最終日 水路

 

嶺亜と挙武が車に乗って背分神社へと向かったのを皮切りに、それぞれの持ち場へと向かう。神宮寺は最も遠い水路だったので岸くんのマウンテンバイクを借りた。

数年の生活でもう村の地図は完全にインプットされている。知った道をすいすい走りながら、殆ど人影がないことを複雑な気持ちで見た。

呪いなどなければ、今頃は走り回る子どもや農作業に勤しむ人や買い物帰りに立ち話をする主婦など当たり前の光景が広がっているだろう。

だが、ここには…背分村にはそういった当たり前の光景が、この時期はもう何百年も昔からない。その代わりに戸を閉めて、お守りを置き、怯えながら夜明けを待つ異常な習慣が根付いている。牧歌的な風景とは裏腹な、おどろおどろしい因縁が渦巻いているのだ。

「化け物、か…」

御印の持ち主は村の守り神であるはずなのに、化け物化し夜な夜な血を求めて彷徨う…そうして誰かを意識もなく殺め、血を啜り、肉を喰らう…。

最初にここを訪れた時の記憶がぼんやりと、まるでカメラのピントが合わさるように蘇ってくる。

「勇太、ここだ!間違いない」

村に通じる道を見つけた時の兄の興奮気味の声が脳裏の奥で響く。神宮寺は知らず、目を細めていた。

大好きだった兄と離ればなれにならなくてはいけないことが決定した数年前の夜に神宮寺は自分が号泣したことを思い出した。また一つ、記憶のパズルが合わさってゆく。

「大丈夫だって勇太。数年の我慢だ。俺が大学に入って卒業していいところに就職したら二人で暮らそう」

それを支えに、自分は居心地の悪い居候生活にも耐えた。それでも辛いときは兄に電話して、随分困らせたものだ。そんな自分を見かねて兄は夏休みに小旅行に誘ってくれたのだ。

「勇太、凄いぞ。この村にはきっと凄い秘密が隠されてる!俺たちでそれをつきとめに行こう!」

キラキラと好奇心に満ちた兄の瞳、車の中でジュースを飲みながらお気に入りの音楽をかけて熱唱し、道を見つけた時二人で雄叫びをあげたあの時…

全てが鮮明に思い出され、神宮寺は唇を噛んだ。それは複雑に絡み合う様々な感情によるものだ。

あんなに大好きだった兄の事を、今の今まで記憶から失くしていた自分への憤り

その兄を帰らぬ人にした、村に根付く呪いへの怒り

記憶を失くした中で出会ったかけがえのない大事な友達に、心からの笑顔を取り戻してあげたいという決意

神宮寺は今こうして前を向いていられるのは、全てその使命感が支えていることを自覚した。だからこそやらなくてはいけない。何の縁か、この数日ですっかり打ち解けた岸くん達と力を合わせて呪いを消滅させる。それが今やるべきことだ。

マウンテンバイクのハンドルをきつく握り、脚に力を注いで加速させた。水路の手前の道祖神への道はややきつい上り坂だ。だが降りて引く気にはなれない。一気に上ってそこへと到達する。

息を弾ませながら、水路の水位を確認した。

「よし、これくらいならいけるな」

水は膝くらいまでの位置しかなかった。一日経って大分流れは穏やかだ。念のため持参していた長靴を履く。近所の農家から借りた、農作業用のものだ。

さすがにスムーズに歩くことはできない。じゃぼじゃぼと音をたてて進むにつれ、水かさは少しずつ低くなっていったのは幸いだ。

「…」

陽が傾き始めている。時報で合わせておいた時計の時間を確認すると6時前だった。

まだ日没には一時間以上ある。嶺亜の推測によると7時半前後になるとのことだったから、灯籠の場所を確認すると、次は身を隠す納屋を確認しておくことにした。

納屋は灯籠から若干離れた位置にあり、今は使われていない。大昔に水路の工事をする際に職人が寝泊まりしたらしいから、納屋と言えども最低限の設備はある。埃っぽいが、そこにあった古びた箒で掃けばどうにか過ごせる程度にはなった。

お守りを納屋の前に置き、神宮寺は時計を見た。

午後6時半。空は夕闇に少しずつ浸食されていて、雲は見えない。

嶺亜からトランシーバーで連絡が来る約一時間、神宮寺はずっと脳内でシュミレーションを繰り返した。

失敗は許されない。着火装置も、念のためマッチやライターなどできるだけのものを持ってきている。

そうして辺りが完全に闇に包まれた頃…時刻にして午後732分、トランシーバーが鳴った。

「こちら神宮寺!嶺亜だな?」

緊張のせいで、少し声が荒れてしまったが、その向こうの嶺亜の声は冷静だった。

「今、挙武が目覚めた。よろしくね」

「おう。任せろ。じゃな!」

素早くトランシーバーを切り、神宮寺はライターを点けた。それは一発で成功し、灯籠に火が灯る。

神宮寺は火が灯るのを確認したらすぐにでも納屋に駆け込むつもりだったが、視界に映ったそれが一瞬忘れさせた。

「…」

灯籠から、何か淡い別の光が空に向かって放たれた…気がした。

気付いた時にはもうその淡い光は消えていて、あかあかと灯る灯籠の火だけがそこにある。

「ってやべ!早く行かなきゃな!」

我に還ると、慌てて身を翻し神宮寺は納屋まで駆け出す。

数年の背分村暮らしで、自分にもその習慣が意外なほどに強く根付いていることに気付く。御印の時期の夜に野外にいることが死を意味することが身に染みついていて、恐怖が自動的に呼び起こされる。気付けばありえないほどの全速力で向かっていた。

無意味ではあったが納屋の内鍵を締めると、懐中電灯の灯りを消して、神宮寺は闇の中でひたすらに夜明けを待つ。全てが成功していることを祈りながら。

「兄貴…」

目を閉じると、懐かしい笑顔が浮かんできた。大好きだった兄。最後の日に交わした言葉の一つ一つを思い起こしながら、神宮寺は暗闇の中で一人、涙を流した。

仮に、これが成功してももう兄は戻ってこない。あの笑顔には永遠に再会できないのだ。そう思うと胸が締め付けられる。

なんであの時、俺は逃げてしまったのかな…

そんなどうにもならないことを今更ながらに悔いた。もしかしたら、助けられる方法があったかもしれない。いくら化け物でも二人がかりで抵抗すればどうにかなったんじゃないか。そんな仮定が頭の中をらせん階段のように渦巻き始める。

いや、そもそもあんな村に行こうなんて兄が言い出した時に止めるべきだったんだ。「そんなとこ面白くなさそう。もっと楽しいとこに行きたい」とでも言えばきっと兄は行き先を変更してくれただろう。

「なんでだよ…なんで…」

嗚咽が次々に漏れてくる。数え切れない後悔の波に飲まれかけて咽び泣くことしかできなかった。

「勇太、泣くな。男だろ」

闇の向こうで、兄が優しく微笑んでいた。