どこをどう走ったのか全く思い出せない。谷村は気付けば古民家の門の前にいた。表札はかかっていない。

「どうしよう…どうやって戻ろう…」

ここへきて何度目かの涙目になって指をくるくるとしていると、突然谷村は名前を呼ばれた。

信じられないことにその声は聞き慣れたもので、こういった状況においては何よりも有難くて今しがたとは全く別の意味で泣きそうになる。

「颯…」

門の向こうの石階段の上に、颯の姿があった。助かった…と谷村は歓喜に打ち震え、その石階段を自身も驚くようなスピードで駆け上がっていった。

「颯…!どこに行ったかと思ったら…でも良かった会えて。俺一人じゃみんなのところまで戻れそうにないから…!」

「俺も良かった。ちょっと一人ではどうにもならなさそうだから」

「へ?」

そもそも、颯は何故民家の門の向こうまで入って行ったのか。常識ある彼にしては不思議な行動だ。

疑問が解消されたのは、颯に招かれてその民家の中に入った時だった。

入ってすぐの和室に中高年の女性が横たわっていた。

その女性に颯が駆け寄る。

「おばさん、俺の友達が来てくれたからなんとかなるかも。もう一度やり方教えて」

「颯、どうしたんだ?この人は…」

「俺が校内散策してて、ちょっと体育館裏から続く道を探検してたらこの人が倒れてたんだ。どうやら足を挫いたらしいんだけど、折れてたら大変だし、ここまで案内してもらって担いで来たんだけど…」

女性は辛そうに呻きながら身を起こそうとして颯に止められる。

「でも電話線が切れてるのか配電盤がおかしいのか分かんないんだけど、電話が通じなくて…俺、機械はあんまり得意じゃないからどうにもならなくて、やっぱり学校に戻って誰かに知らせようと思ってたところに谷村が通りかかったんだ。谷村、あんなとこで何してたの…?」

そうだ。自分がここに来た経緯を谷村は思い出す。職員室前で聞いた話の内容を、状況も忘れて颯に話すと彼は予想通り眉をひそめた。

「それってどういう…」

「分かんない。けど、なんか聞いちゃったの知られたらヤバそうで反射的に逃げてしまったんだ。そしたらここの門の前にいたってわけで…」

「あんた達…もしかしてよそ者かい?どうりで雰囲気が違うと思ったよ…」

颯と谷村の会話を聞いて、よろよろと女性は身を起こした。

年は50代後半くらいだろうか、小太りで化粧っけはないが大きな瞳から若い頃は美人だっただろうと推測される。どこか翳りが見えるのは、怪我をしているせいだろうか、それとも…

「あ、俺たちは東京から来ました。それよりおばさん、足…」

「ありがとうね。大分落ち着いたよ。多分折れてはないと思う。普段、人との関わりを絶っているとこういう時に困るんだね。電話なんてもう何年もしていないから通じないことも知らなかったよ」

谷村はようやく神経が落ち着いてきたから冷静に辺りを見回してみたが、確かにこの家はほぼ山の中にあり、独立した一軒家だ。まるで人目を避けるかのような作りにすら思える。

「嶺亜様がお倒れになられたのか…村の連中は青ざめているだろうね」

まるで何もかも知っているかのような口調に、颯も谷村も顔を見合わせた。この女性は一体…

「あんた達も、大変な時期にやってきたもんだ。ここへはどうやって辿り着いたのか知らないけど陽が落ちる前にここを出るんだね。それが出来なきゃ泊まっていきな。そうしないと命の保証はないよ」

女性も玄樹たちと同じようなことを颯達に忠告する。一体なんだっていうんだろう。いい加減気になってきたのと、女性は隠すような素振りも戸惑いも見せなかったから谷村は尋ねた。

「一昨日の夜から俺たちはここに来てます。昨日は岩橋病院の廃病棟に泊まりました。どうして陽が落ちる前に出ないといけないんですか?」

「一昨日の夜…?ああ、確かあの日は雨が降っていたね。運のいい子たちだ。晴れていたら今頃天国にいただろう」

「嶺亜くんの家の神父さんもそう言ってた。なんで運がいいんですか?あの夜、晴れていたら俺たちはどうなっていたっていうんですか?」

今度は颯が尋ねる。女性は少し咳払いをして声を整えた後、縁側の方を見やった。そこからは強い西日が差し込んでいる。

「晴れていたら、呪いで化け物化した挙武様に首筋を噛まれて死んでいただろうね」

はっきりと、女性はそう言い放った。

「昨日は晴れていて星が出ていただろうからあんた達をなんとしてでも夜、外に出すわけにはいかなかった。だから廃病棟に閉じ込めたんだろう」

颯と谷村はすぐに声を発することが出来なかった。あまりにも信じがたい、突拍子もない返事が返って来たからだ。

だが谷村は思う。さっき教職員の会話で聞いた内容と女性の話を照らし合わせてみると、ここへ来てから感じていた不自然さと違和感、そして疑問が奇妙に符合していく。まるで、欠けていたパズルのピースが見つかってその周りが次々に完成されていくような感覚だ。

「ここへ来た時…どの家も雨戸から何から閉まっていて、玄関先には奇妙なオブジェがあった。あれは、日没後にそうして外からの何かを隔てるため、ってことですか?」

「だいたいその通りだよ。補足するとね、雨が降ったり雲が空を覆っている時は挙武様は殆ど目覚められない。絶対じゃないけどね。だからあんた達は遭遇せずに済んだんだ。

玄関先のオブジェもただ飾ってるだけじゃない、あれはちゃんとした効果があるんだよ。どうやらあの形を忌み嫌うみたいでね…反らす役割があるのさ。水の入ったペットボトルの置いてある家に猫が寄りつかない、みたいなもんだよ」

「戸を閉めるのは…」

「化け物化した挙武様は音よりも光にひどく敏感でね、おびき寄せることになってしまう。だからそれを内側から遮断する必要がある。廃病棟の地下室は一切外からの光も入らない代わりに内側の光も漏れることはないからね」

「呪いって…そんな…この現代の世の中に…」

颯が混乱を色濃く含んだ声を出す。確かに自分たちはそういったミステリーを追い求めてやってきた。だが、まさかこんな想像も及ばない事実があったなんて、まだ理解が付いていかない。それは谷村も同じだった。

だが谷村は思い出す。さっき図書室で呼んだ『背分村民話集』の内容を

「あの本には…江戸時代に大規模な干ばつがあって、飢饉で村人は全滅に近い状態だったって書かれてて…。その時、星からの使者が雨を授けてくれた。だけど…」

女性は小刻みに頷いていた。そしてじっと聞き入っている。

「雨を授かる代わりに、異なる災いを受け入れた。それによって、背分教を興してその災いの緩和を計った。それが背分教が誕生した理由…ってあったけど…」

「あんたは頭がいいね。あの難解な民話集をよく読む気になったね。そう、あれはそのまま村の歴史を綴っているんだよ。おとぎ話なんかじゃなく、実際にあった史実をね」

「…」

「民話集は学校で手に入れたのかい?三冊あって、もう一冊は郷土歴史資料館に納められているけどあれは持ち出せないね。あと一冊は行方不明らしいんだけどね」

「その、異なる災いって…?」

颯が前のめりに女性に尋ねた。彼女は足の患部をさすりながらそれに答える。

「それが呪いだよ。挙武様で何代目かね…挙武様の前は、私の息子だった。もうこの世にいないけどね…」

颯と谷村は言葉を失う。

女性の視線の先には、縁側を通り越して庭に立つ墓碑があった。それは西日に照らされてオレンジ色に輝いているように見えた。

「この時期…星の配置と共にそれは現れる。化け物化し、人の生き血をすする吸血鬼。人の心なんて失われて誰かれ構わず襲って殺すんだ。そう、自分の親でさえもね…」

いつの間にか、谷村も颯もじっとりを汗をかいていた。握った拳にそれが滲んでいる。

「挙武様は…私の子よりもより濃くその呪いが現れていた…だからまだ大丈夫だと思っていたお年だったのに…あの悲劇が起きたんだ。挙武様はね、5歳の時…呪いが覚醒して隣で眠っていたお母様と妹を食い殺してしまった。そして…」

女性はそこで一旦言葉を切った。きゅっと唇の端を結んだ後それを開く。

「その前の晩、教会で育てられていた幼い嶺亜様が周りの大人にしきりに『挙武をみんなから離して』と訴えなさっていたんだ。嶺亜様にはどういうわけか、挙武様が化け物化するタイミングがはっきりと分かってらっしゃるんだよ。それだけでなく、化け物化している前後の間の行動もね」