クマコの築100年古民家リノベーション移住日記

その1 50歳過ぎてからの運転免許取得


 夫からJターン移住の企画を聞いて受け入れた際に、具体的なことが何も決まらないうちにまず決断したことは、運転免許の取得である。その時、52歳。


 私は、都会生まれの都会育ち。父は神戸・尼崎育ち、母は大阪育ち、私と弟2人は東京と横浜育ち。二代にわたって大都会っ子である。生活に車が全く必要なく、移動手段は公共交通機関のみ。父ですら、免許を持ちつつもペーパードライバーが長く続き、私が高校生の時に初めて自動車を購入した。50歳手前くらいだったと思う。ゴルフが趣味で、ゴルフを満喫するためだけの購入だった。

 日常生活が車と無縁だったため、大学生になって友人達が免許を取得する中で、私は取る気になれなかった。全然取る気が起きなかった。車と無縁だっただけなら免許を忌避する理由としては弱い。実は、もっと根深い理由があった。


(1)車酔いしやすい

 子供の頃から車酔いしやすく、車が大嫌いだった。バスでの遠足もタクシーに乗るのも地獄。親類の家に行って車に乗せられるのも地獄。基本的に「車嫌い」だったのである。


(2)交通事故の恐怖

 母の弟の息子、すなわち従弟が交通事故で11歳で亡くなった。私が高校生の時だ。自転車に乗っていたら大型トラックに轢かれ、頭を潰されて即死だったと聞いた。その話の衝撃は計り知れない。弟2人が大学生時代に免許を取得した際、彼等の心理を測りかねたくらい。従弟の死は私の大きなトラウマである。自分の子供達を自転車に乗せられなかったのもそのせいで、2人は今でも自転車に乗れない。


 しかし、地方移住となると、背に腹はかえられぬ。車の運転ができないと生活できない、と聞く。もう50歳過ぎたけど、これは免許を取得するしかあるまい、と決断した。


 教習所への通いより合宿の方が早く取れると聞き、夏休み利用で子供達と三人で合宿免許に参加することにした。二十歳前後の若者達に混じって、中高年のオバチャンが合宿免許の場にいるのは目立って仕方なかったが…。

 実際に参加する前は、記憶力の衰えによる筆記試験不合格が心配だったのだが、実際に始めてみると全く逆だった。実技で四苦八苦し、筆記は楽勝だったのだ。自分の運動神経の悪さは筋金入りで、それに老化が加わって散々だった実技に比べ、年の功の経験値が効いて筆記は子供達より好成績なくらいだった。一度など、模擬試験問題に対する回答が間違っていることを発見して、教習所側に指摘して修正までさせたりした。経験より能力重視主義の自分を救ったのが経験だったという結果は、何とも皮肉である。


 悪名高い教習所の教官達は、思っていたよりは常識的な人が多かった。少子化で教習生の取り合いになっているのか、比較的親切だったと思う。

 一人だけ嫌味な男教官がいて、中高年女を露骨に馬鹿にしてハラスメントをしてきた。そのクソ教官が当たって路上に出た時に、そいつが酒の臭いをプンプンさせて助手席で居眠りをしていたので、所長にその旨を報告して卒業時の感想文にも記述して悪行を訴えた。果たして、処罰されたかどうかは分からないが。その教習所では過去に、女性教習生とデキて合宿所で○○した男教官がクビになったケースがあったそうなので、教官の勤務中の酒気帯びと居眠りも厳しく処罰されることを願うばかりである。


 実技で何度もダメ出しを食ったせいで、子供達よりも卒業が二日延びてしまった。ところが逆に、最後の実技試験は、子供達は二人とも一回目は不合格で二回目に合格だったのだが、遅れた私は一発合格だった。そのココロを聞いてみると、結局は実技ルートの難易度と教官次第。私はたまたま、簡単なルートと良い教官の両方に当たっただけ、ということに過ぎなかったのであった。何事も、運の要素は大きい。


 警察で最後の筆記試験を受けて、筆記は楽々一発合格だった。結局私は、圧倒的に筆記の方に強かったのであった。

 試験前の手続の窓口では、年配の婦人警官に当たった。私の書類を見て驚いて、「そのお歳で、よく頑張りましたね」と満面の笑みで感心されたので、「はい、頑張りました!」と返事した。我ながら頑張ったと思う。


 その後、免許証は身分証明書として大活躍である。無免許の頃の身分証明の苦労が嘘のようだ。


クマコ20221121