なんとなくのニュアンスで、ポップな感じに見せかけてる言葉があると思う。

例えば「罰ゲーム」だと思う。

私の個人的な経験から言って、罰ゲームは何かのゲームの敗者に課される罰だ。全然ゲームじゃない。
勝利チームにはご褒美のケーキをそして敗者には苦いお茶をといった具合だ。

繰り返しになるがこれは罰だ、ゲームじゃない。罰ゲームというからにはなんらかのゲーム性があってしかるべきだ。しかし往々にして罰ゲームという言葉におけるゲームの役割は罰のニュアンスをライトにすることだ。

そもそも敗者に罰のあるゲームが罰ゲームではないのか?
だったらゲームをしたあと改めて罰ゲームをするのはなんとなく不合理な気がするのだけれど。もし罰ゲームが本当にゲームだったら最初のゲームの敗者は罰ゲームで負けなければ罰を受けずに済むわけだから罰ゲームがあることに感謝するかもしれないけど。

罰ゲームが罰の程度を決めるゲームだったらと考えることがある。
最初のゲームの敗者は災難だが罰を受けてもらう、でもその程度は罰ゲームで決まりますから最後まで気張って行きましょうと。これだったらちゃんと罰ゲームという言葉の意味もなしているし、すこしでも罰を軽くしようと必死にがんばる参加者たちをお茶の間の私たちは絶対安全圏から見守れるわけで素敵だと思うのですがいかがでしょうか。

でもここで罰の程度を見誤ると参加者たちのやる気を引き出せない。
それから罰の程度が決まるゲームとして何をやるべきかというのも簡単ではない。
どうせならお互いの猜疑心を煽りまくって疑心暗鬼になって親友同士も罰ゲームが終わったあとには親の仇同士と見紛うかのような険悪さを漂わせるそんなゲームにしたい。
個人的には罰ゲームの参加者の人数分だけ
罰の種類がありそれぞれの罰に必ず1人が割り振られそれを受けなければならず、重い罰の程度と軽い罰の程度に大きな差があるようなものがいいと思う。
自分が裏切ることで自分の罰は軽くなるけど裏切られた人たちはかなりきっつい罰を受けることになってしまうような仕掛けも作りたいなぁ。

罰ゲームは奥が深い。
この文章は渋谷の喫茶店で書いているのですが、隣で素人の熱い経営理論みたいな話が始まってしまい、いやでも耳に入ってきます。話を要約すると「挑戦するか死か」。1分に最低一度は「挑戦」もしくは「死ぬ気で挑戦」もしくは「独立」という言葉を使わないと自我が崩壊する病を罹っているらしくとてもかっこよくて、上で考えた罰の程度をめちゃめちゃシビアに心の中で設定していまいます。
こんな些細なことで心がささくれてしまう私こそ参加者一人罰きつめ後遺症ましましな罰ゲームへの招待状が届いてしかるべきですね。
同窓会という名の罰ゲームの招待状は勇んで破り捨てよう。