Bal à Versailles ~今夜は舞踏会~
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人生の第二幕

 

 わたしは2007年の春に大学生になった。だからわたしは、2007年が人生の第二幕の始まりだったと思っている。世界の広さも輝きも、そして生きにくさも全て、それまでの第一幕とまるで違うものだった。新たな章が始まった。人生が第何幕まであるのかは、正直なところまだわからない。ただ言えることは、まだ自分はいまきっと、第二幕の半ばを歩いている途中だろうということだ。

 

 2007年5月27日。

 まだ第二幕が始まったばかりで輝かしかった頃、当時一番大切な存在だったZARDの坂井泉水さんが亡くなった。それはあまりに突然のことだった。6限目の授業を受けていた月曜日の夕方、父から入ったメールで知った。なんのことだか分からなかった。当然授業は耳に入らない。当時まだスマホはないし、PCは自宅だった。自分で調べた情報でもないのに、どうしてそんなメール一本でそんな大切なことが本当だと信じたのだろう。途中駅まで友人が一緒だったが、ほとんど話さなかったと思う。そこから先は放心状態で電車に乗って帰った。ほとんどの記憶はない。ただ、最寄り駅から自宅への帰り道、ちょうどイヤホンから流れてきたのはマイフレンドの「涙が零れないように大きく息を吸った」という泉水さんの声だった。空を見上げて息を吸った。いつの間にか涙が滲んでいた。商店街のライトが滲み、その遠く先に紺色の空が見えた。デフォルメされた記憶かも知れないが、あの映像は多分記憶のそのままだったのだと思う。

 自宅に帰った途端泣き崩れた。母親が引いていたのを覚えている。テレビのニュースは、父からの情報が誤りではなかったことを証明していた。泉水さん、本当に亡くなったんだ・・

 

 そこから約一ヶ月、ほとんどの記憶がない。ただ、6月27日、青山葬儀場で泉水さんの音楽葬があった。その日は水曜日で、部活の初めてのレッスンの日だったのだが、そちらはすっぽかして泉水さんを選んだ。おかげでその後練習についていくのはかなり大変だったけれど、後悔はしていない。行ってよかった。あれはわたしの人生の中でも、かけがえのない一日だった。

 わたしが会場近くに到着したのは、夕方4時くらいだったのではないかと思う。覚えていないが、よく晴れた日で太陽はまだ高かった。スマホも地図もなく、どうやってあんな広い墓地を抜けて会場までたどり着いたのだろう。アナログ時代の記憶は曖昧だ。そこでは随分多くの人が泉水さんを忍んで列をなしていた。わたしも最後尾について並んだ。外だけで1時間くらいは並んだと思う。駐車場みたいなコンクリートの広場で延々並んだ後、次第に会場が近づいてきた。日除がある建物の外側だったか、臨時のテントが出ていたのかは覚えていない。

 もうその頃になると、涙が抑え切れなくなっていた。当時ZARDファンの知り合いはいなかったので、わたしはひとりだった。ひとりでよかった。連れ合いに気を使うことなく泣くことができたから。

 目の前には、お母さんに手を引かれた小学校に入る手前くらいの女の子がいて、こちらを振り向いた。わたしは涙でずぶ濡れだったので、思わず目を逸らした。その子はあんなに小さいのに、ここがとても哀しい場所だと知っているらしかった。泣いているわたしを見ても、母親になにか言ったりせずに、前を向いて大人しく並んでいた。それにわたしはとても救われた。

 会場の中は薄暗く、中央に泉水さんの写真が飾られていて、スタッフからカラーの花を一輪受け取って目の前の祭壇に供える形式だった。ほとんど覚えていないが、時間にしてとても一瞬だったし、涙で霞みすぎていてよく見えなかったような気がする。もっと泉水さんを忍んでいたかった。でも、後ろにもまだたくさんの人がいたから、一輪花を供えて一礼して終えた。出口近くにいたスタッフの女性が、頭を下げた。わたしも泣きながら頭を下げた。近くに泉水さんが生前使っていたマグカップや直筆の「負けないで」、My baby grandなどが置かれていた。じっくり見る余裕はなかったけれど。

 そこから先の記憶はない。どうやって帰ったのか覚えていない。ただ一つ心残りだったのは、たしかHPに「献花用の花は用意しているので、持参しないでください」的なことが書いてあって、わたしは素直に従ったのに、実際は花束を持ってきてしまった人のための献花台が外にあったことだ。わたしだってあの日、どうしても花束を持って行きたかった。我慢しなければよかったと、いまでも少し思っている。

 

 泉水さんが亡くなって、今日で十三年。泉水さんはいまでもとても大切な人だ。あれから十三年も、よく何事もなく生きてこられたと思う。

 2004年のただ一夜、彼女をこの目で見ただけだ。生前はとても露出の少ない人だった。ましてや今のようにインターネットで情報を24時間365日探せなかった時代で、彼女を最も愛していた頃、わたしはまだ子どもだった。アルバムの歌詞カードに映る儚げな横顔しか知らなかった泉水さんが、幻でも架空の人でもないことを、あの日一夜だけ、この目で確認しただけだ。そんな人がもういなくなったと突然言われたところで、信じろと言う方がおかしな話な気もする。

 実際、2007年のあの日から、ZARDの新曲はない。九月の武道館コンサートで、泉水さんのためのZARDのライブなのに、その特等席に彼女の姿はなかった。あれだけ五月に泣いたのに、その時になって初めて「もしかしたら本当にいなくなってしまったのかも知れない」と思った。多分あの場所にいた人はみな、そう感じたと思う。翌年も、そのまた翌年も、ZARDのライブに彼女の姿はなかった。それでもまだ、もしかしたらまだどこかで生きていてくれるかも知れない、と心のどこかで思っている。どこかで期待している。泉水さんはわたしたちにとって、近くて遠い人だ。遠い人だからこそ、そんな淡い期待を胸に、この先も生きていける。たとえ二度とこの世でお目にかかることはできなくても。

 

 十三年経っても、わたしの人生も第二幕はまだ道半ばだ。これから先もわたしはZARDを聴き続けるし、泉水さんの歌声はわたしを勇気づけ、癒し、時に泣かせるだろう。それらはどれも、とても心地よい時間だ。人生の最後の日、「揺れる想い」を聞いて終わりたいという願いはいまも変わらない。これからも泉水さんが大好きだし、ZARDが大好きだ。本当は、もう少し近かったら、もう少し早く生まれて、青春時代がZARDの全盛期だったらと思うことがある。それでもわたしは、泉水さんの同時代の日本人として生まれ、彼女の描く繊細な歌詞が理解できて、彼女の歌声と共に生きられた幸運に感謝している。こんなに幸せなことはない。

 

 今日も天国の泉水さんを想う。そして願う、この想いがどうか・・届きますようにと。

 

横浜への憧れ

 横浜が好きだ。横浜という名前の響きも好きだし、日帰りでぐるりと一周できてしまう街の規模も雰囲気も、どこか遠くへ航海出来そうな海も波の音も、全て大好きだ。いつか横浜に住みたい、ともう何年願ってきただろう。

 

 横浜への最初の憧れは、中学生の時に再放送で見た『スウィート・シーズン』がおそらくの始まりだったと思う。『スウィート・シーズン』とは、松嶋菜々子と椎名桔平が主演の、不倫と家族をテーマにした恋愛ドラマだ。

 

 少し話は逸れるが、2003年第1クールのドラマ『美女か野獣』をきっかけに当時、松嶋菜々子がとてつもなく大好きだった。寝ても覚めても彼女に憧れ、彼女みたいな綺麗なお姉さんになりたいと、毎日のように願って過ごした。今ほど情報が手に入りにくい時代だったが、本屋で彼女が表紙の雑誌を見かければ迷わず買ったし、周りにも公言していたので、友人たちが買ったテレビ情報誌などに彼女が載っていれば「取っておいたよ」と切り抜きをくれた。そうして集まった切り抜きたちはファイル2冊ほどになり、彼女への熱がとうに覚めた今見返しても、若き日の美しい彼女が心を掴んで来るので、どうしても手放せずにいる。

 

 さて、『スウィート・シーズン』は、そんな菜々子熱に侵されたわたしが、彼女の出演ドラマをすべて網羅しようと、地元のレンタルビデオ店や隣町のツタヤを渡り歩いていた時に出会ったドラマだった。先ほど再放送で、と書いたが、実は定かではない。出会いは再放送だったような記憶がしているが、おそらく全話を初めから録画できなかったのだろう、何度もツタヤに走ってビデオを借り、自室のレコーダーにせっせとダビングしていた記憶は間違いなく残っている(当時DVDも普及し始めていたが、ロックがかかっておりダビングできず、その点ビデオはセキュリティが緩かったので簡単にダビングできたのである)。

 正直なところ、菜々子氏の顔面だけでいうと『やまとなでしこ』や『美女か野獣』のほうがずっとタイプなのだが(え?聞いてない?)、当時24歳の彼女:真尋は大層初々しくて可愛らしく、そんな彼女が職場の上司:後藤課長(椎名桔平・既婚)と恋に落ち、人ならぬ道に外れていく様は、憎いところで挿入されるサザンの主題歌『LOVE AFFAIR~秘密のデート』による衝撃的なほどのロマンチックな演出も相まって、幼気な中学生の胸を踊らせるのには十分魅力的であった。

 当時ダビングしたものは、レコーダーの機種が変わりとっくに再生できなくなってしまったので、大人になって公式のDVDBOXを手に入れ、今でも年に一度は見返している。真尋の年齢をとっくに過ぎた今の自分が見ても、やはり各話クライマックスは最高にドキドキするし、真尋の可愛さは破壊力抜群だし、主題歌は強烈にロマンチックだし、なんと稀有なドラマだと思う。名作は色褪せないとはこういうことを言うのだ。

 

 いつの間にか二十年も昔のドラマの番宣記事みたいになっているが、このドラマの舞台が何を隠そう横浜なのである。横浜に生まれ育った主人公たちの、横浜で繰り広げられる愛憎劇だ。DVDの冊子に載っている演出家:福澤克雄氏の言葉「まだ誰も撮っていない横浜を撮りたかった」という言葉がとても印象に残っている。ドラマに出てくる横浜は限られていて、雑多な中華街と工場地帯、そしてメインはバー「スウィート・シーズン」。あの万国橋と電飾で飾り付けられたビルに、どれほど憧れたことか・・。橋は海にかかっているので、もちろん「海」も出てくるけれど、あまりドラマの前面には出てこない。ドラマに出てくる横浜は、いわゆる「横浜」と聞いて想像するような青い空と海、キラキラの夜景、外国船、山手の洋館エリアなどといった、心躍る横浜の風景ではない。そこがおそらく「まだ誰も撮っていない横浜」を切り取った、このドラマの最大の魅力なのだろう。

 

 出会いから二十年弱、横浜への憧れは薄れるどころか、年を重ねるごとに心の中にも同じように積み重なっている。実家が品川の方だったので、横浜は特急に乗れば30分もあれば着いてしまう日常の延長のような土地のはずだった。しかしながら、中学生のわたしにとっては1-2年に一度家族で車で訪れるような特別な場所であり、おそらくそれが知らずのうちにその憧れを強くした。実際、最初に仕事をした街は偶然にも横浜だったし、職場を離れた後もよく遊びに行った。今は東京の北の外れに来てしまったので、横浜はずっと遠くなってしまったけれど、それでも年に数回は訪れている。そして行くたびに、横浜に住みたい、と思う。横浜にお邪魔しに行くのでは無くて、横浜の一員になりたいのだ。

 転職の時、毎回横浜の会社を探す(既に二度転職している)が、横浜に拠点を置いている会社は多くない。わたしは体力がないため、プライベートな時間と体力を確保できる「職場の近くに住む」がかなりの重要事項であり、横浜に住んで東京に通勤することは考えていない。だから、横浜に暮らすには、横浜で生活の糧を見つけるしかないのだ。これまで譲らずにきた「それなりに基盤のしっかりした会社の正社員」にこだわらなければ、それは十分可能だと思う。そんな生き方もありかもしれない、と最近は考えている。もし近い将来、横浜に住むことができたら、それまでの過程と横浜での暮らしを、是非語りたいと思う。

 

においにまつわるエトセトラ

 自分の価値観は当たり前だけど、自分だけのものだ。だから自分にとっては「当たり前」でも、他人にとってはそうでないかもしれない。

 今日みたいな雨の日、多くの人は「憂鬱だ」と思うだろう。でもわたしは、雨の日が好きだ。仕事の日が雨だったら、「これが週末でなくてよかった」と思うし、休みの日が雨だったら、「家でのんびり過ごす口実ができてよかった」となる。

 

 もう一つ、雨の日が好きな理由は「匂い」だ。雨の日の匂いが好きなのだ。雨の降りしきる空気の匂い、湿った山の匂い、アスファルトに落ちる雨の匂い・・もしかすると雨の多い地域ではそうでもないのかもしれないが、これらの匂いは「非日常感」を運んでくる。いつもと違う匂いに、なんだかワクワクさえする。

 

 他にも、好きな「匂い」はたくさんある。例えば、「冬の朝の空気の匂い」。寒い冬の早朝、窓を開けるとツンと鼻をつくような凍てついた空気は、冬の朝にしかない不思議な匂いをしている。それも真冬や冬の終わりではなくて、晩秋から本格的に冬が始まった季節に限って、この匂いがするのだ。毎年この匂いが鼻先を翳めるたび、「あぁ、冬が来たな」と、寒い冬が大嫌いなくせになんだか胸が躍ってしまう。そしてその空気を胸いっぱいに吸い込む。肺に冷たい空気が流れ込んで、シャキッと気持ちよく目が覚めるのである。

 

 そして、花粉が舞い始める二月の末から三月の頭にかけて突如現れる、春を先取りしたような暖かい日。春一番ではない、そんな穏やかな早春の昼間、その「匂い」は突然やってくる。「春の風の匂い」だ。わたしは子どもの頃から患っていた花粉症が、なぜか数年前にパッタリと治ってしまったクチなので、春の訪れは飛び上がりたくなるほど嬉しい。その春の訪れを真っ先になにで感じるかというと、この「春の風の匂い」である。そしてそれは不思議なことに、わたしの中で「パリの春の風の匂い」とほぼ同義になっている。

 理由はわからない。一つ考えられるのは、このとてつもなく心地よい「春の風の匂いがする日」は、春夏秋冬が薄れて久しい日本では年間でも数えるほどしかないのに対し、冬が長く夏が短いパリでは同じようにまた春が長く、「春の風の匂いがする日」が毎日のように続くからではないか、ということだ。パリの春はたった二度しか経験していないのに、毎年この「春の風の匂い」を感じると、「あ、パリだ」と思う。ここは東京なのに、だ。こればかりは感覚的かつ直感的なもので、パリに行く前にも毎年感じていた匂いのはずなのに、パリから帰ったその年から、不動の「パリの春の風の匂い」の代名詞としてその地位を固めた。それは同時にとてつもない懐かしさを運んで来るので、多分毎年この「春の風の匂い」を感じるたびに、パリを思い出すのだろう。

 

 わたしはつい最近まで、こういった季節の折々に感じる「匂い」は、すべての人が等しく感じているものであると思っていた。自分の家族、友人、周りにいる人・・全てが同じように、季節の匂いを感じ取っていると思っていた。しかしながら、最近になって読んだ何かの本(思い出せないのが残念だ)に「自分は人より嗅覚が鋭いらしい」と気付いた著者のエピソードがあり、その思い込みは誤りではないか、と思うようになった。その著者はわたしと同じく「季節の匂い」を感じる人で、何かの拍子に「春の匂いがする」と口にしたところ、そばにいた友人から「それ、誰々も似たようなことを言っていた」と指摘されたというものだった。その著者も驚いたようだったが、それを読んでわたしも驚いた。

 これまで当たり前に感じていた「季節の匂い」はもしかしたら、ごく一部の人に限られた匂いなのかもしれない。別にそれを感じたところで大金持ちになれるわけではないが、季節に対して敏感なのは間違い無く、それを季節折々の「小さな幸せ」と捉えてこれまで生きてきた者としては、それを感知できないのはあまりにも風情がない気がしてならない。

 

 思えばわたしは、良くも悪くも人より嗅覚が鋭いような気もする。例えば、実家のタオルが驚くほど雑巾くさい件。これはわたしが物心ついた頃からで、それに気付いてからは家族で共用にしていた(!)フェイスタオルを、自分専用のものを使うように変えていた。母親に「このタオル、くさいよ(よくそんなので顔拭けるね)」と何度言っても、「え、そう?」と鼻先に持っては行くものの「全然わからないけど」と言われて終わってしまう。正直鼻が詰まっているとしか思えないのだが、まぁ百歩譲って、使っている本人が気にならないのであれば構わないだろう。

 その考えられる原因として、これも感性を疑うのだが、母は夜に洗濯を回し、すぐに干すことしないで、洗濯槽や洗濯カゴに濡れた洗濯物を放置して、翌朝になって干す、というのを慣例としていた。夜遅くまで仕事をしていたし、それをわたしも手伝うということを一切しなかったので、文句は言わずにいたが(というかいうと怒る。素直に改善すれば良いのに)、正直なところ傍目にそれがものすごく嫌だった。それが雑巾くささの原因であることは一目瞭然だった。よって実家に住んでいた頃は、自分の使うタオルは洗濯に出す回数を減らしたり(一回使っただけで洗濯すると、すぐに繊維が傷んでバリバリになってしまうし)、使った後はよく乾かすなどして、自己防衛するしか手立てがなかった。残念ながら、両親が仕事を引退して隠居暮らしとなり、洗濯は朝回してすぐに干す習慣が根付いた今も、タオルの臭いは変わらない。

 当たり前なのだが、タオルのように濡れた状態でいることが多いものは雑菌が繁殖して、いくら頻繁に洗っていても洗剤程度では、除菌・殺菌は期待できない。よく「生乾きでも臭わな~い♬」とか、「漂白化学!」とか物騒な洗濯洗剤をCMで見かけるが、そんな体に悪いものを使わなくても、煮沸消毒すれば一発で不快な匂いを取り除ける。というか、煮沸消毒しないことには取り除けないと思った方が良い。実際、あまりにわたしがタオルの臭いを指摘するので、ある時母が「強力除菌の漂白剤を使って洗ったよ」と言ってきたことがあった。が、その前後でタオルの臭さは全く変わらなかった。お金を払って買った上、体に悪いだけでなく効果もないなんて・・熱湯ならタダで効果抜群である。

 なので、一人暮らしを始めてからは、「・・ん?」と感じるようになる前に、タオルや下着、シャツ等は煮沸消毒するようにしている。煮沸すると言っても、そんな衣類をグツグツ煮れるほどデカイ鍋は持っていないので、3ヶ月に一回くらい、消毒したい布類をブリキの洗面器に入れ、給湯できるMAXの温度60℃のお湯を八分目まで注ぎ、鍋に沸かした熱湯を上からジャバジャバとかけて、割り箸などで満遍なく回し、十五分ほど放置してから通常の洗濯をする、といった簡単なものだ。これだけで驚くほど臭いが取れる。身も心もスッキリ爽快である。以前これを母に教えたけれど、全くやる気配はないし、今でも実家に帰るとそこらじゅうのタオルは臭いままだ。驚くべき学ばなさというか、向上心のなさである。だから実家に滞在するときは、手を拭く時も自分専用のバスタオルを使い続けている。いつかわたしが母の代わりなって、実家じゅうのタオルを煮沸消毒してあげられるくらい、心の余裕が生まれれば良いのだけれど。正直、彼らは一日中ヒマで家にいるのだから、わざわざわたしが出張ってやることでもないだろうと、思っている。

 

 においにまつわるエピソードはまだまだあるのだけれど、長くなりそうなので今日はこのあたりで。

 

 

子どものこと

 わたしは子どもが苦手だ。奇声を上げてあたりを駆け回り、いつぶつかって来るかも知れないから、小さなミサイルみたいで怖いし、話をしようと試みてみても、殆どの場合まるで会話にならず、居心地悪いことこの上ない。心の平穏のためには、なるべく同じ空間に存在しないことが望ましい。だから当然、自分からは関わらないようにしているし、必然的に距離を取るようにしている。

 

 思えば物心ついた幼少期から、子どもが嫌いな子どもだった(もちろん自分も子どもなのだが)。視界の中に、他の子どもがいるのが嫌というか、苦痛だった。幸い一人っ子だったので、家にいれば他の子どもと関わらずに済んだが、やれ近所の公園だの児童センターだの地元の祭りだの、余計なお世話とも言えるイベントが年中あり、その度に同世代の子どもと関わるのが幼心に負担だった。

 最も記憶に残っているのは、おそらく3−4歳の頃、夏祭りかなんかの神輿に知らない子ども大勢と一緒に乗せられ、町内を延々と練り歩いたことだ。わたしは端っこの手すりに捕まり、この不快なイベントが一分でも早く終わらないかと考えていた。隣に座っていた、顔も知らない同い年くらいの女の子に、話しかけられたのそうでなかったか、もはや記憶にはない。だが、肌と肌が触れ合うであろう距離にいた、その子の存在自体が疎ましかった記憶だけはある。向こうとしては知ったこっちゃないだろうし、甚だ失礼な話だろうが。

 今でも当時の写真には、非常につまらなそうな顔をしたわたしが写っている。後年、「わたしが子ども嫌いなのわかってるくせに、なんであんなのに乗せたの?」と母に聞いたら、「そうだったの?やりたいかと思って」という、なんとも間の抜けた答えが返ってきた。これはあくまで個人的見解だが、子どもが自ら「やりたい」と言ったこと以外の大抵は「やりたくない」と同義であると考えた方がいい。子どもは自己主張や意思疎通が大人ほどうまくできないのだ。まぁ、今となってはこうしてネタにできているので、あの神輿もとてもいい思い出なのだけれど。

 

 こんな調子だったから、否応なく他の子どもと過ごさねばならない幼稚園、小学校はいい思い出はまるでないし、言ってしまえば中学校もあまりない。中学生くらいまでの女子というのはまるで幼稚で、自分の縄張りを保とうとし、自分が気に入らない者、外部の者には執拗に攻撃しようとする。大人になってもそれが変わらない人は一定数いるが、自我をコントロールできるようになる中学生くらいまでは、そういう人口が圧倒的に多い。

 わたしが通ってきた道にも平均並みにそういう女子がいて、たとえ同じグループでなくとも、そのようなコミュニティに属するのが大変苦痛だった。とくに小学校は一クラスしかない小規模な学校で、必然的に同じメンバーと6年間一緒なわけであるから、その閉塞感は他所の学校以上だったと思う。なんでこんな幼稚な連中と同じクラスというだけで一緒にいなくてはならないのか、子ども心に甚だ疑問だった。でも、自分も所詮子どもだったので、学校やクラスという狭いコミュニティで、かつ子どもにとっては自分にとって簡単に逃げだすことの許されない環境であるがゆえ、それに対して何かアクションできることはなにもなく、ただただ「学校がなくなったらいいな」と思いながら毎日を過ごしていた。

 あの箱の中に閉じ込められた数年間は、今思い返しても二度と戻りたくない期間である。今覚えば、わたしなぞよりずっと素直で心根の優しい子はたくさんいて、きっと今会えば打ち解けあえるような人もたくさんいるのかもしれないが、今でも連絡を取るような友人は一人もいない。

  高校時代は幸いにも友人に恵まれ、大学以降は所属するコミュニティをある程度自分の裁量で選べるのもあって、あの頃感じていたフラストレーションは、子ども時代の遠い記憶の中の話になった。大人になるために誰しもが通る、ある種の通過儀礼のようなものなのだろうが、それが果たして人生において必須履修科目なのか?どうかは、大人になった今でも疑問が残る。ただ間違いないことは、あの面倒な子ども時代には決して戻りたくないし、「あの頃本当に嫌だったな」という今でも心の片隅に残る記憶を、できればなかったことにしたい、という事実だけである。

 

 さて、話の焦点を子どもに戻そう。幼い頃から積み上げてきた子ども嫌いは、大人になって治るどころか、残念ながらもう自分のパーソナリティの一片となっている。

 この年頃になると、Facebookなどでも結婚・出産・子育てのニュースが多く、とくに子どもに関するくだらない報告や日記のような投稿が目障りで、開かなくなって数年が経つ。Facebookなど苗字が変われば誰だったか思い出せないような繋がりの人もいて、見なくなったところで日常生活に差し障りはないのだが、それでも数少ないLINEなどで繋がっている友人や知り合いから、ちらほら子どもが生まれたという報告が入ることがある。こんなわたしにまでわざわざご丁寧に、と深謝申し上げるとともに、残念ながら今後の交流はなくなるだろうな、と思いながら「Happy Birthday!」「おめでとう!」といったありきたりなメッセージやスタンプを送っている。この年頃の女子にありがちな、羨ましいとか、妬みの感情は一切ない。ただ単に、お互いに住む世界が違うのだ。その生まれた子どもが相当大きくなるまで、わたしたちに共通の話題はほぼないだろう。一緒に出かけられる場所も、もう殆どないだろう。だから、それが日頃からよく会ったり、交流していた友人だと、身勝手ながらとても淋しい気持ちになる。似たような目線で世界を見たり、話し合える日は多分もう来ないのだ、わたしが同じ立場にならない限り。そしてその可能性は残念ながら一ミリもない。

 こうして消去法的に友人が減っていくので、必然的に周りは「おひとりさま」ばかりになる。ここでも身勝手ながら、彼らがこれからも同じ「おひとりさま」で、くだらないことで笑い合ったり、一緒に旅に出たり、楽しい時間を過ごせたらいいと切に願っている。

 

 そんなわたしにも、子どもが生まれても奇跡的に疎遠にならなかった、貴重な友人が一人だけいる。彼女は中学時代の部活の友人で、当時のほとんどの時間をともに過ごしていたが、わたしが中三で引退したこともあって(中高一貫校だったので、高校卒業まで続ける人が多かった。彼女も6年間続けていた、立派だ)高校時代は疎遠になった。大学時代も遊びに出掛けたのは一度だけだったが、社会人になってしばらくして、ひょんなことから連絡を取り、食事に行った。その時彼女はもう結婚が決まっていて、式はまだ先だったが「ずっと会ってなかったけど、Adelaideだけは絶対に呼ぼうと思ってた」と言ってくれた。毎日会っていた頃から随分と年月が経ち、一度しか遊びに行かなかったような仲だったのに、わたしはとても嬉しかった。そんな彼女は、頼んでもいないのに(おい)、子どもが生まれるたびに報告をしてくれる。驚くことに、今では三人の子持ちだ。わたしとはまるで住む世界が違うのだ。けれど、彼女は子どもが生まれて会いに行った、唯一の友人でもある。

 わたしは子どもが苦手なので、仮に生まれた報告をもらっても、基本的に会いに行くということはしない。わざわざ貴重な休日の昼間に家まで会いに行き、自分では想像もつかない出産や子育ての話に相槌をうち、どんなに頑張ってみても可愛いとは思えないその小さな赤ん坊に「可愛いねぇ」と声をかける・・ざっとみても、特に得るものはなさそうである。それだけならばこちらが少しの時間我慢するだけで済むが、もし促されるまま抱っこでもして、落っことして割ってしまいでもしたら大変だ。そんなこんなで、子どもに会いにいくのは最大限避けている。

 ぶっちゃけた話、はじめは彼女の子どもにも会いにいく気はなかった。けれど、毎年子供の写真入りの年賀状をくれ(それをわかっているのに、わたしは毎年受け取ってから返事を書いている。ごめん。でも、心を込めた手書きだから許してほしい)、出産報告をくれ、そして時々「会いたい」と言ってきてくれる。なんという貴重な人だ。年に数回会っていたような友人でも、出産報告どころか結婚報告もしない無礼な輩がちらほらいるのに(この話はいずれ)、本当にありがたい。

 ということで、はじめは気乗りしなかったのだが、流石に一度は子どもたちにも会っておいたほうがいいだろうと、昨年の春にお花見がてら久々の再会をした。彼女の結婚式の後に一度会って以来、4年ぶりの再会である。子どもが苦手なわたしは、正直かなりビビっており、事前に「わたし子ども苦手だから何もできないと思う。最初に謝っとく、ごめん」と断りを入れており、彼女の合意も得ていたのだが、まるで杞憂に終わった。上の娘(Yちゃんとしておく)が3歳、下の息子くんが1歳になったばかりのタイミングだったのだが、下の子はほとんど喋ったり歩いたりできないからそこにいるだけだったし(お人形みたいで可愛かった)、逆にYちゃんは「え。子どもって普通こんななの?」と思うほど人懐こく、子ども初心者のわたしにもよく懐いてくれた。おかげで「うわー・・話すことが何もねぇ」という微妙な間は生まれなかった。とはいえ3歳なので、会話をするという感じでもなかったけれど、ほとんどの時間は遊び回る子どもたちと、その相手をしている彼女を芝生の上から眺め(とてもお手伝いなどできない偏差値のため)、その様子をカメラに収めたり、時々一緒に芝生で遊んだりした。想像していた以上に楽しい時間だった。

 

 帰り道、話しながら歩く我々大人二人に、Yちゃんが遅れがちに後ろからついてきていた(下の子はベビーカー)。友人は毎回振り返り、何度か声を掛けていたのだが、彼女はベビーカーで手が塞がっていたので、手ぶらだったわたしはふと「Yちゃん、手繋ぐ?」と申し出てみた。自分でも驚くべき申し出であるが、その時は自然にそういう気持ちになったのだ。そうしたらYちゃんは照れたような、それでいてとても嬉しそうな表情をし、友人も「わぁ、嬉しいねぇ!」と、まさかわたしが手を繋いでくれるとは夢にも思っていなかったのだろう、とても嬉しそうにYちゃんに声を掛けた。その時初めて、自分が何かすることで、この人たちに喜んでもらえることがあるのだ、と知り、わたしも嬉しくなった。

 得てしてYちゃんと手をつないで歩くことになったのだが、お察しの通り、子どもと手を繋ぐなど人生初体験である。そもそも繋ぎ方もわからなかったのだが、こんな小さな手でも子どもからしたら大きいらしく(余談だが、わたしは時折手の小さそうな友人を狙って、どちらの手が大きいか合わせてみてもらうのだが、この方一度も勝ったことはない)、中指と人差し指だけ掴んでくるので、そのまま歩いた。友人に「えっ、これでいいのかな?」と聞いてしまったが、多分あれでよかったのだろう。

 わたしは子どもが嫌いなので(耳タコ)、自分の子どもを持つことは終ぞない予定なのだが、そのとき「他人の子でもこんなに可愛いのだから、自分の子どもなら本当に可愛いのだろうな」と思った。思ったというのは、頭で思ったのではなく、心で思ったのである。それを家に帰ってから、毎日LINEをしている別の友人に話したら「おー、ついに母性目覚めた?( ˙-˙ )」と言われた。残念ながら母性は目覚めなかったが(目覚めなかったんかい)、これまでの人生にはなかった貴重な体験ができた。貴重な一日だった。

 

 さて、年初に彼女に三人目の子が生まれたのもあり、お花見がてら一年ぶりにピクニックをする予定だったのだが(勘の良い方はお気づきだろうが、わたしの「仲良い人」=年に1−2回、定期的に会う人、なのである。この話もいずれ)、残念ながらコロナのせいで流れてしまった。来年こそは、四人でお花見をしたいと思う。

 

 

 

久しぶりにブログでも書いてみようかと。

実に3年ぶり?の更新なうです。

いや、むしろ3年ぶりってのが驚き。だって感覚的には8年ぶりくらいだもん。
 
ここ4年ほど、定期的に文章を描いてきたわたくしですが(カネには1円もなってないけど)
またブログでも書いてみようかと思いまして。
 
文学少女とは程遠い幼少期〜学生時代を過ごし
おかげで受験では国語でほとほと苦労をし
ようやく一年前から図書館に通う習慣ができ
今はこんなご時世なのでKindleで本を読みまくっております。
我ながらいい流れ、これからも本を読み続け、くだらないことでも何かしらインプットを怠らないようにしようと思います。
 
さて、そんな活字とは無縁の生活が長く続いた中でも
少女時代に好きだった作家はさくらももこさんで、
たぶん実家にはほぼすべての作品が揃っている。
久しぶりに「あのころ」や「まる子だった」を読み返していたらふと、私にも描けそうだなと思いまして(大変な失礼は承知の上です)
これからはエッセイでも綴っていってみようかと思っております。
 
新しくブログを立ち上げるか迷ったのですが
面倒だったのと(オイ
昔の自分の痕跡を読み返すとたいそう面白く
これは客観的に見ても面白いのではないか、などと思い込んだため
過去記事を残しつつもこちらで更新再開することにいたしました。
ヒマな方は読んでいただいても構いません。
まぁ、読まないほうがよろしいかとは思いますけれども。
 
では、引き続き気まぐれにお付き合いのほど
よろしくお願いします。
 
 
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