~五日目~

 

 

仏壇に飾られた母と妹の遺影を、複雑な思いで見ながら挙武は静かに手を合わす。

「…」

遺影の母はまだ若く、妹は幼い子どもだ。享年三歳。二歳違いだから生きていれば18歳…。

この二人の命を奪ったのは自分だ。否、呪いに支配され変異した自分だ。

当然ながら、記憶も何もない。化け物化している間の記憶は全くない。思い出そうとしても、そもそもそこに存在し得ないものだから出来るはずもない。水中でもがくような意味のない作業だ。

嶺亜の力がなければ、母や妹の他にも何人もの人間を殺めていたか分からない。もっとも、ごく稀によそ者が御印の時期に紛れ込んでその犠牲になることもある。

挙武は数年前にその不幸な来訪者を噛み殺している。どこの誰かも知る術もないが、その人にも家族や友人はいるだろう。遺体は村人が秘密裏に処分したと聞くが、今もその誰かの帰りを信じて待っている人がいるのかもしれない。

それを思うと心底この呪いが憎い。自分の意思とは無関係に人を襲って殺す、この呪いが…

厄介なのは、例え自分が命を絶とうとも呪いは次へと受け継がれることだ。死してなお逃れられない無限の鎖にからみつかれた永遠の呪縛…その根源がなんであれ、背筋が凍り付きそうな悪意を感じずにはいられない。

だがその呪いを断ち切る方法がある、と昨日嶺亜が言った。

俄には信じがたい内容ではある。それに、それを立証できる者もいない。ましてや前例もない。神社の秘密地下室に意味ありげに隠された民話集に記されていたというだけの胡散臭いものだ。

そう、なんの確証もない。仮に実行したとしてもしも呪いが解けることがなかったら…それは最悪のバッド・エンドだ。

そんなリスクしかない賭けをどうして嶺亜は持ちかけたのか…己の身を犠牲にしてでも挙武から呪いを消したかったのか…

「いや…」

無意識にそう口にしていた。

自分のためだ。自惚れるわけではないが、嶺亜と自分は切り離せない存在ではある。もしも彼が自分に対し、兄弟に抱く当たり前の感情を抱いていたとしても、それよりもやはりこの呪いから自分も解放されたかったのだろう。

そうさせたのはきっとあの連中…特に栗田の存在だ。彼が嶺亜の中でどんどん大きな存在になる…それと共に加速度的に呪いからの解放を願ってしまう…

昨日はきっとそれが爆発したのだ、と挙武は結論付けた。

今朝はもう何かが吹っ切れたかのように淡々と挙武を家まで送り届けたが、お互い一言も口をきかなかった。だから挙武にはもう嶺亜が何を考えているのか把握することはできない。御印の時期が過ぎれば殆ど会うこともなくなるだろう。そう、来年のこの時期までは…

「挙武様」

ふいに話しかけられ、挙武は反射的に振り返る。そこには使用人と、少しかしこまった雰囲気の神宮寺と玄樹がいた。

珍しいな、と挙武は思った。というのも挙武の家は広大な敷地にあり、村の端に位置するからわざわざ訊ねてくる用事がない限りはついでに立ち寄るような場所じゃない。だから来訪者自体ごく少ないのだ。

しかも、玄関で待っていればいいものをこうしてあがってきたことを考えると、何かしらの理由がそこに存在するのだろう。挙武は冗談を言いかけてそれを喉の奥にしまった。

「どうした?二人して」

挙武が問いかけると、玄樹は「うん…」と力なく返事をして神宮寺を見る。

その神宮寺はいつもと違ってひどく真剣な表情だった。

「まず、俺も手を合わさせてくれ」

そう言ったが早いか、神宮寺は仏壇の前に座り、手を合わせた。玄樹もそれに倣う。

「これが挙武のお母さんと妹か…」

仏壇の前の遺影を感慨深そうな瞳で見つめながら、神宮寺は呟いた。挙武が何故今、彼らが母と妹の遺影に手を合わせに来たのかを不思議に思う間もなく玄樹が神宮寺から目を離してこう言った。

「挙武…聞いてほしいことがあるんだ。今日はそのために来たんだよ」

「聞いて欲しいこと?」

首を傾げると、神宮寺が遺影から挙武へと視線を向ける。

「その前に確認な。俺とお前は今までも、そしてこれからも友達だ。そこに変わりはないからな。念のため」

「どういう意味だ?」

挙武が彼らの真意を測りかねていると、ゆっくりと神宮寺が口を開く。至って真面目な表情だ。いつもすっとぼけた冗談まじりのチャラさはどこか彼方へと行ってしまったようだ。別人のように精悍な顔つきをしている…ぼんやりとそう思っているとそれは神宮寺から語られる。

「俺が…お前の兄貴を…?」

耳を覆いたくなるような内容だった。

神宮寺は昨日、大雨と地震がきっかけで記憶が蘇ったという。その記憶によると、興味本位でこの村を訪れた神宮寺とその兄は、御印の時期に化け物化した自分に遭遇しその兄が餌食になった。無我夢中で逃げる途中に神宮寺は土砂崩れに巻き込まれ記憶を失った。

挙武の記憶とその事実は奇妙に符合する。確かに、大雨と地震があった数年前に挙武はどこの誰とも知らない偶然にこの村に迷い込んだ外部の人間を噛み殺している。神宮寺が岩橋家に拾われたのもその時期だ。

そしてそれは後から知った事実だが、その遺体は確か…

「お前の兄貴は多分…村人が背分沼に沈めた…」

うわごとのような挙武の言葉を、神宮寺は唇を噛みながら聞く。玄樹は青ざめながら視線を落としていた。

「俺がお前の兄貴を殺し、その亡骸をこの村の者は沼に沈めて隠蔽を計った。それでも俺を友達だと思えるのか…?」

沈黙。うるさいくらいの蝉の鳴き声はまるで悲鳴のように鼓膜を次々に刺激してくる。

そう、挙武に噛み殺された神宮寺の兄の断末魔のように…

母と妹の遺影を目にしながら、挙武はこの肉体に宿る呪いを今ほど忌まわしく思ったことはなかった。せっかく出会えた心許せる友人の肉親までもその牙にかけていた…その事実が無数の刃となって精神を蝕んでゆく。この先自分は一体何人をその牙にかけるのか…

「違う」

揺れる視界の奥で、神宮寺の落ち着いた声が響いた。

「俺の兄貴を殺したのは挙武、お前じゃない」

「なに…?」

再びピントが合わさり、それは挙武の目にしっかりと焼き付いた。真っ直ぐに自分を見つめる神宮寺の瞳だ。

そこには一点の曇りもなく、静かに揺れる炎が映っている。

「俺の兄貴を殺したのはお前の中にある呪いだ。だから俺はその呪いを取っ払って、兄貴の敵を討つ。そう決めてここに来た」

玄樹も頷く。彼の瞳にももう憂いは消えていた。

「それを挙武に聞いてもらいたくて来たんだ。今も教会で嶺亜が岸くん達と一緒に呪いを解くために翻訳を進めてるみたい。一緒に行こう」

「行くよな?挙武」

神宮寺は挙武に手を差し伸べる。

挙武は母と妹の遺影を見た。

『行きなさい、挙武』『行って、お兄ちゃん』そう言っているように今は見えた。

挙武は頷き、神宮寺の手を取った。