最終日 火の見櫓

 

 

谷村は途方に暮れていた。そんな暇はないはずなのに、いざそれを目の前にするともうどうしていいか分からなくなる。

ふもとから見上げる火の見櫓はまるでスカイツリー級に高く見えた。これを梯子でよじ登ってさらにその上で…

「…」

気が遠くなった。

無理だ。この高さはダメなやつ。登ってる途中で意識を失って落下してお陀仏のパターン…

今からでも岸くんか郁に変ってもらえないだろうか…頭を抱えて震えていると、後ろから声をかけられた。

「そこ登っちゃダメだよ。大人の人に怒られるよ?」

小学生くらいの男の子が、訝しげに谷村を見ている。自分ももうけっこういい年の大人なんだが、こんなところに入り込んでいるから変な奴だと思われたのかも知れない。火の見櫓の周りは一応高さ2メートルほどの金網で囲われ、出入り用のドアには南京錠がかけられている。その鍵を今谷村は手にしているわけだが…

「あ、うん…でも…」

「それにもう夜になるから早く帰った方がいいよ。化け物に食われちゃうよ」

大人なら遠回しに言うことを、子どもはストレートに言ってくる。もっとも、谷村のことをこの村の人間だと思っているからだろうが、それにしてもこんな小さな子にまで浸透しているというのは改めて驚きだ。

その子どもも、親に呼ばれてすっ飛んで行った。その後ろ姿を見て谷村は思う。

まだ、外で遊んでいたい時間帯なんだろうな…

夕暮れ時は暑さも幾分か和らぎ、まだまだ子どもは外で遊びたい時間だ。普通の村なら親が呼びに来ても「まだー」と言って延長が多少許されるのだろうが、この村にはそんな当たり前の光景はない。

日が落ちる大分前に、もう誰も外に出ていない。家々の雨戸は閉められその玄関先に奇妙なオブジェが置かれる。

改めて見るとその異常な光景に、谷村は先ほどまで抱いていた高所恐怖症の感情が少し引いていく。

火の見櫓を見上げながら、ここに来て数日間で見聞きしたことを一つ一つ思い出した。

「…」

共通するのは、この村にいる人達は全て「呪い」に翻弄されている。大樹が根を張るように、呪いがこの村を覆い尽くして支配している。

それをどうにかしたくて、谷村はこの本を翻訳したのだ。

なんとなく持ってきてしまっていた「背分村民話集」を谷村は手に取る。

ここに書かれていたことは真実なのか、それとも…

誰にも確かめる術はない。全てはやってみないと分からない。だからこそ皆で立ち上がった。それぞれの持ち場で待機しているであろう彼らに、谷村は今更ながらに翻訳した内容をそのまま信じてくれたことを有難く思った。どちらかと言えば普段、自分が何を言っても「あ?何フザけたこと言ってんだおめー!」と蹴っ飛ばされるのに…

いつもその蹴っ飛ばしてくる相手…栗田が最も危険な役目をあっさりと引き受けた。それはひとえに嶺亜のためだろう。彼はきっとそんな小難しいことは考えてなくて、シンプルに嶺亜の役に立ちたいだけなのだ。

明るいだけが取り柄のガサツで、アホで、短気で、乱暴ですぐに蹴りつけてくる粗野極まりない問題児…

だけど、出会ったばかりの相手のために死の危険すら笑い飛ばせるあの度胸を今だけは尊敬すべきなのかもしれない。

谷村は、梯子に手をかけていた。

そうだ、化け物に襲われる恐怖に比べたら、高所恐怖症なんて微々たるものだ。落ちたって打ち所次第では死にゃしない。しっかりと梯子を握ってれば大丈夫。下は見るな。上だけを見続けろ。やるんだ龍一。生まれ変われ龍一。お前ならできる。お前ならできる。お前なら…

お経のようにブツブツと繰り返し呟きながら、谷村は梯子を登った。一段、一段と慎重に…背中にはもう汗をかいていた。

そうしてどれくらいの間登り続けただろうか…ついに頂上に達した。

まず目の前に灯籠のようなものが現れる。それは他の灯籠と少し違って見えたが確かに火を灯すところはあった。灯台のような役割があるとは思えない。ほんの小さなスペースだから。

谷村はなるべくその灯籠から視界を動かさないようにした。周りの景色を見たら最後、恐怖で気を失ってしまう。高さがどれくらいなのか知らないが、谷村には十分すぎるほどだ。恐らく村一帯を見回すことができるだろうが、陽も落ちかけているし確かめる気にもなれない。

「トランシーバー…狼煙…マッチライターチャッカマン…」

必要なものがちゃんと揃っているか、一つずつ確認する。何度も何度もそうしているうちにだんだんと手元が暗くなってきた。夜が近づいてきている。

「…神様仏様ブッダ様キリスト様アラー様…どうか無事に生きて帰れますように…南無…」

手と手を擦り合わせて祈るしかない。そうしているうちに視界はどんどん闇に染まっていく…気が付いたら全く何も見えなくなったので慌てて谷村は携帯電話を立ち上げた。少しは灯りになるだろう。

その携帯電話のホーム画面には1926とある。まだ知らせはない。目覚めるのはだいたい1930前後だと聞いていたからそろそろかもしれない。一層緊張が高まる。

正座をして、手を握りしめているとじっとりと汗が滲み出ていた。汗で手が滑ったら大変だ、と思ってシャツで手を拭こうとすると、突然ザザザとノイズが耳を掠めた。

急だったもんだから、谷村は「ひっ」と小さく悲鳴をあげた。それはトランシーバーからだった。

「は、はい。こちら谷村」

「谷村、狼煙を上げて」

嶺亜の落ち着きはらった声がノイズ混じりにその機械から放たれる。谷村の返事を待たず、もうトランシーバーは沈黙した。嶺亜は次に神宮寺に連絡しなくてはならないから、いちいち返事を待っていられないのだろう。

携帯電話で手元を照らし、谷村は狼煙とライターを手に取った。狼煙をあげる際にできるだけ上に向かって上げろと言われたから、火の見櫓から少し身を乗り出す必要があった。櫓には屋根が付いている。

高所恐怖症の谷村にとってラッキーだったのは、村の灯りも街灯もないから周りの景色が一切見えなかったことだ。ほぼ何も見えないから高いことすら曖昧に感じられたのは幸いだ。狼煙は一発で天高く上がった。

「よし…偉いぞ龍一…お前はやればできる」

自分を讃え、奮い立たせて次の行動に移った。時計の秒針を見て6分後に灯籠に火を灯す。それで全て終わりだ。

腕時計に光を当て、秒針を確認しようとして谷村は信じられないものを見た。

「なんで…!?

時計が止まっている。それは618分を指してピタリと止まってしまっていた。

自分は昔から変に不運なことは多々あった。数えればキリがないほどで、挙げようとすればいくらでもある。

でも何故…何故それが今なんだ。よりによってこんな大事な場面で…!

とてつもない絶望感が身を包んだ。時間が分からないといつ灯籠に火を灯していいか分からない。この本の通りにしないと全てが無に帰してしまう。

「どうしよう…何かないか…何か…あ!」

谷村は自分をどつきたくなった。携帯電話だ。秒針はないが分は刻まれるからだいたい今から6分後くらいなら間に合う。自分は最後なのだ。10分以内なら多少の誤差は大丈夫だ。早すぎない限りは。

今し方、絶望のあまりすぐ側に落としてしまったから手探りで探した。

「あれ…たしかこの辺…」

落としたはずのところを探っても当たらない。焦るあまり、動作が大きくなってしまったのが災いした。

「え。あ」

何かが手先にコン、と当たったかと思えば、それは滑るようにして落下していった。櫓の何処かに当たったのかガコンという音が闇に吸い込まれていく。

「ウソ…」

もうあまりにもな展開に、谷村は呆然とした。時間を確かめる術を失ってしまった。

いや、待て…絶望の中で谷村は半ば狂ったように頭を回転させる。ライターに火をつけ、辺りを確かめるとトランシーバーはまだある。嶺亜に連絡して時間を教えてもらえば…

教えられた通りの操作方法で、谷村は嶺亜に連絡を取る。

「嶺亜くん、あの、すみません助けてください。時計が止まってて…今何時ですか?嶺亜くん、嶺亜くん!」

だがトランシーバーから嶺亜の返事は来ない。電源自体を落とされたのか、はたまた向こうでもトラブルがあったのか…いずれにせよ最後の手段も絶たれてしまった。

「…」

もうダメだ。再びの絶望に谷村は立ち尽くした。

しかし…一か八か、灯籠に火を灯してみたらどうだろうか。もうそろそろ谷村の点ける時間になる頃かもしれない。ダメかもしれないが、やってみなければ失敗は確実だ。点けるだけ点けて、それでダメだったら皆に土下座をする。なんなら切腹してでも…

谷村が腹をくくったのと同時に、それはいきなり鼓膜に訴えかけてきた。

「…!」

あの音だ。サイレンのような唸り声。この村に来て何度か聴いた、あの…

神父はそれを化け物化した時の挙武の声だと言った。どういうわけか、嶺亜だけでなく谷村にもその声が聞こえる、と。だが嶺亜ほどの感知力はなく、せいぜいどこかで遠く鳴っている程度…

そう、音だけだった。頭の奥で鳴っていたのは。

だがそれは、次に谷村の視覚に及んできた。

「これは…?」

目の前の光景ではない。フラッシュバックのような不確かな感覚…それでもその脳裏に刻まれた光景は谷村を愕然とさせた。

嶺亜の前に化け物がいる。

なんとも形容しがたい、この世の者とは思えぬ異形に谷村は戦慄する。これがこの村にかけられた全ての呪いを凝縮させたもの…『御印』…一目見ただけで全身の毛が逆立ってしまいそうなほどに異様な化け物…

嶺亜はその化け物と真っ直ぐに対峙している。逃げることもせず、むしろゆっくり歩み寄りながら手を差し伸べた。

「ゴメンね、挙武」

確かにそう言った…気がする。

「栗ちゃんは殺させない。代わりに、僕を」

どういう状況なのか、はっきりは分からない。何か計算外のことでもあったのか、やはり目覚めた挙武から逃げ切れなかったのか…

分からないが、嶺亜は自分を犠牲にして栗田を助けようとしている。それだけは分かった。

化け物はゆっくりと嶺亜に近づいていく。そして一際大きな咆哮をあげた…

「駄目だ!!挙武くん、嶺亜くんを喰べちゃ!!それは君の血をわけた実の兄だ!!」

谷村は夜空に向かってそう叫んだ。手にはライター、それを素早く着火させ、そして…

灯籠に火を灯した。