最終日 岩橋医院

 

「おや、神宮寺が見えないね。どこほっつき歩いてんだい?」

祖母が訝しげに使用人に問うのを、玄樹は玄関に向かう途中に聞く。

「神宮寺は水路に行ったよ」

「水路?こんな時間に?何考えてんだいあいつは。死にたいのかね。ちょっと迎えに行かせないと」

玄樹は苦笑いをした。普段ぞんざいな扱いをしているくせに、祖母はしっかり神宮寺の心配をしている。何気に彼がいなくなって一番寂しがるのは祖母かもしれない…と玄樹は思った。

「大丈夫。神宮寺は大役を任されてるから。それを終えてちゃんと生きて帰ってくるから」

「どういう意味だい?」

まだ時間がある。祖母にも聞いていてもらった方がいいだろうと判断し、玄樹はこの計画を話した。

しかし、祖母は血相を変えて肩を揺らしてきた。

「何を考えているんだい!呪いをなくすなんてそんなこと…できるわけがないだろう!下手をすればお前も神宮寺も呪いで化け物化した挙武様に殺されるかも知れないんだよ?そんなことさせられると思っているのかい!」

玄樹の想像をこえて、祖母は断固としてそれを認めなかった。手に持ったライターを奪い取る勢いで玄樹の腕掴む。

その声を聞きつけて、母も何事だと姿を現した。

「お母さん、なんて声を…玄樹が何かしたの?」

「聞いておくれ!この子ったら呪いを消すとか言って、神宮寺を水路に…玄樹も今から外に出て日没後にあそこの灯籠に火を点けるとか言うんだよ!!」

「えぇ…?玄樹、一体何を…」

二人はとんでもない、と言わんばかりに大反対だった。半ば予想されたことではあるがこの拒絶反応は凄い。それだけ呪いが祖母にも母にも甚大な影響を及ぼしていることは確かだ。

「灯籠に火なんてつけたら、おびき寄せることになるんだよ!そんなことをさせるわけにいかない。神宮寺もすぐに連れ戻さないと!」

「玄樹、お願い…あなたまで失ったらお母さんは…」

涙を浮かべながら懇願する母の瞳に、出会わずしてこの世を去った本当の彼女の子どもの姿を見た…気がした。

玄樹は誰にも…それこそ神宮寺にも話したことはないが、小さい頃から時々顔も性別も分からぬ人を背中におぶっている夢を見ることがある。

その人物は決まって玄樹の耳にこう囁く

「ママを幸せにしてあげてね」

多分それは、亡くなった赤ちゃんなのではないかと思っている。もし生きていたら恐らくは出会うこともなく、彼(あるいは彼女)はここで岩橋医院の跡取りとして暮らし、自分は全く違う街で、違う家庭か施設で育っていて…

そんな仮定をしなくもないが、いつもそれはぼんやりとしているからあまりその思考が長続きはしない。それよりも考えなくてはいけないことややらなくてはいけないことがあるからだ。

母を幸せにすること…それは医大に合格することでもなく、医者になることでもない。

彼女が死ぬまで生きること

その究極論だ。母は昔から自分にああしろ、こうしろと命じることも何かを強要することもなくいつも穏やかに包み込んでくれている。時々祖母が苦言を呈すがそれがバランスよく機能していた。

生きていてくれさえすればそれでいい。それは裏を返すと危険なことは絶対にしてほしくないということだ。だから彼女にとっては呪いを断ち切るという希望よりも、玄樹が危険にさらされることの方が遥かに重大なのだ。

すがりつくようにして止めようとする母にしかし、玄樹は言った。

「お母さん、ごめん…僕は今だけはお母さんのいうこと、きけない」

玄樹は母にも父にも反抗らしい反抗をしたことがない。だけど今ばかりはそれができない。確固たるものが自分の中に芽生えたからだ。

「この呪いがある限り…僕も嶺亜も挙武も…村の皆もお母さんも、心の底から幸せになることなんて出来ない。それが嫌というほど分かるから…だから僕は行くよ。大丈夫、家の前だもん。それに…僕よりもずっと危険な場所で覚悟を決めてる友達のこと思ったら、やめるなんてできない。彼らこそ、命の危険があるから…」

玄樹は閉められた窓の外を思う。最も危険な場所にいる二人…栗田と嶺亜に申し訳が立たない。何がなんでもやるしかないのだ。

だが…

「ダメです!行かせるわけにはいかない。例えあなたに一生恨まれても…お母さんはあなたを失うわけにいかないの!」

玄樹は一瞬怯んでしまう。母の顔がまるで鬼のように強張っているのを目の当たりにしたからだ。いつも穏やかで上品な母とは思えぬ鬼気迫った表情…一度流産で精神を病んだ時、もしかしたら…母は今のような風貌だったのではないだろうか…

「あなたが死んだら…あなたをそそのかした連中をお母さんは皆殺しにするかもしれない!それでも行くの!?玄樹!!」

金切り声をあげてまくしたてる母の姿は尋常ではなかった。それまで同じように玄樹を止めていた祖母が顔を青くして今度は逆に母を止めに入る。

「落ち着きなさい!誰か…誰か来て!」

「どうした!…玄樹…?これは…」

祖母の声を聞いて現れたのは父だった。髪を振り乱し、暴れる妻と戸惑う息子を交互に見据えながら父は驚きを隠せないようだった。

「お父さん…」

玄樹はもうどうしていいか分からず、父の顔を見る。すると彼は母を羽交い締めにした。

「お父さん…?」

「玄樹、行きなさい!さっきも言った通り、嶺亜様と挙武様…そしてこの村を救えるのはお前達しかいない!」

父は自分に加勢してくれているようだった。祖母もそんな父の姿を見て戸惑いを見せている。

「何を…玄樹がどうなってもいいと言うのかい…?」

「お義母さん!行かせてやってください!その代わり私が玄関先で待機しておきます。玄樹は絶対に死なせない!この命に代えても!」

錯乱状態で暴れ狂う母は、羽交い締めにする父の腕を噛む。激しい抵抗にあいながらも祖母を説得し、自分の背中を押してくれる父に玄樹はもう一度歯を食いしばった。

「お母さん!僕は絶対に死なない!だから行くよ!お母さんとお父さんの本当の子どもになるために!」

そう叫んで、玄樹は後ろを見ずに玄関を出た。

灯籠の前に立ち、涙を拭う。泣いている暇などない。絶対に成功させなければならないのだ。皆の決意を無駄にするわけにはいかない。玄樹は自分で両の頬を叩いて喝を入れた。

玄関の方から叫び声らしきものが漏れてくる…恐らくは父が必死に母を宥めているのだろう。しかしながら、その戸が開かないことから、祖母はもしかしたら折れたのかも知れないと判断できた。

「お父さん…お母さん…おばあちゃん…おじいちゃん…」

4人の顔を交互に浮かべる。祖父はもう他界していたが、まだくっきりとその優しい顔が脳裏に浮かんでくる。

やらなきゃ

そう決意を改めた矢先、視界にそれが浮かび上がる。谷村が上げた狼煙だ。

玄樹は集中する。迷いも何もかも一切断ち切り、任務の遂行だけを考えた。

決められた秒数を時計を睨み、刻んでゆく。そして…

今だ

与えられた猶予は数十秒。深呼吸をして、できるだけ冷静にライターに力を込める。23度空回りしたが、それはほどなくしてきちんと点いた。

唾を飲んだつもりだったが、口の中は渇ききっている。何を飲み込んだのかも分からないまま、震える手で玄樹は灯籠に火を灯した。

薄明かりが闇に浮かび上がると、そこから何か全く異なる淡い光が放たれた…気がした。

それがなんであるのかを認識する前に、玄樹はもうそこにへたりこんでいた。腰が上がらない。極度の緊張状態で一時的に身体的機能が麻痺してしまっているかのようだった。

「玄樹!!玄樹ぃ!!

断末魔のような母の叫び声に、玄樹は意識を立て直した。へたりこんでいる場合じゃない。火を灯したのならすぐにでも家の中に避難しなくては。その大前提を思い出した。

「お母さん!!

叫んだつもりだったが、声が掠れてよく響かなかった。玄樹は玄関のドアを開け、揉み合う父と母の間に突っ込んでいくかのように抱きついた。