BAJでは2007年2月より現地女性からの手紙をもとに

ブログ 「Vdivelly ~スリランカ北部紛争地帯からの便り」を開始しました。
その手紙はBAJの受益者でもある一人の女性からのもので、
紛争に怯えながら暮らす日常の絶望感と、平和への願いを綴ったものでした。


BAJはブログを通して彼女のメッセージを発信することで、
より多くの人にこの紛争について考える機会を提供していきたいと考えています。

その手紙をくれるJunoさんへインタビューを実施し、彼女の半生を語ってもらいました。
今回、そのインタビューをライフ・ストーリーとしてまとめ、
スリランカ北部内戦地帯で彼女がどのように生きてきたか、
紛争が人々へどのような影響を与えるのかなどをお伝えしたいと思います。

1999年9月
マナー沖


ユラユラと揺れる水面。
その上を小さなボートが走る。
水面を切るように走る。
白い泡がボートの通り道を示し、そして、消える。
子供の泣き叫ぶ声、それを叱るお母さん。
すべてを悟ったような顔つきの老夫婦。
お婆さんはうつむき、おじいさんは遠くの水面を見る。
でもその目に映るのは絶望かもしれない。
私達をただ照りつける太陽。
私は布で顔を覆う。
暑さから身を守るためではない。
一緒にボートに乗っているみんなに顔を見られたくないだけ。


私の名前はJuno。本名は別にあるけど、ここではこの名前を使いたい。
1999年 9月私は海の上に居た。スリランカの北西部。
その日、朝LTTE地域のキリノッチを出て、政府地域のマナーに向かっていた。
ボートはただの漁船に15馬力の船外機がついている。
ワウニアに行く予定だけど、戦闘が激しく陸路は使えない。
お父さんが苦労してLTTEから手に入れた通行許可証。
LTTEにいくらか払って、やっと乗れたボートは沖合いでマナー側から来たボートに乗り換えた。
政府海軍につかまる可能性はある。
捕まったらどうなるんだろう?
LTTEの戦闘員として報道され裁判にかけられる?


ユラユラ揺れる水面。
遠くに見える流木。
ただ流されているだけ。
私は流されたくない。
抗いたい・・・。
でも、どうやって?

1978年~1995年
幼少の頃


私は1978年、北部ジャフナのシラライという村で生まれた。
シラライという村はジャフナの中心地から17km離れている。
私はここで14年近く暮らしていた。両親と兄に守られながら。


子供の時は兄や親戚、近所の子がみんな男の子だったので、
男の子の遊びをしたり、家畜のやぎの世話をして過ごした。
小学校に入ってしばらくして、お父さんがサウジアラビアに出稼ぎに行った。
お父さんが出て行ってすぐに政府軍がはじめて家に来た。
サーチ・オペレーションといって一軒、一軒、各家庭を家宅捜索していく。
それまで政府軍は見たことはなかった。
彼らはタミル人を殺す人達と信じていた。
恐怖を感じた。


シラライ。
自分が生まれ育った故郷。
政府軍やインド軍、LTTEと
色々な人たちが時々、村に来たけれど、
その先の人生を考えれば
そこには普通の生活、平穏、家族、
そういう当たり前のものがあった。
90年に入って、政府軍とLTTEの戦闘が激しくなるまでは・・・


90年を過ぎた頃から政府軍とLTTEの戦闘が身近に感じられるようになった。
戦闘に巻き込まれた何家族かがシラライに避難をしてきた。
その時私は12歳。
その数年後、まさか自分も同じ様に難民になるとは思わなかった。


1992年8月21日。
その日はお父さんの誕生日。
遠く離れたサウジアラビアでどういう誕生日を過ごしているのかお母さんや兄と冗談交じりに話しをしていた。
その時、カタカタと簡素な家が揺れ始めたかと思うとすぐに、激しい砲撃音が聞こえた。
何発も、何発も。
その時の恐怖は言葉にならない。
私はパニックになっていた。


村の近くに着弾したのか、凄まじい振動と爆発音。
私は何も考えられなかった。
どこをどう逃げれば良いのか。
他の村人は村の教会に逃げ始めていた。
兄が私の手をとり、母が少しの荷物を抱え、教会まで逃げた。


次の日も砲撃は続いていた。
村人の避難所になっている教会も、いつどうなるかわからない。
「逃げよう、ジャフナの町まで・・・」と誰かが言った。
それから私達はジャフナの町まで歩いた。
砲撃の中、「早く帰れますように・・・」と神に祈りながら歩いた。


明日には・・・。
来週には・・・。
来月には・・・。
村に帰れる日を期待しながら、
ジャフナの町で家を借りて、母と兄と3人で暮らした。
でも、そんな泡のような期待は虚しく消える。
そればかりか、さらに村から遠い所に行かされるようになる。

1995年~1999年
国内避難民として


95年、LTTEがジャフナの住民に避難するよう呼びかけた。
それを受け、50万人の人が一斉に避難を開始した。
私達はジャフナから12km離れた田舎町に逃げた。
そこまでの道は一本しかなく、皆が移動するには狭すぎた。
移動中、雨が降りはじめた。
何人か傘に雨水をため、それを飲んでいた。


逃げた町の避難所で何泊かし、
その後すぐにキリノッチに住む叔父の元へ向かった。
キリノッチはLTTE地域なので、陸路で入るのは厳しい。
夜中、たくさんの人達といっしょにボートに乗り、ラグーンを渡って、キリノッチに入った。


寝室が2つしかない、小さな家。そこに叔父夫婦、親戚、そして私たちの12人が住むようになった。
そこでは、銃声も砲撃音も聞こえず、
サーチオペレーションもなく、
たった10ヶ月だったけれど、落ち着いて暮らせた。


96年、エレファント・パスで戦闘が激化。
砲弾がキリノッチの叔父の家の近くにも着弾するようになった。
私達家族と叔父夫婦は、さらに田舎、キリノッチの南部に避難した。


逃げた先は何も無いジャングルだった。
そこで適当に空き地を見つけ、木と葉で出来たカジャンと呼ばれる小屋を皆で建てた。
蛇や蚊が多く、私はここで5回もマラリアにかかった。
水を汲みに2kmほど歩かなくてはいけないこのジャングルでの生活は身の危険を感じる事はなかったけれど、幸福感を感じる事もなかった。


カレッジを終了し、母と兄の待つジャングルへ戻った。
それから一年ほど、特に何をするわけでもなく過ごした。
99年8月、15年ぶりに父親がサウジアラビアから戻ってきた。
私達が避難を繰り返しながらも、何とか生活が出来たのは父が送ってくる仕送りのおかげだった。
勉強が続けられたのも父のおかげ。
でも、そうできなかった人達がたくさんいる。
それを忘れてはいけない。


政府軍とLTTEの戦闘は激しくなるばかり。
バタバタと人が死んでいく。
何人もの人が家を失う。
多くの人が自分の運命を呪ったはず。
それぞれの神様に祈り、そして絶望したはず。


そんな状況だったけれど、
私は勉強が続けたかった。
家族もそれを望んだ。
父がLTTEにお金を払い、
LTTE地域から出るための許可証を手に入れた。
その許可証はLTTE地域から出るためだけではなく、
希望を示す許可証だった。

1999年~2002年
破壊、そして結婚


漁船に扮した、LTTEのボートに乗り込み、
政府地域から来た別のボートに乗り換え、
そして1999年、私はここにいた。
太陽がふりそそぐ海の上。
遠浅で波が穏やかな、マナーの海。
向こうに陸地が見えてきた。
私が抗うべき運命が、あの陸の上にあるはず・・・


無事に政府地域に入った私は、
マナーからワウニアへ行き、
ワウニアのキリスト教系の寄宿舎に身を寄せ、そこからコンピューターの学校に通った。
通い始めて何ヶ月か経った頃、今度は寄宿舎の近くで戦闘が激しくなっていった。
女性だけのこの寄宿舎に何人もの政府軍が家宅捜索に来た。
幸い、何も起こらなかったけど、もし何かが起こったとしても誰にもわからない。
そして、寄宿舎のシスター、他の学生達、
みんなでマナーのマドゥという地域に避難した。


マドゥ。
ここはスリランカのキリスト教徒にとって大切な場所。
大きな教会があり、年に一回のお祭りにはスリランカ各地から大勢の人が集まる。
お祭りの期間は政府軍もLTTEも休戦状態になる。
そして、この場所は私にとって重要な場所となった。


マドゥは当時、政府地域だった。

マドゥへワウニアから避難してきて2日後、LTTEの攻撃を受け、LTTE地域になった。
そして今度は政府軍の猛反撃がはじまった。
ある朝、銃声が聞こえた。
遠くに住む人々がマドゥ教会へ逃げるのを見て、私達も教会へ向かった。
朝、10時、銃声が教会のそばまで近づいてきた。
何人かは叫び、何人かは祈り始めた。
私達は泣き出した。
そして夜9時頃、砲撃の1つが教会の敷地内に着弾した。
皆、凍りついた・・・


少し砲撃が落ち着いた後、男性の何人かが着弾した場所に行き、大声で私達を呼んだ。
その場に向かった私達が見たものは言葉に出来ない。
50人くらいの人が倒れていた。
子供も、女性も関係なく。
「痛い・・・」と聞こえる。
「助けて・・・」と聞こえる。
誰かがすぐに介抱し始めたのを見て、私達も倒れている人の手当てを始めた。
でも、包帯も薬もないところで、どうやって助ければ良かったの?
結局、35人が死んだ・・・


この事件があって、私はある援助機関で国内避難民へ援助物資を配るボランティアを始めた。
時々、政府の行政官と一緒に配る事もあった。
その行政官の1人が今の私の夫。


彼はよく私に手紙をくれた。
そして話をするようになった。
私達2人はだんだん近づいていった。
その後、私はワウニアに戻り寄宿舎を手伝い、2000年の1月に英語を学びに1年ほど東側のトリンコマリーに行った。
携帯電話が今ほど普及していなかった当時、彼とは手紙で連絡をとっていた。


一般的にスリランカ、特にタミル社会では恋愛結婚を良しとしない風潮がある。
私達の結婚にもお互いの両親、親戚から反対を受けた。
誰も私達の愛情には理解を示さなかったけれど、私達は強い気持ちを持ち続け、
周囲の反対を押し切り、2001年に結婚をした。


夫がマナーの地方行政官なので、結婚後は、夫と一緒にマナーで暮らすようになった。
しばらくは近くの小学校で英語の教師の仕事をしたりして過ごした。
そして2002年、政府とLTTEがついに停戦合意を結んだ。


それまでの偽りの停戦ではなく、今回は本物だと思った。
もう、逃げなくて良い。
故郷の村に帰れる。
コロンボのような大きな街にも遊びに行ける。
パスポート取ることや外国に行く事もできるかもしれない。
そういう思いが私を嬉しい気持ちにさせた。
私だけでなく、この内戦に巻き込まれた人達全員がそういう気持ちになった。

2002年~2007年
BAJに託した手紙


停戦合意の後、たくさんの援助機関が入ってきた。
BAJもその中の1つ。
私たちの村の近くで、BAJが建設などのトレーニングを始めた。
夫は近所の若者がBAJのトレーニングに参加できるよう推薦状を何枚か書いた。
そしてBAJはトラクターなどの機械のレンタルを始めた。
停戦後、帰って間もない機械を買えない人達にとってどれだけ役に立ったか。
私の夫も行政官の1人として、貧困層の人達にレンタルショップの事を宣伝して回った。


本物と思っていた停戦合意はやっぱりただの紙きれだった。
2006年にはいり、北東部で政府軍とLTTEの戦闘が目立ち始めた。
政府軍の軍備が目に見えて増強しはじめ、
私達の生活に様々な制約を課してくるようになった。
マナーでは2006年4月頃からおかしな事件が増え始めた。
一家が惨殺されたあの事件のような。
そして2006年8月、それまで行き来できていた政府地域とLTTE地域の間に設けられた検問所が閉鎖。
多くの人がLTTE地域に閉じ込められた。


砲撃、空爆、地雷、自爆テロ、暗殺。
2007年に入り、こういったものに巻き込まれ、すでに3000人以上の人が死んだ。
その他、誘拐や強制徴兵も頻発している。
こういった現状のどこまでを世界の人達は知っているの?
それとも興味はない?
私は少しでも多くの人に知ってもらいたくて、BAJに手紙を書いた。
そして、その手紙が今はブログとして日本の人達に見てもらえる。


自分の命や夫、家族の命が大事なので、正直な事全てが書けるわけじゃない。
でも少しでも私達の気持ちが伝わればと思う。
私達はただ平穏を望んでいるだけ、という気持ちが。
BAJがマナーから去って、手紙のやり取りが大変になるけど、なるべく長く続けていきたい。


BAJに感謝しているのは私の手紙をこういう形で紹介してくれる事と、もう1つ。
BAJがやったトレーニングは若者の就職、という事以外にも役に立っている。
今、政府軍も、LTTEもチェックポイントで「仕事は何だ?」とまず聞く。
その時に「していない」と答えると政府軍からはすぐに逮捕され、LTTEからは徴兵される。
BAJはマナーの若者に技術を教え、彼らに就職のチャンスを与えた。
彼らの命を救っている。

2007年
終わりに・・・


私は今、ある援助機関で働いている。
「人権」に関わるきつい仕事。
私は今まで5回避難を余儀なくされた。
今後、何回避難することになるのか分からない。
でも今の子供達にはそういったことはさせたくない。
そうさせないよう、きついけど、私の今出来る事を精一杯やっていきたい。
運命から抗う道を一緒に考えていきたい。

当ブログ内でもご案内しましたが、先日、BAJスリランカ事業の報告会をJICA地球ひろばで開催し、無事に終了しました。今回の報告会は一般の方向けという事で、当ブログ記事を書いていただいているJunoさんの半生を綴ったライフ・ストーリーをご紹介しました。


おかげ様でたくさんの方々にご出席頂き、日本のニュースにはなりにくいスリランカ北部の現状を知っていただけました。この場を借りてお礼申し上げます。


今後とも紛争地帯に住む人々の現状をお伝えしていきますので、応援の程よろしくお願いいたします。


BAJ スリランカ (関)

報告会

先週から教会のフェスティバルが始まった。今年は50周年。

この教会は1957年に外国の司祭が建てた、私達の地域の大きな教会。

でも、悲しい事に私達はそのお祭りに参加できない。

何年か前には家族全員で行ったのに。。。

どうして国道9号線は閉まってるの?

どうして皆沈黙してるの?


私は書く事が好き。

例えば、バスの中で人と話したり、考えたり、祈っている時に

何かを得られれば、その場でノートに書き留める。

書く事はずっと続けているけど、どこかに投稿したりはしない。

以前は、ジャーナリズムが好きだったけれど今は怖い。

今年になってすでに59人のジャーナリストが殺されている。


何かの事件が私の心を捉えたら、その事件についてポエムを書く。

もうたくさんのポエムを書いてきた。

でも誰にも見せれない。


今週、私は職場の研修に参加し、アヌラダプラ[1] に行った。

私にとってはじめての経験。スリランカ各地から色々な人が来ていた。

とても楽しかった。。。 


[1] スリランカ北部中央に位置し、スリランカ最古の古都である。シンハラ仏教王朝の都がポロンナルワに遷都されるまで1000年に渡って栄えてきた。スリランカ世界遺産の1つ。

汽車に乗った。

会議に参加するためにコロンボまで。

汽車は3時間遅れだった。


状況は良くならない。

色んな人が色んな解決策を言うけれど、誰も達成できない。

今月で国道9号線が閉じて、一年が経つ。

「停戦合意」はどこに行ったの?


相変わらず砲撃が夜の静寂を切り裂く。

人々が払った税金は破壊のために使われる。


これが普通と思わないようにするので精一杯。