~四日目~

 

目覚めると、酷く汗をかいていてそれが不快で嶺亜は眼がさめた。体が水分をほしがっている。起きて水を飲みに行こうとしたら、ベッドの脇に水差しとコップが置いてあることに気付く。

殆ど全て飲み干す勢いで流し込むと、深呼吸をする。

まだ少し気怠いが、大分マシだ。栄養のあるものをきちんと食べてよく眠ったからだろう。このところ、あまり食べていない上によく眠れなかったからそろそろ体力も限界だったのかもしれない。

「…」

室内の時計を見ると、まだ6時過ぎだった。挙武は…まだ目覚めていない。背串岳のふもとにいるようだ。

「…?」

そこで嶺亜は気付く。水差しの水が冷たかったことに。部屋の中は冷房を弱く作動させているとはいえ、水が冷えるような温度ではない。

「お、れいあ起きてっか」

控えめにドアが開いて、栗田が顔を出す。

「まさか栗ちゃん…もう起きてたの?この水…」

「ギャハハハハハハハハハハ!!!俺は岸と違って朝はそんな弱くねーからよ。それよりれいあ、顔色が昨日より大分良くなってんじゃん。やっぱ栄養のあるもん食って寝るのが一番だな!」

「…」

「食いもんも昨日もらった分がまだまだあるからな!けど医者のおっさんが胃に負担かけるのは良くねーとかって言ってたから胃にいいもんメモしてあっからそれ今から用意するからもうちょっと寝とけよ。出来たらまた起こしにくっからよ」

嶺亜は栗田の顔を直視することが出来ず、俯いた。

胸が苦しい。だけどそれは、体調が悪いせいではない。感情の昂ぶりを無意識に抑制しようとした結果だ。

それに気付かれまいと嶺亜は「うん」と小さく返事をして再び横たわった。

ドアがしまったのを確認したと同時に、耳鳴りがやってくる。

挙武が目覚めた。嶺亜がそこにいないのを確認して察してくれるだろう。今朝は任務を遂行することが出来ないことを。

次に会った時、嫌味を言われそうでどうやって言い返してやろうか…と考えているうち胸の苦しさは和らいでいく。身を起こし、深呼吸をして整えると部屋の窓の内戸を開けた。

朝の光が射し込んでくる。その眩しさに思わず顔を逸らした。

窓の外に広がる見慣れた牧歌的な風景を、今日ほど皮肉めいた気持ちで眺めた日はない。この平和そのものの田舎にどれだけの時間、呪縛が蝕んで来たか…

『この子には…御印の時期を正確に読み取る力が備わっている』

あの日、父が教会に村の人たちを集めてそう宣言した日のことを思い出した。

今でも鮮明に覚えている。それまでぼんやりと聞こえていた『声』がはっきりと聞こえたあの日のことを。

5歳の自分が拙い言葉でそれを伝えても誰も相手にしてくれなかった。父だけが怪訝な表情だったがそれでもどうすることも出来ず、あの悲劇が起こる。

背分村にかけられた『呪い』を一身に背負う『御印』を持つ挙武は、通常10歳前後で覚醒するはずなのに5歳でそうなった。

まだその心配がないから…と一緒に寝ていた母親と妹が、覚醒し化け物化した挙武に首筋を噛まれて亡くなった。彼の祖母はその頃にはすでに他界していて、父と祖父はたまたま用事で家を空けていたから餌食にならずに済んだが使用人も何人か亡くなったと聞いている。

凄まじい現場だった、と誰かから聞いたことがある。駆けつけた麓の町の警察官も、まさか5歳の子どもがやったとは夢にも思わない。金銭目的の通り魔か異常者の犯行だと判断され、未解決事件のままだ。

化け物化した挙武は今でこそ夜じゅう徘徊をするが、当時は覚醒の時間は短かったと推測される。玄関先で倒れるように眠っているのを帰宅した父親が発見した。口の周りにはべっとりと血が付着していたという。

星の出ている夜の間…化け物化した挙武はこの村を徘徊し続ける。誰もその目に触れぬよう『御印』が現れる期間は日没前から締め切った建物の中に籠り、震えながら夜明けを待つ。

嶺亜のこの不思議な力が発覚する前は、代々天文学の知識に長けた神父の一族が星の動きを見ておおよその見当を付けてその時期を村の者に告げていた。そうして一定期間、『御印』を持つ者は日没前に背分神社の棺桶の中に入るという儀式を繰り返してきた。

挙武の前は村の外れに住む母と子二人暮らしの子だったと聞く。最も、『御印』は転生のように受け継がれるから印を持つ者同士が出会うことはない。嶺亜も生まれる前のことだから詳しくは知らなかった。

『化け物として生きたくはない』

そう言い残して、挙武の先代は背串岳の橋から身を投げた。

しかし迫害があるわけではない。むしろ、『御印』を持つ者は村を救う存在として敬いの対象でもある。それがなくてはこの村はとっくの昔に干上がって全滅だったからだ。その意識はこの現代においても村人の中に根付いている。

何故、呪いの主は嶺亜にこの『声』を授けたのか…

幾度となく考えてみたが、分かるはずもない。教会の前に捨てられていた自分がこの特殊な力を授かったのもまた呪いの主の意向なのか…父は独身を貫き、神父の後継者がいなくなることを村の人たちは畏れていたから嶺亜のこの力が救いだと聞かされて育った。

「呪いに抗うことは許されぬか…」

いつかの夜に、父が祭壇の前で誰にともなしにそう呟いたのを嶺亜は聞いたことがある。

断ち切ろうとしても断ち切れぬ、何か強い糸がこの村にはからまっている。『御印』が転生で受け継がれるというのもまたその糸のせいだろう。自身が命を絶ってもまた、『御印』を持つ者が現れる。無限のループ…

ならば自分もまた、断ち切れぬ糸に絡みつかれた存在なのだろう、と嶺亜は思う。

その糸を、少しでもほぐしてくれる人が今扉の向こうにいることに感謝するべきなのかもしれない。それで我慢するべきなのかもしれない。

だが自分の中でもう、そんな妥協が出来なくなっていることに嶺亜は気付いていた。

「…」

ベッドと壁の隙間に落ちていた本を拾い、書棚にそれを戻して嶺亜は部屋を出た。