に、挙武はひとしきり声をあげて笑う。笑った後で嶺亜はキャンバスに下書きを始めた。

「隣に女の人でも描いてみよっかな。マリアが愛した女性…ロマンチックじゃない?」

生憎と挙武にはそういったロマン性はない。現実な意見しか出てこない。

「女同士じゃ子どもはできないだろう。ますますイエスは誰の子だったんだ?って話だ」

「う~ん…それはねえ…」

手を止めて考える仕草を嶺亜はする。ひどく女性的でしなやかなそれを見ながら、挙武はそろそろ連れて戻らないと皆がうるさいかもしれない、と思う。

嶺亜は言った。

「そのへんに捨てられてた子を拾ってきたのかもね。孤児だったのに救い主に祭り上げられるイエス…これこそ主よ、憐れみたまえって感じだね」