1999年~2002年
破壊、そして結婚
漁船に扮した、LTTEのボートに乗り込み、
政府地域から来た別のボートに乗り換え、
そして1999年、私はここにいた。
太陽がふりそそぐ海の上。
遠浅で波が穏やかな、マナーの海。
向こうに陸地が見えてきた。
私が抗うべき運命が、あの陸の上にあるはず・・・
無事に政府地域に入った私は、
マナーからワウニアへ行き、
ワウニアのキリスト教系の寄宿舎に身を寄せ、そこからコンピューターの学校に通った。
通い始めて何ヶ月か経った頃、今度は寄宿舎の近くで戦闘が激しくなっていった。
女性だけのこの寄宿舎に何人もの政府軍が家宅捜索に来た。
幸い、何も起こらなかったけど、もし何かが起こったとしても誰にもわからない。
そして、寄宿舎のシスター、他の学生達、
みんなでマナーのマドゥという地域に避難した。
マドゥ。
ここはスリランカのキリスト教徒にとって大切な場所。
大きな教会があり、年に一回のお祭りにはスリランカ各地から大勢の人が集まる。
お祭りの期間は政府軍もLTTEも休戦状態になる。
そして、この場所は私にとって重要な場所となった。
マドゥは当時、政府地域だった。
マドゥへワウニアから避難してきて2日後、LTTEの攻撃を受け、LTTE地域になった。
そして今度は政府軍の猛反撃がはじまった。
ある朝、銃声が聞こえた。
遠くに住む人々がマドゥ教会へ逃げるのを見て、私達も教会へ向かった。
朝、10時、銃声が教会のそばまで近づいてきた。
何人かは叫び、何人かは祈り始めた。
私達は泣き出した。
そして夜9時頃、砲撃の1つが教会の敷地内に着弾した。
皆、凍りついた・・・
少し砲撃が落ち着いた後、男性の何人かが着弾した場所に行き、大声で私達を呼んだ。
その場に向かった私達が見たものは言葉に出来ない。
50人くらいの人が倒れていた。
子供も、女性も関係なく。
「痛い・・・」と聞こえる。
「助けて・・・」と聞こえる。
誰かがすぐに介抱し始めたのを見て、私達も倒れている人の手当てを始めた。
でも、包帯も薬もないところで、どうやって助ければ良かったの?
結局、35人が死んだ・・・
この事件があって、私はある援助機関で国内避難民へ援助物資を配るボランティアを始めた。
時々、政府の行政官と一緒に配る事もあった。
その行政官の1人が今の私の夫。
彼はよく私に手紙をくれた。
そして話をするようになった。
私達2人はだんだん近づいていった。
その後、私はワウニアに戻り寄宿舎を手伝い、2000年の1月に英語を学びに1年ほど東側のトリンコマリーに行った。
携帯電話が今ほど普及していなかった当時、彼とは手紙で連絡をとっていた。
一般的にスリランカ、特にタミル社会では恋愛結婚を良しとしない風潮がある。
私達の結婚にもお互いの両親、親戚から反対を受けた。
誰も私達の愛情には理解を示さなかったけれど、私達は強い気持ちを持ち続け、
周囲の反対を押し切り、2001年に結婚をした。
夫がマナーの地方行政官なので、結婚後は、夫と一緒にマナーで暮らすようになった。
しばらくは近くの小学校で英語の教師の仕事をしたりして過ごした。
そして2002年、政府とLTTEがついに停戦合意を結んだ。
それまでの偽りの停戦ではなく、今回は本物だと思った。
もう、逃げなくて良い。
故郷の村に帰れる。
コロンボのような大きな街にも遊びに行ける。
パスポート取ることや外国に行く事もできるかもしれない。
そういう思いが私を嬉しい気持ちにさせた。
私だけでなく、この内戦に巻き込まれた人達全員がそういう気持ちになった。