深き淵
底なし沼に落ちていくかのような不安と恐怖、そして声にならない叫び
その奥で、微かにこだまする「勇太、逃げろ」という誰かの声…
誰か…
ああ…
ほつれていた記憶の糸が再び結張ろうとしている。それを自覚し始めると次第に声は遠のき、視界が薄ぼんやりと開けてくる。
薄暗い部屋のベッドの上…額には冷たいタオルが置かれていた。不快なべたつきは汗だ。汗をびっしょりとかいている。
身を起こすと、部屋の隅に誰かがいるのが認識できた。電灯をつけるとその人物はうめき声をあげて薄めを開いた。
「神宮寺、目が覚めたんだ…良かった…」
ひどく顔色が悪い玄樹を見て、どっちが看病が必要か分かりゃしないな…と神宮寺は思う。きっと自分も具合が良くないだろうに、それでも付きっきりでいてくれたことを感謝しながら頷くと玄樹は力ない笑みを見せた。
「良かった。今、神宮寺にまで何かあったら…僕は…」
笑みはすぐに消え、不安で玄樹の瞳は潤みだす。いつもなら彼を不安にさせるなどもっての他だし、そういう時に側にいて元気づけるのが自分の役目だ。記憶を喪失して自分が誰なのか分からなかった中で掴んだ存在意義がそれだ。
だが、今だけはそれができない。それどころかもっと不安にさせてしまう可能性があった。
それでも神宮寺は言わずにはいられなかった。
「玄樹…俺、思い出したんだ」
「え?」
「…まだ全部、とまでは言えねえけど…なんで俺がここに来たのか、どうして生き埋めになっていたのかは思い出せた。俺は…」
玄樹の表情が強張っていく。聞かなきゃ、という思いと聞きたくない、という思いが相反したかのような混沌を感じさせる。神宮寺はそれを真っ直ぐに見据えた。
「俺は兄貴を見殺しにしてしまったんだ」
フラッシュバックのように蘇る記憶…『勇太、逃げろ!』という兄の最期の叫びが脳の奥でずっとこだましている。耳を塞いだとしてもきっとそれはかき消されることはないのだろう。
玄樹は大きな目を見開いて硬直している。それを複雑な気持ちで見つめながらゆっくりと、まるで自分に言い聞かすように神宮寺は蘇る記憶の断片を彼に話した。
「兄貴と俺は両親を亡くして別々の家に引き取られた…でも俺はその家の居心地が悪くてしょっちゅう兄貴に会いに行ってたんだ。そんな俺を気遣って…兄貴が夏休みの旅行を計画してくれた」
話すうちに、少しずつ、また少しずつ記憶はピントが合わさるように次々と蘇ってくる。不思議な感覚だった。
「兄貴はオカルト好きで、大学でもそんなサークルに入ってたみたいだけど、その時どっかのサイトで見つけたこの村に興味持って…調査も兼ねてキャンプしようって二人でここを訪れたんだ」
「夏休み…まさか…」
「そのまさかだよ。御印の時期ドンピシャだったんだ。その日…陽が暮れる少し前に道祖神の道からこの村に入って…水路に水が流れてたのを俺は覚えてる。記憶なくしてから知ったけど、あそこは普段は水門が閉じられてて水は流れてない。でも多分その数日前の豪雨で水門が壊れてそこから水が流れてた。多分、それを見て記憶が呼び起こされたんだと思う」
「水路…」
「陽が暮れて…誰もいない、雨戸が閉められた家ばっかりのこの村を変に思ってた時…俺たちは遭遇しちまったんだ。化け物化した挙武に」
玄樹が固唾を飲む。両の拳は強く握られていた。
「俺と兄貴の位置はちょっと離れてたんだろうな…二人で散策してたし、それに懐中電灯を持ってたのは多分兄貴だ。だから俺は挙武にまだ見つかってなかったんだ。でも俺の方からは街灯に照らされた挙武が見えて…」
神宮寺はそこまで言って、頭を抱える。ぼんやりとしたシルエットでしかないが、それが常識を越えた生物だということは一瞬で理解できた。とてつもない恐怖が呼び起こされ、体が意思と無関係に震え始める。
「何が起こってるのか俺にはもう分からなかった。だけど兄貴が俺に逃げろって叫んだと同時に噛み付かれてて…兄貴を助けなきゃとかそれ以前にもう俺は怖くて怖くて死にものぐるいで走って逃げた。追いつかれたら確実に殺される…もうそれしか頭になかった。
その後の記憶がねえから…地震が起こって土砂崩れしたところに丁度俺が居合わせたのか、俺が恐怖で失神した上に土砂が覆い被さってきたのかは分かんねえけど…でも、結果的に俺はそれで生きながらえたんだろうな。そうじゃなきゃもしかしたら挙武に見つかってたかもしんねえ」
「そんな…挙武が、神宮寺のお兄さんを…?」
絶望で泣き出しそうな顔の玄樹に、しかし神宮寺は首を横に振って答えた。
「違う。俺の兄貴を殺したのは挙武じゃない」
雷鳴の轟きが、どこかで鳴っている。玄樹と神宮寺はそれを遠くに聞いた。
「背分村に根付く呪いが俺の兄貴を殺したんだ」
そう断言し、神宮寺は玄樹の両肩を強く掴んだ。
いつの間にか、もう雨音は聞こえなくなっていた。雨はやんでいる。雲間に星が出ていれば、呪いで化け物化した挙武は今夜もまたこの村を徘徊しているだろう。
「兄貴の敵を取るために…俺もこの村の呪いを取っ払うためになんだってする。それが俺にできる唯一の兄貴への償いと弔いなんだ。玄樹、お前も協力してくれるよな?」
確固たる決意が自分の中で芽生えたことによって、神宮寺はもう自分の中に恐怖も後悔もなかった。
それを感じ取ってくれたのか、玄樹もしっかりと自分を見据えながら頷いてくれた。