ハツミさんは腕組みをして目をつぶり、
タクシーの座席の隅によりかかっていた。
金の小さなイヤリングが車のゆれにあわせて
ときどききらりと光った。
彼女のミッドナイト・ブルーのワンピースは
まるでタクシーの片隅の闇に合わせてあつらえたように見えた。
淡い色合いで塗られた彼女の形のいい唇が
まるで独り言をいいかけてやめたみたいに時折ぴくりと動いた。
そんな姿を見ていると、
永沢さんがどうして彼女を特別な相手として
選んだのかわかるような気がした。
ハツミさんより美しい女はいくらでもいるだろう、
そして永沢さんならそういう女をいくらでも
手に入れることができただろう。
しかしハツミさんという女性の中には何かしら
人の心を強く揺さぶるものがあった。
そしてそれは、決して彼女が強い力を出して
相手を揺さぶるというのではなかった。
彼女の発する力はささやかなものなのだが、
それが相手の心の共震を呼ぶのだ。
タクシーが渋谷に着くまで僕はずっと彼女を眺め、
彼女が僕の心の中に引きおこすこの感情の震えは
いったい何なんだろうと考え続けていた。
しかしそれが何であるのかはとうとう最後までわからなかった。
僕がそれが何であるかに思いあたったのは
12年か13年あとのことだった。
僕はある画家をインタビューするために
ニュー・メキシコ州サンタ・フェの町に来ていて、
夕方近所のピッツァ・ハウスに入って
ビールを飲みピッツァをかじりながら
奇蹟のように美しい夕陽を眺めていた。
世界中の全てが赤く染まっていた。
僕の手からサラからテーブルから、
目に付くもの何から何までが赤く染まっていた。
まるで特殊な果汁を頭から浴びたような鮮やかな赤だった。
そんな圧倒的な夕暮の中で、
僕は急にハツミさんのことを思いだした。
そしてそのとき彼女がもたらした心の震えが
いったい何であったかを理解した。
それは充たされることのなかった、
そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう
少年期の憧憬のようなものであったのだ。
僕はそのような焼けつかんばかりの
無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れきてしまって、
そんなものがかつて自分の中に存在したことすら
長い間思い出さずにいたのだ。
ハツミさんが揺り動かしたのは
僕の中に長い間眠っていた僕自身の一部であったのだ。
そしてそれに気づいたとき、
僕は殆ど泣き出してしまいそうな哀しみを覚えた。
彼女は本当に本当に特別な女性だったのだ。
誰かがなんとしてでも彼女を救うべきだったのだ。
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ハツミさんのくだりは村上春樹のノルウェーの森の中でも一番好きな部分だ。
暑い夏の夕暮れ時にピッツァをかじりながら、ビールを飲むときは
いつもこの話を思い出さずにはいられない。
少年時代の憧憬。
思い浮かべるといくつもの顔が思い浮かぶ。
今の恋人はとても美しい。
なぜ、手に入れることができたのか、それは私にはわからない。
とても、美しい。
私なんかが手に入れてしまったことがまるで恥ずべきことのようだ。
彼女は称賛され、輝きに満ちている。
私は彼女に見合うだけの成功をこれから得ることができるだろうか?
常に自問にさらされる。
しかし、それでも少年時代の憧憬にかなうことはない。
私はそれを手に入れることはできなかったのだ。
過ぎたものは戻ることはない。
行く川の水はもう戻ることはない。
私にはいくつか失われたものが浮かび、
そしてそれは満たされぬまま消えていく。
美しいものだ、過ぎてしまったものは。
過ぎてしまったものは美しいのだ。
私は永久にそれを手に入れることはできないのだ。
少年時代の憧憬を。
これから先も決して手に入れることはできない。