親鸞聖人は、与えられた新しい場を、前向きに受け止められた。
前向きに受け止める心。
考えてみると、どんなに素晴らしいものがあたわろうとも、これ一つが無ければ人生は無惨なものとなるのではないか。
縁があってこの人たちと一緒になったのなら、この人たちと共に前を向いて生きていかなければ、自分だけでなく相手も駄目にしてしまう。
これ猶師教の恩致なり
と前向きに受け止めていくところに、本当の人生がある。
しかしながら、悲しいことに我々は、過去に執われて人生が前進しなくなってさいまうことがよくあるのだ。
そうかと思えば、未来のことばかり心配して、
「今はこうして何とか元気にやっていられるからいいけれど、これから先、寝込んでしまうようなことになったら、他人様に下の世話までしてもらわないといけないのかと思うとぞっとする。」
「できればそんなことになる前にコロッと死んでいきたい。」
なんてことを言う人もいる。
「すべて私が引き受けるから大丈夫。」
「他人があなたをどんな目で見ようと、どんなことを言おうと、日が良かろうと悪かろうと、過去に何があろうが未来に何が待っていようが、私はあなたを絶対に一人にはしない。」
「いつでもこの弥陀があなたを護る。」
という喚び声が「南無阿弥陀仏」。
もっと言うならば、
「私があなたを護っているのだから、つまらんことに気を取られずに、いただいた人生を少しずつでもいいから、一緒に歩いていこう。」
喚びかけてくださっているのが「南無阿弥陀仏」。
「何でもいいから他の人の上に立ってやろう。」
なんて、さもしい競争にこだわらなくてもいい。
ゆっくりでもいい、こつこつと自分のペースで歩いていけばいい。
他の人と比べるのではなく、自分のいただいた人生を本当に大切に、着実に歩いていけばいい。
速いだけが人生ではない。
「スローライフ」という言葉がある。
いろんなことに気を取られて、右往左往していた私が、「南無阿弥陀仏」とお念仏を申しながら、如来様と共にいただいた命を一歩一歩大切に生きる。
特別に立派なことも、優れたことができなくとも、私は私の人生を念仏申しながら、精一杯生きていこうというのが浄土真宗。
そういう着実な人生を歩んでいる人を、目に見えないものまでが護ってくださる。
それが「冥衆護持」。
『歎異抄』でいえば
念仏者は、無碍の一道なり。
そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。
罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々
ということ。
そういう人生を賜るのが「冥衆護持の益」。
これが仏に成っていく者の「いのち」の歩み。
本当の「いのち」の歩みとは、
「あなたは、あなたのままでいいから、あなたの人生を着実に生きたらいいよ。」
という阿弥陀の声に励まされ、護られて生きること。
しかしながら我々は、何か悪いことがあると、何かのせいにする。
日のせいにしてみたり、4という数字のせいにしてみたり。
そういういろんなことに惑わされずに、いただいた「いのち」を精一杯生きる人生を賜るのが「冥衆護持の益」。
我々が仏に成るということは、迷信や俗信に惑わされない人生を、本当に前を向いて生きていくということ。
人がどうだとか、何がどうだとか、死ぬまで人の顔色を見ながら生きるようでは、あまりに無惨ではなかろうか。
世間的にどうであろうと、本当に私が私の「いのち」を生きるという姿を、周りの人に見てもらいながら、大切な者達に教えながら一生を終わっていきたいものだ。
大体、自分の死に方にまで気を使っていたら、おちおち死ぬこともできないだろう。
いくら「死ぬな」と言われても、「死にたくない」と思っていても、さるべき縁がもよおしてくれば死ぬのだ。
そんな風に、いろんなものに気を取られて生きるのではなしに、私の「いのち」を私が精いっぱい生ききることができる。
そういう人生が実現するということが、「冥衆護持の益」である。
完
前向きに受け止める心。
考えてみると、どんなに素晴らしいものがあたわろうとも、これ一つが無ければ人生は無惨なものとなるのではないか。
縁があってこの人たちと一緒になったのなら、この人たちと共に前を向いて生きていかなければ、自分だけでなく相手も駄目にしてしまう。
これ猶師教の恩致なり
と前向きに受け止めていくところに、本当の人生がある。
しかしながら、悲しいことに我々は、過去に執われて人生が前進しなくなってさいまうことがよくあるのだ。
そうかと思えば、未来のことばかり心配して、
「今はこうして何とか元気にやっていられるからいいけれど、これから先、寝込んでしまうようなことになったら、他人様に下の世話までしてもらわないといけないのかと思うとぞっとする。」
「できればそんなことになる前にコロッと死んでいきたい。」
なんてことを言う人もいる。
「すべて私が引き受けるから大丈夫。」
「他人があなたをどんな目で見ようと、どんなことを言おうと、日が良かろうと悪かろうと、過去に何があろうが未来に何が待っていようが、私はあなたを絶対に一人にはしない。」
「いつでもこの弥陀があなたを護る。」
という喚び声が「南無阿弥陀仏」。
もっと言うならば、
「私があなたを護っているのだから、つまらんことに気を取られずに、いただいた人生を少しずつでもいいから、一緒に歩いていこう。」
喚びかけてくださっているのが「南無阿弥陀仏」。
「何でもいいから他の人の上に立ってやろう。」
なんて、さもしい競争にこだわらなくてもいい。
ゆっくりでもいい、こつこつと自分のペースで歩いていけばいい。
他の人と比べるのではなく、自分のいただいた人生を本当に大切に、着実に歩いていけばいい。
速いだけが人生ではない。
「スローライフ」という言葉がある。
いろんなことに気を取られて、右往左往していた私が、「南無阿弥陀仏」とお念仏を申しながら、如来様と共にいただいた命を一歩一歩大切に生きる。
特別に立派なことも、優れたことができなくとも、私は私の人生を念仏申しながら、精一杯生きていこうというのが浄土真宗。
そういう着実な人生を歩んでいる人を、目に見えないものまでが護ってくださる。
それが「冥衆護持」。
『歎異抄』でいえば
念仏者は、無碍の一道なり。
そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。
罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々
ということ。
そういう人生を賜るのが「冥衆護持の益」。
これが仏に成っていく者の「いのち」の歩み。
本当の「いのち」の歩みとは、
「あなたは、あなたのままでいいから、あなたの人生を着実に生きたらいいよ。」
という阿弥陀の声に励まされ、護られて生きること。
しかしながら我々は、何か悪いことがあると、何かのせいにする。
日のせいにしてみたり、4という数字のせいにしてみたり。
そういういろんなことに惑わされずに、いただいた「いのち」を精一杯生きる人生を賜るのが「冥衆護持の益」。
我々が仏に成るということは、迷信や俗信に惑わされない人生を、本当に前を向いて生きていくということ。
人がどうだとか、何がどうだとか、死ぬまで人の顔色を見ながら生きるようでは、あまりに無惨ではなかろうか。
世間的にどうであろうと、本当に私が私の「いのち」を生きるという姿を、周りの人に見てもらいながら、大切な者達に教えながら一生を終わっていきたいものだ。
大体、自分の死に方にまで気を使っていたら、おちおち死ぬこともできないだろう。
いくら「死ぬな」と言われても、「死にたくない」と思っていても、さるべき縁がもよおしてくれば死ぬのだ。
そんな風に、いろんなものに気を取られて生きるのではなしに、私の「いのち」を私が精いっぱい生ききることができる。
そういう人生が実現するということが、「冥衆護持の益」である。
完