金色毛長犬 -2ページ目

薬師の一計

疲労を土産として持ち帰ったものは、床に就くとたいてい悪夢や不安に精神を苛まれ、やがて自身のうめき声でがばと身を起こすものである。そうして身を冷やすほど滴る全身の汗に気づき、やがて平和な日常に一息ついて再び枕に頭を横たえてまどろみに落ちていく。


しかし、黒田坊は格別そのような奇異な現象に出会うこともなく、まるでのどかな午睡からさめたかのようにまぶたをゆっくりと開けた。


目に飛び込んでくる艶みがかった天井の木目、焚きしめる香の香りとツンと鼻をつく薬湯の匂い。こぽこぽとお湯を沸かす音と起きがけに感じる口の中の乾き。それまでどこかへ奪われていた自分の五感が、目覚めた瞬間一挙に蘇ってくるような錯覚に陥った。


(・・・いったい自分はどれくらい眠っていたんだろうか)



首を左手の方に動かすと、半開きになった障子の奥から、舞い散る桜の花びらの鮮やかな桃色と梅の花の可憐たる純白が見える。目もくらまんばかりの日の光は空の紺碧さえもぼかすほどに強く、それはこの屋敷の廊下の艶さえも無駄に際立たせているくらいだった。彼が日ごろ愛でている縁側近くに生えている雄松の木は、針のような葉一本一本にも豊かな潤いをみなぎらせて静かに主人を見守っているかのようだった。吹く風の冷たさと爽やかさから、ようやく彼は今時分が朝であると理解した。



「よお、やっと目ぇ覚めたか」



静寂を突き破るかのような力強い声に若干びくっとして後ろを振り返ると、銀髪の若い男が、にかっと笑いながら片ひざ立てた蹲踞(そんきょ)の姿勢で彼を眺めていた。鋭いが大きい三白眼の瞳は、いたずら好きの童子のようなあどけなさが残り、普通ならだらしなく見える着流しも、彼がやると粋に見えるのが不思議とおもしろいところだ。

「蝉か」


「まだあんまり動かないほうがいいぜ。俺の治療をもってしても、その傷じゃあ完治するまでにあと1日ばかしかかるからな。」


彼は、そう言うと立ち上がって床脇にある薬湯を満たした薬缶の方へ歩み寄り、檜のたらいに濃い緑色の薬湯を注ぐと、清潔な脱脂綿を小脇に抱えながら黒田坊の臥所のそばにどっかりと座った。


黒田坊の部屋は、僧侶の部屋というだけあって無駄な華美をそぎ落とした立派な書院造である。敷居のすぐ左脇には黒の漆で塗られた書院があり、床の間には墨で描かれた風雅な山水画がかけられている。そのすぐ下の一段高い畳床には、彼が清朝の代にわざわざ中国まで赴いて買いに行った磁器花瓶が置いてあった。しかしこれは末期に合理性を追求して大量生産されたような、無駄に金色を施してある下品なデザインとは異なり、雪花石膏のごとく真っ白な陶磁の肌に、瑠璃色の花模様がぐるりと一本描かれているだけの質素なものである。黒田坊はこれを一目見た瞬間、すぐさま清まで出向き、頑固な職人相手にねばりにねばってやっと手に入れたのであった。もう200年も前のことになるが、この美しい作品を見るたびに、あの時の充実感と惚れ込んだときの魂を奪われたような陶酔感が新鮮な形で蘇ってくる。


「あんたを信用してこれをやろう。ただでかまわない」と言って譲り渡してくれたあの職人が、その後すぐ阿片中毒者によって道半ばであえなく殺されてしまったと聞いたとき、黒田坊はその家で行われた貧しくもひっそりとした葬式に参列し、悲痛な面持ちで職人が好きだった福寿草を手向けたものだった。


黒田坊がぼんやりと床柱の竹筒に生けてある白い福寿草を眺めていると、蝉がそれと察して口を開いた。


「ちょうどこの時期だったんだろ。お前の好きなあの爺さんが死んじまったのは。」


「ああ、あの時もこんな風に桜が咲いていたな。」


「あん時、珍しく人間の葬式に参列したんだってな。泣きっ面で花を墓前に手向けたんだって。」


蝉はさもおかしそうににやにや笑いながら、脱脂綿を静かに薬湯に浸す。綿の白い部分がみるみる濃緑色に染まり、エメラルドグリーンのような綺麗な宝石色になっていった。


「それで毎年春になると、あの床柱の茶花は、ほれ、」


その方をあごでしゃくりながら、


「必ず福寿草を飾るんだ。」


「誰から聞いた。」


「青の野郎だよ。」


あのおしゃべりめ、と黒田坊は友人の青田坊に内心蹴りをくれてやりながらも、それでも憎めない彼にどこか不思議な力を感じた。


黒田坊が身を起こそうとすると、先刻食らったわき腹の刺し傷が、あの時の戦闘における鮮やかな記憶をも携えてじくじくと疼きだした。



「・・・っ!!」



「ほらみろ、言わんこっちゃない。だからおとなしく寝てろと言っただろうが。」


蝉はそう言うと、強引に黒田坊の肩をつかんで真っ白な布団に押し戻した。


「そのうち、また内臓が飛び出るぞう」


居酒屋の酔っ払い親父もまっさおな駄洒落を飛ばしながら、彼の腹に脱脂綿をあてがう作業にとりかかる。血に染まってやや赤黒くなった包帯を取り外し、薬湯を浸した脱脂綿をあてがってその上からまた清潔な包帯を巻きつけるのに、ものの5分もかからない。ここはさすが若いといえども、彼が医術の上では一流であることを認めさせるに足るものがある。


「そうそう、ゆうべは聞きそびれたけどよ。なんで、ていうか、誰からこんな傷を負わされたんだ?」


「ああ、その事か。実はわけのわからない小童から奇襲をくらってな」


「小童?妖怪か?」


「まあ、一見人間のようだったが、あれは人間ではないな。妖気のようなものも身に付けていたし。」


「妖気のようなものってなんだよ?」


「ああ、それも・・・しっ!」


黒田坊が蝉の問いかけに応えて口を開こうとした瞬間、廊下の奥から細く足音が聞こえた。蝉が緊張した顔つきで、いつでも立てるようにと片ひざに掌をおく。だが、そんな彼らの緊迫感もつかの間であった。


「リクオか」


蝉が安心したように居住まいを直す。


「あの足音は若だな」



「黒田坊、蝉、入ってもいい?」


障子の向こうから優しげな柔らかい呼び声がかかった。


「どうぞ」


黒田坊が促すと、さきごろのめがねをかけた小柄な少年がおずおずと心配そうな顔つきで扉を開け、窺うような足取りで敷居をまたいだ。


「どうなの、怪我は?」


「まあ、おかげさまで。この通りすっかり元気に。」


「だから、完治じゃねえって言ってんだろ。」


蝉が文句を言うようにぶつぶつとつぶやく。



「ごめんね、あの時すぐ駆けつけてやれなくて。」


リクオは申し訳なさそうに頭を垂れた。


「いや、若が気にすることではありませぬ。これは拙僧が勝手に買った喧嘩の所以。大事にしたくもなかったので。」


「だから、誰に喧嘩を売られたんだってばよ!」


蝉が自分の腿をばしんと手のひらでたたきつけながら叫んだ。



「うむ、実はそれが拙僧にもよくわからないのだ。」


「わからないだとお?」


蝉がとんきょうな声をあげる。


「どういうこと?」


リクオも怪訝な顔で身を乗り出した。


「急かすな、蝉。まあ聞け。先刻、拙僧があの城下近くの堀をいつもの通り歩いていると、西洋の僧の格好をした少年が向こうから歩いてきてな。“あなた、奴良組だよね?”と尋ねてきたんだ。


それで、拙僧が“だからどうした”と応えると、そいつは急に槍の武器を携えていきなり襲い掛かってきた。こちらもわけがわからなかったが、とりあえずむざむざ命を奪われるわけにもいかぬから、それなりに応戦していたのだが、なかなか相手もしぶとくてな。」



「それで、どうなったの?」


「若。ええ、それで、どこからだっけ。ああ、そう。一応応戦はしていたんですが、こちらも致命傷を負ってしまいまして。ひとまず逃げてどこかで奇襲しようと思ったのですが、これがなかなか向こうもすばしこかったんです。」


「倒すことはできたの?」


「いや、あと一息というところまでは行ったのですが、その時奇妙なできごとが。」


「奇妙な、て?」


「拙僧が止めを刺そうとした時、いきなりどこからか仲間が現れてその少年をひっさらっていって、」


「なんだ、よくあることじゃねえか」


「口を挟むな、蝉!聞けというに・・・。ただ、妖気は一体分しかなかったんです。こちらが名を問いただしても、“アポロン神のご加護を賜るイデ派の者”とだけ。」


「神ぃ?なんか胡散臭い話だな。」


「胡散臭いにしろ、どちらにしろ、新手の敵であることには間違いないだろう」


「それじゃあ、今夜にでも集会を開かないとね。」


リクオが、難しい顔をして口を開いた。


「何故です?これは拙僧一人の問題でしょう。」


「いや、奴良組と聞いて襲い掛かってくるということは、そのうち間違いなくうちの組全体に攻撃をしかけてくる可能性がある。四国の時のように、新たに百鬼夜行を引き連れてうちを潰そうというのかも。」


「そうだな、京の羽衣狐の一件もあるし、油断はできねえな」


蝉も相槌をうつ。


黒田坊はしばし沈黙した。確かに、あの少年の執拗な目つきやみなぎる殺気、そして何よりも突如現れた謎の男の一言。


-そのうち、お前たちとまた見えるかもしれん-


考えれば考えるほど、この一件がただのかち合いではないような気がしてきた。


「いいでしょう。今夜、奴良組の連中を集めて集会を開きましょう。拙僧も、責任を持って参加いたします。」


「ただし、俺の看護つきな」


蝉が目を光らせる。



リクオは、憂鬱な面持ちで外を眺めた。春ののどかな陽気とはうらはらに、彼の胸中には心中穏やかならぬ胸騒ぎと、黒い予感がひしめいていた。

壱:若き亭主

「起きなさい!起きなさい!おーきーなーさーいー!!」


都会の喧騒にも負けないかしましい声が、朝まだきの冷たい空を破る。中庭の見事な庭園では、春の息吹によって顔を出した緑色の若芽が、玉のような露をいただいて静かに頭をたれていた。


奥州の武家屋敷風の造りになっているこの家は、広さ約300坪の荘厳な大豪邸である。広長の母屋は廊下の奥で左へ折れ曲がっており、その先の石畳をわたると簡素な離れ屋に通じている。庭には桜と梅の木が塀に沿って等間隔で植わっており、梅の白い花弁と芳醇な香りが、春の真っ盛りを知らせていた。色鮮やかな春の乙女は、庭のソメイヨシノの花ひとつひとつにもみなぎる生命を与えてくれている。これらがあれば、もはや上野公園や不忍池近くの弁天堂で花見をせずとも十分楽しめるだろう。枯山水の池に泳ぐ錦鯉や、素朴にかぽんと音を立てる獅子おどしがなんとも風雅である。


爽やかな柚子色の前掛けを下げた少女が、よくみがかれた樫の木造りのろうかを足早に過ぎながら、途中途中部屋の障子を勢い良く開けて叫んだ。



「朝よ!ごはんよ!起きなさい!」



それまでぬくい布団で心地よく安穏と眠りについていた者たちは、朝の一番鶏をうるさそうに煙たがる牛舎の牛のように、やっと片目をあけてひとつ大きな欠伸をする。軍の宿舎でたたき起こされた一等兵のごとく、起こされた者たちはぞろぞろと列をなしながら居間へ向かった。


今まで荒々しくふすまを開け閉めしていた少女は、廊下の奥の座敷まで来ると、ふすまの目の前で居住まいをただした。爽やかな高い声で一声かけるには、



「若、おきてくださいませ!朝ですよ!」



すると、ふすまの向こうからいかにもな寝ぼけ声。



「うーん・・・あと5分・・・」



少女は大きな目を吊り上げると、厳しくたしなめるように言った。



「ダメです!日曜といえども惰眠をむさぼるのは、このつららが許しませんよ!」



しかし、待てども暮らせどもふすまの向こうでは起きる気配はおろか、布団の中で動く気配すら感じられない。彼女は大きく息を吸い込むと、障子を勢い良く開け放って中へとずかずか踏み込んだ。



「ダメです、若!おみおつけが冷めないうちにいらっしゃい!」


そう言うなり柔らかな羽根布団をばさりとめくり、その下一枚ひいてある朱色の鶴を織った毛布もひったくる。布団の下から覗くのは、まだ年若き少年の体躯。



「うう・・・つららは強引だなあ」



母親にたたき起こされた幼児のごとく、少年は眠そうな、そしてやや悲しそうでもあるような声を出すと、枕わきのめがねをとってかけた。


外はすっかり日が昇って、海のような青空の中にまだらなうろこ雲が泳いでいる。そよぐ風が心地よく、むしろ眠るのがもったいないくらいの駆け出したくなるような天気である。春晴れの空は、こうも気持ちいいものなのか。



少女は何も言わず、慣れた手つきでとび色の羽織を彼に差し出した。現代では少々滑稽な姿ではあるが、この家ではいたって普通の習慣らしい。少年はまだ眠気覚めやらぬ顔つきでしぶしぶ羽織に袖を通すと、うららかな天気とは対照的な重たい足取りで居間へと向かった。



居間ではすでに朝げの用意が整っており、一番に鼻腔をつく温かな味噌汁の香りが目を覚まさせてくれる。いつもながらの変わらぬ朝の光景だが、しかしこの朝げの光景や外の新鮮な空気と交じり合った部屋の匂いは、日常的といえどもなぜかそのたびに新しいものに接しているような新鮮さがある。居間ではすでに十数人の者たちが、膳に手をつけているところだった。



「やあ、若。おはようございます。」



厳格な顔つきをした、年は30代から40代ころの男が少年を見るなりにこやかに挨拶した。左目は長髪で覆われておりすっかり隠れているが、しかしよく梳いてあって清潔感を感じさせる。着物の前も乱れてはおらず、きちんと着こなしている。茶碗を持つ手つきや姿勢の正しさに、本人の人格が表れているといっても良いだろう。



「やあ、おはよう牛鬼」



「申し訳ない。先にいただいておりました」



「いいよいいよ、大丈夫。僕は朝寝坊だから」



少年は牛鬼に向かって恥ずかしそうに笑うと、上座の奥から2番目の席に着いた。そこが彼の定位置なのである。木目正しい味噌汁椀を持ち、箸おきに置かれた漆塗りの箸を取ると、先ほどのつららが遅れて入ってきて、いそいそと少年の給仕をし始めた。



あたりを何気なく見渡したとき、少年はふと一座の中に二つほど空席があるのを認めた。ひとつは膳も用意されておらず、座布団は空席のまま放置されている。もうひとつは、先ほどの牛鬼の膳とは打って変わって実に荒々しい。茶碗には米粒がひっついており、箸は無造作に片隅に投げ出されるようにおかれている。鰆の骨は身が所々くっついたまま、甘い赤酢のはじかみと一緒に皿のあちこちに放置されており、味噌汁椀にいたっては立ち上がったときに膳を勢い良く揺らしてしまったのか、ひっくり返ってしまっていた。席に着くなり凄まじい速さで食べ終え、めちゃくちゃになった膳など振り返らずに居間をそのまま出て行ったのだろうということが、ここから一見してとることができるだろう。しかし、その中でもちゃっかり茄子漬けを綺麗に皿の脇に押しやっているあたりが、やや滑稽さをかもし出してもいるが。



「黒田坊は?」


温かい味噌汁を一口すすると、少年はそばのつららに訊ねた。吸い口の柚子の香りが、なんとも爽やかである。



「ああ、黒なら朝方帰ってきて、今は蝉(←感じが変換できなかったので、以降“ゼン”はこの漢字)の手当てを受けていますよ。」


陶器の茶碗に白いご飯をよそうと、つららは少年の左手前に置いた。



「手当てって、どうして?」炊き上がりの白く湯気立つ米には目もくれず、少年は不安そうな表情を見せた。



「さあ、よくわからないのですが、手ひどい傷を受けて帰ってきたみたいですよ」


つららは袂を口元にあてると、困ったように肩をすくめた。


「蝉は黒を見るなり大慌てで自分の組の者たちに言いつけて、やれ薬湯を持って来いだとか、包帯を持ってこいだとか叫んでいましたから。」



「腹にたいそうな傷をくらったみたいですな。本人も息絶え絶えでしたから。」


牛鬼は口に運ぼうとしたお新香を小皿の上に戻すと、箸を持つ手を止めて横から口をはさんだ。



「起こしてくれればよかったのに」


少年は不服そうにつぶやく。



「申し訳ない。リクオ様に余計なご心労をおかけするのもなんだと思いまして。」


牛鬼はやや申し訳なさそうに微笑する。つららは少年の、リクオの表情にややうろたえた様子だった。



「とにかく、僕は黒田坊の様子を見てくるよ。心配だから。」


「あら、それでしたら大丈夫ですよ。蝉がそばにおりますもの。先ほど朝食を終えて、黒の手当てに急ぎましたから。」



あの風塵吹きすさぶがごときのお膳は、どうやらその蝉のものだったらしい。


「いいや、僕ちょっと行ってくるよ。黒の部屋だよね?」



リクオは立ち上がると、止めるつららの声も後ろにすぐ黒田坊の部屋へと急いだ。

序:桜の下の一騎打ち

疾駆するその体の横を、白銀の刃がしゅっという風切り音を伴いながら宵闇をかすめる。駿足のその足元では土煙がもうもうと舞い、10尺ほど後ろからは、わが身を取り込むかと思わんばかりの凄まじい殺気が迫っていた。左手の堀は穏やかながらも暗い水面をたたえ、満開の枝垂桜がふくいくとした春の香りを漂わせながら、たわわに花を実らせている。暁の女神がまだ床に添い臥しているこの時分では、あまねく照らす日輪の代わりを、煌々たる月が気品を漂わせながら努めていた。時は、まだ丑の刻もまわっていない。


常人ならば、すでに乱れる息に口元がだらしなく開くものだが、彼の流麗なそれは、わずかに開きながらもなお威厳を携えてきりりとしまっていた。肩にまでかかる黒髪は、燦々と輝く月のもとで鴉の濡れ羽のごとく艶やかに光り、理知的な涼しい目元から玉のような首筋にかけては、傷による一筋の鮮血が滴り落ちていた。



走るほうにばかり力を取られてはならぬと、彼は堀を取り囲む木の中でも、ひときわ巨木なものに目をつけ、立ち止まることなく跳躍すると、その枝へと乗って身を潜めた。とはいっても、ここに隠れてやりすごするつもりは毛頭ない。残りわずかな体力を振り絞って、上から彼奴を攻撃する作戦に切り替えたのである。



先ほどまでわが身をくらわんばかりに迫っていたその気配も、その木のそばまで来ると幾分かゆるやかになった。しかし、相変わらず隙のない殺気は満々足るものではあったが。



「黒田坊、いつまでそうやって惨めな敗走を続けるつもり?」



闇夜の中からくくく、と搾り出すような笑い声がした。喉の奥から引き絞るかのような、ぞっと身震いのする笑い声だ。


黒田坊、と名指された彼はそれには応えず、なおも木の上から相手の気配をとらえようと、息を殺して神経を集中させていた。



「肩口から背にかけて三箇所、顔に一箇所、下腹部に2箇所、足首に一箇所というところか。急所は外したものの、あんたにはもはや走る体力もないはずだよ。」



事実、その通りであった。追われている最中に足首を鋭利な刃でもって貫かれてしまった彼は、もはや全速力で疾走することは困難になっていた。くわえて、先刻の戦闘でわき腹をえぐるように刺されたため、呼吸も常のようにはいかない。臓物が飛び出んようにと、着ている袈裟を引きちぎって傷口にあてがったものの、火のように疼く痛みはどうにも消しようがない。



(鴆に傷に効く薬草をもらっておけばよかったな・・・)



熱く疼く傷口を抱えながら、黒田坊は今更ながら己の不手際を悔いたが、手元にもどこにも応急処置となりうべくものはない。



(今度は、袈裟の内側にでも薬草をたんまり詰め込んでおくか)



秀麗な口の端をゆがめて、自嘲したようにふん、と笑う。


もともと闇夜に目が慣れている彼にとっては、敵の姿をとらえることなどは造作もないことであったが、姿かたちを捕らえられたからといって、微細な呼吸、妖気の流動、心拍のリズム、それらを捉えることができねば、ただの人間同然である。戦闘には、視覚プラスアルファのものが常に備わっていなければならない。




「なんだ、だらしもなく呆けているのか。じゃあこちらから仕掛けさせてもらうよ!」




相手はそう言うが早いが、眉の下の眼球をきっと鋭くして、黒田坊いる枝へと槍を携えて踊りかかった。とねりこの刃がまたも過たず彼の右すねを正しくとらえ、刃は突き抜けて向こうの桜の枝へと突き刺さる。たわわに咲いた枝垂桜の花は、はかなくもその衝撃ではらはらと崩れ落ちた。



「うっ・・・!!」 涼しげな目元を苦痛に歪ませ、黒田坊は顔をわずかに後ろへとのけぞらせた。美々しきすねからは赤黒い血が溢れんばかりに流れ落ちる。鮮血によって赤く染まった枝垂れの花は、月明かりに照らされて怪しく濡れて輝いている。




「なに、遊ぶのももう少しだ。あとで一気に楽にしてやる」



相手は黒田坊の脛から槍をわざとゆっくり引き抜くと、また木の下へと舞い降りた。月の明かりではじめてくっきりと照らされた彼の体は、小柄ながらもまるで巨神のごとき威風を漂わせている。牛のように丸い目には純粋なる争い(エリニュス)の炎が燃え、纏うビロードの神父服には、胸にゼウスの錫丈をかたどったペンダントが下げられている。


暁の女神から賜ったと思わんばかりの豊かな金髪を春風になびかせながら、彼は青い瞳を楽しそうに細めた。



「西洋の僧と日本の僧か。実にすばらしい一騎打ちだと思わないかい?」



「“一騎打ち”というのは日本の僧である拙僧にとっては、あまり好かない概念だがな」




「ふん、それは違うね」




黒田坊の返答に、彼は不愉快そうに眉の下からぐっと木の上の男を睨みつけた。



「平家の熊谷直実だって、一騎打ちで仕留めているじゃないか。あんな冗長な自己紹介までしちゃってさ。笛まで吹いちゃって。日本人ほど一騎打ちが好きな民族もいないよ。他の戦記ものにも、」




「なんだ、戯言はさっさと終わらせて討ちにかかるんじゃなかったのか」



黒田坊はぺらぺらとしゃべる男-見かけ上はまだ青年ともいえぬ年齢であったが-を挑発するように見下げた。


話を中断された少年は少しばかり不愉快そうに黒田坊を見やったが、またもとの不適な笑みをたたえながら、血に濡れて怪しく光る槍を右手に携えた。


「すぐに話が逸れてしまうのが僕の悪い癖だね。まあ、いいや。そんなに殺してほしいならさっさと殺してあげるよ。」



少年は槍を樹上にいる彼の胸めがけて投げはなった。妖気をまとったそれは常人の放つ槍と違い、まるで飛鳥のごとく軽やかに、しかし隼のごとき重みを携えて鋭く飛んだ。まるで生き物のようにしなやかに動くその槍は、当たれば確実に彼を暗い死の帳へと誘い込むであろう。



しかし、黒田坊はこの機を窺っていたといわんばかりにきっとそれを睨みつけると、懐から懐剣を取り出してさっと鞘から抜き放ち、もの打ちで槍の切っ先をなぎ払った。ギンッという凄まじい金属音とともに火花が散る。穂先は果たして黒田坊の胸を難なく逸れたが、しかしそこは神の息吹が吹き込まれた聖なる槍。まるで蝶のごとく舞い戻り、今度は黒田坊の脳天めがけて襲い掛かる。しかし、鬼神宿る懐剣を操る使い手も、それに不意を突かれるなどという愚は犯さない。隙をつかれぬように体をなるべく相手に向けながら、目を槍の迫り来る後方へやると、すかさず左手で黒衣をかざした。すると、深い霧によって突如目標を見失って戸惑う獣のごとく、槍は黒田坊を逸れて少年の右ももを貫いた。



「ぐわっ・・・!!」



少年は虚をつかれて、足に食い込む刃先を両手で押さえた。槍は腿に突き刺さりながらもなお振動をたもってその身をぶるぶると震わせており、それがいっそう傷口の拡大を助長させる。少年は苦痛に口元を思いっきりゆがめた。白い輝く歯並が覗く。



「そなたに対しては距離を保って攻撃する必要があるのでな。その槍は使い手の元を離れると、自動的に目標に目指して突き進むように妖気が吹き込まれているらしい。それならばまた妖気をまとう盾のような物をかざしてしまえば、その便利な武器の盲点もつけるというもの。」



「なるほどね、だから安定してかわすことのできる大木の上を足場に選んだ、てわけか」



少年はやや息を乱れさせながら微笑した。茶色い牛皮のブーツに緋色の鮮血が流れ落ちる。白い滑らかな額には、うっすらと真珠のような汗が浮かんだ。



畳み掛けるなら、今しかないと黒田坊は密かに腹の中で案じた。今ならば、体力のすべてを振り絞って必殺の暗器黒演舞を繰り出せば目の前の敵を造作もなく倒すことができる。彼は全妖気を集中させて、この場でいざ止めを刺さんと、獲物をとらえる直前の獅子のごとく全エネルギーを集中させ、飛ぶ直前のばねさながらに身を構えた。



ところが、袈裟の下の暗器が今妖気を纏って飛び放たれんとしたまさにその瞬間、ほんのコンマゼロ秒の中でふっと黒田坊の目の前を白い靄がおおった。



(な、なんだこれは・・・!!)



すると、目の前に凛々しき彫刻のような美男があらわれ、黒田坊をちらりと一瞥すると、ものも言わずに苦しみに喘ぐ少年を自身の黒衣の中へと隠すように抱きかかえた。



「おのれ、何者だ!」



黒田坊が憎々しげに言い放ったが、すでに白靄は露のように消え、あとにはかすかに芳しき香の香りがたちこめるだけだった。


たびたび疼くわき腹を抱えながら彼があたりを見回すと、そこには人どころか動物一匹すらおらず、あるのはただ春風に散る枝垂桜の花びらのみ。まるで一睡の夢か、あるいはいままで幻覚でも見せられたかのようにあたりは静まり返っているが、しかしこの疼く四肢の痛みは確かにそれまでのことが幻覚ではなかったことを証明している。



「妖気は一体分しかなかったはず・・・」



まさか伏兵がいたとは、と悔しさに眉をひそめると、耳元でどこからかこだまする声。



「気を静めよ、あまねく日輪の国を渡り歩く百鬼夜行の重臣よ。今ばかりはこの男、このパラスを死なせるわけにはいかないのだ。この男はまだ死ぬ運命には定まっていない。悪いが機をみて、また再び一戦を交えてくれ。」



「おぬしは、おぬしはいったい何者だ!」



消え行きつつある夢の中の人物を懸命に引き止める人のように、黒田坊が目で追いすがって声を張り上げると、相手は霞みつつある声で一言だけ語った。




「わたしは遠き地中海のアポロン神の庇護受けるイデ派の者だ。いずれ、またお前と見えることがあるかもしれん。」



「な、なに・・・!」 



しかし、今度こそついにあたりにはただ静寂が残るのみとなった。先ほどまでいた大木の下には、あの少年、パラスの流した真紅の血の跡が点々と鮮やかに残っていた。



「神だと・・・、そんなのが本当にいるというのか?それとも、新手の西洋妖怪の一派か・・・?」




空では暁の女神がようやく起きだしたらしい。統べる大気を朱け色の光明が、白んだ空のキャンパスに美しいグラデーションを描いていた。