【NYランデブー:番外編 .杏里と周志の全うな会話】
桜が舞っている。風にそよぐ枝葉は幾度となく頭(かぶり)を振り、美しく可憐な花を惜しげもなく手離すように、遠く近くへと解き放つ。桜吹雪、花吹雪、散り行く儚(はかな)さと潔(いさぎよ)さは終焉の美しさと共に、葉桜の侘(わび)しさを迎えることとなる。
その日 上条周志(ちかし)は、それ以上の光景を目の当たりにした。
桜の花びらが舞い散る中、花束を抱えた15歳の少女が制服のスカートの裾(すそ)をフワリと靡(なび)かせ、足取りも軽やかに歩いてくる。周志はその場から動くことが出来なかった。春の風に肩まで伸びた艶やかな髪が煌(きら)めきながらそよいでいる。伏した目と口元は嬉しさにほころび、傾(かし)げた顔が花束を愛でるようにはにかむ。まるでその姿はピアノコンクールで優勝した上条葉月そのものだった。
『幻(まぼろし)だ。葉月は亡くなったじゃないか』
いつものように笑顔で元気いっぱいコンクールに向かって走り出した少女は、近くの交差点で事故に遭い命を落とした。それで終わりではなかった。ピアニストの夢を抱いていた葉月は白浜杏里への心臓移植提供者となり、彼女の中で生きている。
周志は混乱していた。今までも移植による記憶転移が起こり、杏里は葉月の兆候を見せていた。明らかに上級者のピアノテクニックで奏でるショパンの曲は、慣れ親しんだ周志には葉月そのものだった。多重人格との重なりも見え始め、主治医の天堂浬(かいり)と共にニューヨークのハドソン記念病院へカウンセリングのために渡米した。その手配を速(すみ)やかに行ったのは上条周志 本人である。このままではいけない。強くそう思った。
『葉月、どうしたいんだ』
混乱の中、カウンセリングを受けた杏里は徐々に自分を取り戻し、帰国後は記憶転移も穏やかになったという。
『葉月は目を閉じたのだろうか』
そして数年前、周志の心をざわつかせたのは、白浜杏里が一家で鎌倉へ引っ越したことだった。杏里の父親が生まれ育った家が由比ヶ浜だとは知るよしもない。ましてや周志の祖父母が移り住んだ住まいの近くだったとは、思いもよらなかった。
三年前、今日のような春の日。久しぶりに会った少女は少し背が伸び、真新しい制服に身を包み、周志と祖父母の前に現れた。
「こんにちは、おじいちゃん、おばあちゃん。中学校の制服が出来たので見せに来ました」
「まぁ、杏里ちゃん、とてもよく似合うわ」
「中学入学、おめでとう」
「あなた、入学式はまだ先ですよ」
「いいじゃないか。何度でも言うよ」
「おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとうございます」
その笑顔は生きていた頃の葉月を思い起こさせる。祖父母はただ年頃の杏里を葉月の面影に重ねているだけなのだろう。心臓移植したことを祖父母には知らせないと周志と杏里は固く誓っていた。それでも緊張しているのは周志の方だった。口をつぐんだまま立ち尽くす周志に杏里は会釈をした。
「周志お兄さん、元気だった?」
「あぁ、うん」
「あら、周志さんは杏里ちゃんと会ったことがあったかしら」
「日浦総合病院で同じ頃に手術を受けたんです」
「主治医の先生も同じです。天堂先生」
「そうだったの」
そして祖母は表情を曇らせた。
「あの頃、葉月ちゃんも事故で亡くなって」
「おばあちゃん」
杏里はそっと背中を擦(さす)ると祖母の手を取った。
「ごめんなさい、思い出させてしまって」
「こちらこそ、ごめんなさいね。せっかく制服を見せに来てくれたのに」
「ううん、いいの。今度、綺麗なお花 持ってくるね」
まだ袖が長い制服からは指先しか出ていなかった。周志はその指をぼんやりと眺めていた。
『ピアノを弾く葉月の指じゃない』
彼女はこれから中学生になる。葉月が二度目の13歳を迎えるわけではないのだ。白浜杏里が迎える13歳だ。何度も自分にそう言い聞かせた。
あどけなさを残す少女は周志に言った。
「周志お兄さんって、今 幾つ?」
「27」
「ふぅん」
「ふぅん、ってなんだよ」
「もうすぐ28だと思って」
「杏里ちゃんの方が誕生日、先だろう」
「覚えていたんだ。私の方がちょっとだけ先に大人になる」
「何だ、それ」
「私が13歳になったら周志お兄さんに1歳近づくってこと」
「それが大人か?」
「バスも江ノ電も大人料金になるもの」
「中学生だからな。杏里ちゃんだけじゃなく、中学生は皆、江ノ電の大人料金だろう」
皮肉めいていて、自分でも随分と意地悪だと思った。
『嫌われただろうか』
ところが杏里は唐突に応えた。
「周志お兄さん、28歳になったらもう、おじさんって呼んだ方がいい?」
「はぁ?」
「社長さんだし、私より大人でしょう」
「13だって子供だろう」
「じゃあ30歳からにする?それだと歳の差17歳」
「その計算、変だろう」
ドキリとした。葉月はもう歳を取らない。亡くなった葉月とは、どんどん歳が離れていく。そんなことを考えている周志を思ってか、杏里は言い直した。
「私が子供のうちは今まで通り、周志お兄さんと呼ぶわ」
「子供は気を使うな。好きなように呼べよ」
「じゃあ、私が二十歳になったら周志お兄さんをオジサンと呼ぶかどうか決めようかな」
「勝手にしろ」
「その頃、周志お兄さんはどんな風になっているんだろう」
「杏里ちゃんも二十歳なら、すっかり大人のお嬢さんね」
祖母の言葉にも周志には杏里の二十歳の姿は思い浮かばなかった。
その夜、祖父は懐かしむように周志に語りかけた。
「杏里ちゃんと話していると葉月を失った寂しさが癒されるよ。あの子は賢い。どんな風に成長するか、楽しみだ」
『僕もです』
その言葉を周志は声に出さずに飲み込んだ。
その後も上条コンツェルンの相談役である祖父のご機嫌伺いに出掛けると、時々 杏里の姿を見掛けることがあった。互いの家は目と鼻の先というほど近くではないにせよ、何をするでもなくブラブラと散歩がてらに道の角を曲がると、筋向かいの向こうに白浜杏里の家族が暮らす家がある。タイミングが良ければ杏里が何処かへ出掛ける様子が見えたりする。だからといって、大声で名前を呼んで手を振る年でもない。いつか一度、杏里と同級生の女の子が後ろから名前を呼んだので、手を振る女子中学生の間に挟まれて、成り行き上、手を振り冷や汗が出るほど恥ずかしかった。
『葉月とは、こんなこと何でもなかったのに。どうして中学生相手に緊張しているんだ』
自分でもよく分からない感情に、周志は戸惑ったままだった。
そのうち、それが少しだけ解明出来たのは祖母の言葉だった。
「杏里ちゃんはお年頃なのか、日に日に綺麗になるわね。昨日見た時より、今日はもっと綺麗になってる」
「おばあさま、幾ら何でもそんなに短期間で変化しませんよ」
「変化じゃなくて進化よ。あの年頃の女の子は一晩寝ただけで美しくなっていることだってあるんだから」
「まさか」
「杏里ちゃんは美少女コンテストに出ても良いくらい。スカウトから二度も声が掛かったんですって」
「で、本人はやる気になったんですか」
「いいえ、杏里ちゃんは児童文学の作家さんになりたいからって、断ったらしいわ」
それは杏里の子供の頃からの夢なのは知っていた。変わらず今も思っていることに、周志は自分の事のように嬉しかった。
「上条出版で子供の本を扱っている部門があったでしょう。杏里ちゃんを紹介してみたら」
「まだ、子供ですよ。どちらかというと読者の方かと」
「中学生だって作家になれるじゃない」
「まぁ、新人賞でも取ればの話ですけどね」
二人の会話を聞いていた祖父が相談役としての一言を付け加えた。
「賞など取らなくても良いものなら取り上げるべきだ」
「そうなの。杏里ちゃんは児童クラブの子供たちに絵本の読み聞かせをしているし、自分が書いたお話も紹介しているそうよ」
杏里がまだ入院していた頃、小児科の幼い子供たちに読み聞かせをしていたことは、七瀬が教えてくれた。
「あの子はとても情緒的な言葉を用いる。様々な音や風景が目に浮かぶように美しい」
祖父のその言葉が記憶としてずっと周志の頭の中に残っていた。
そして今、杏里はいつもの制服姿で周志の元に歩み寄った。手にはこぼれ落ちるほどの大きな花束と卒業証書らしき物を持っている。
「中学卒業か、おめでとう」
「違うったら」
杏里は苦笑すると花束を抱えたまま周志の胸を軽く小突いた。
「早く教えたくて着替えないできちゃった。おじいちゃんとおばあちゃんにも、ちゃんと報告したかったし」
「ちゃんと何を報告するんだ」
「本当に分からないの?」
杏里は不満そうに口を尖らせた。
「読んでくれなかったんだ」
「うん?」
杏里は周志の顔に賞状を開いて突きつけた。
「児童文学新人賞、周志お兄さんの名前で賞状書いてある」
「うちの出版社だ。作者、水無月アン『江ノ電 万華鏡』」
周志の表情が輝いていく。
「それ、読んだよ。江ノ電に乗ると小さな女の子がいるんだ。その子が言った駅で降りると、いつもと違う世界に行ける。だけどその世界で女の子は別の姿に変わっている。少年の手にはいつしか万華鏡が握られている」
周志は身を乗り出した。
「詩的で情緒たっぷりで懐かしくて。鎌倉の花や景色の挿し絵も綺麗だ。古風ながら新鮮、文学的でもある。僕のイチオシだ」
「これから世界中の様々な時代にも行ける。未来にも行けるわ」
「売れ行きは徐々に上がってきている。評判も良い。それから…あれ?」
「水無月アンは私、白浜杏里です」
「ええぇ~!」
興奮と驚きのまま周志はまだ杏里が知らないことを口走った。
「どうせなら大人にも読んでもらおう。雑誌に連載しよう。そう提案したら、文句なく本決まりだ」
「ええぇ~!」
「断りは無しだ」
「そうじゃなくて驚いちゃって」
「同じリアクションするなよ」
「変に気が合っちゃった」
「ハハハ~」
二人揃って妙に照れるのは何故だろう。
「ところで、その花束、やけに大きいな。編集部、奮発したか」
「残念でした。これは天堂先生からです」
「先を越されたか。悔しいな」
「ホント?」
「男として…」
「どういう意味?」
しまった、と思った。
『美しい姿に見とれていた。その腕に抱いた花束は僕が贈りたかった』
なんて言えない。
「上条周志として天堂浬より上を行かないと」
「違うから。天堂先生も好きだけど、私が周志お兄さんを好きなのは…」
今度は杏里が言葉を飲み込んだ。
『たぶん、別な好き』
芽生えた感情に戸惑う自分がいた。
「花束、大き過ぎて本当に重いの。周志お兄さんが持って」
そう言って花束を差し出して感情を隠したつもりが、触れた指先がまた心に言葉を告げた。
『私、周志お兄さんが好きなんだ』
ずっとずっと年上、15歳も年上。でも私が高校生になって、江ノ電も大人料金になって、そのうち二十歳になったら同じ大人で、周志お兄さんも年を重ねてオジサンになるだけだ。今は憧れかも知れない。だけど、学校の男子が霞(かす)むほど、周志お兄さんは素敵だ。断然、素敵だ。私は確かにそう思ってる。
「杏里ちゃん、葉月…じゃないよな」
「私は白浜杏里。水無月アン、新人賞の報告に来ました」
「ホント、花束大き過ぎるよな」
たぶん、手を繋がなくていい口実には十分に成り得る。今は祖父母の喜ぶ顔が何より嬉しかった。
鎌倉高校に入学した杏里はコロナウィルスの影響で登校もままならず、リモート授業の日々が続いた。周志は杏里の主治医でもある天堂浬の妻 七瀬がコロナ治療病棟への看護に泊まり込みで従事すると聞くや、迷うことなく愛児 天堂颯(はやて)を預かると自ら申し出た。杏里もそれに同調し、二人は鎌倉の周志の祖父母の家に4歳児を伴い、こまめにサポートした。若さと行動力を存分に発揮したその時間が、二人の絆を今までとはまた違う形で強くしたのは言うまでもない。情熱的な恋もあるだろう。しかし15歳の年の差は、少しずつゆっくりと、その距離を縮めていく。高齢の世代の祖父母、出会った頃は25歳と小学5年生だった二人。そして淡い恋心と憧れを抱いた天堂浬と佐倉七瀬へ向けられていた眼差しは、杏里の成長と共に、互いを特別に意識する存在に変わってきた。葉月を亡くしたことで、彼女に対する曖昧な感情は、恋愛の始まりさえ迎えることなく未完成のまま終わりを告げた。ただ一つ違うのは、葉月の心臓が杏里に移植されたということだった。高校生になった杏里は15歳で亡くなった葉月を超え、16歳になった。杏里自身は夢を叶えるべく、児童文学作家 水無月アンとして『江ノ電 万華鏡』で新人賞に輝いた。それが上条出版であり、自分が気に入った物語だったことが、周志は嬉しかった。
七瀬が二ヶ月に渡るコロナ看護を終え、4歳の颯(はやて)が鎌倉から東京の自宅へ帰宅すると、周志もまた天堂浬と七瀬の二人をサポートするために、幼い颯のベビーシッターを継続した。杏里とは頻繁には会えなくなったが、次回作や雑誌へのエッセイの打ち合わせなど、リモートでよく顔は合わせていた。そのあと二人だけで話すのは、この上なく幸せな時間だった。
6月末、鎌倉の周志の祖父母と天堂浬一家の元へ、京都の和菓子が届いた。それは周志と杏里の二人が手配したものだった。涼しさを呼ぶかような白い外郎(ういろう)は、上に小豆を乗せて、三角に切り分けてある。三角なのは昔の氷の欠片の名残なのだという。
『6月30日、夏の大祓(おおはらえ)の時に召し上がってください』
そんな丁寧な説明と共に、連名で一筆 添えてあった。それは東京に住む周志の両親や、由比ヶ浜の杏里の両親宛にも送られてきた。そこには、じっくりと時間を掛けて静かに愛を育む二人の姿が見えた。
天堂浬は息子の颯に夏の大祓(おおはらえ)を教えながら、小豆が乗った三角の白い外郎(ういろう)を頬ばっていた。
「パパ、美味しいね」
「どんな意味があるか知って食べると、また美味しいだろう」
「ママはさっき、ちょっとだけつまみ食いしてたよ。僕、見ちゃった」
「七瀬~」
浬はソファーから立ち上がるとキッチンで慌てる七瀬を壁に追い詰めた。
「な、何?」
「ここ!」
口元に白い外郎(ういろう)が付いている。
「ちゃんと拭け」
そう言って浬は七瀬の口元をキスで拭(ぬぐ)い取った。
「美味しいでしょ」
「上条さんと杏里ちゃんのセンスは抜群だからな」
駆け寄ってきた颯は両親を見上げた。
「周志おじさんと杏里お姉ちゃんも、パパとママみたいに結婚するのかな」
「えっ、そうなの!?」
「二人は仲良しだよ」
「先日、上条さんに相談された。杏里ちゃんのご両親に真剣に交際する許可を得たいと。挨拶に行きたいけれど、 どうすればいいかって」
「 先生の紹介状が欲しかったのかしら」
「病院ではない。要らないだろう」
「でも、アドバイスするんでしょう」
「必要ないだろう」
「そんなこと言わないで、上条さんも杏里ちゃんも、担当は先生よ」
「永遠の主治医か」
「颯もお世話になったわ。二人が真剣なら後押ししてあげて」
「分かった」
そうして浬が優しく七瀬を抱き寄せると、颯は二人の間に入りたいとせがんだ。
「僕もママを抱っこする」
「焼きもち、入ってるな」
「お餅は食べていないよ」
「颯~可愛い」
「可愛いのはママだよ」
フフンと笑う浬に七瀬は言った。
「二人とも、そっくりよ」
数年後、杏里は中央大学文学部の英文科でアメリカ文学を専攻、児童文学作家とエッセイストとして忙しい日々を送っていた。卒業した杏里は、本格的にマルチな作家として執筆するようになっていた。
かつて上条周志が颯のベビーシッターとリモートを行うべく借りていた、天堂浬と七瀬が住むマンションの向かい側の部屋は、今は水無月アンこと白浜杏里の執筆部屋となっていた。そこへ周志はしょっちゅう顔を出す。杏里は人気作家となり、時間と締め切りに終われる日々だった。その傍(かたわ)らで周志は会社の書類に目を通し、部下に連絡し指示を出す。
「真っ当だろう」
「当て字よ。本来は全う」
周志の電話が鳴った。二人の会話が交互に交差する。
「それなら全うする」
「物事を最後までやり遂げる」
「ビジネスのあるべき姿だ」
「当初の予想通りに行くとは限らないわ」
「それはマイナスだけではない。思いがけない利益を得ることもある」
「どちらにせよ、読みが甘かったってことでしょう」
「取引の前に駆け引きだ」
二人はクスクス笑いだした。
「 自分の書いたセリフ、声に出して読むなよ」
「周志お兄さんの電話の方が後からだったじゃない」
「全く違う会話が妙に繋がっていたな」
そう言うと周志は杏里を優しく抱き寄せた。
「これだけ忙しいのに、脚本まで書くなんて」
「せっかく依頼されたんですもの」
「まだ、時間はある。それよりエッセイの取材旅行へ行こう」
「何処へ?」
「イタリア、フィレンツェへ。スケジュールは押さえてある」
「相変わらず手際がいいわ」
「一息つこう。中学生の頃からずっと書き続けてきたんだ。僕も少し休息したい」
「周志お兄さんと一緒なら休んでもいいかな」
「お父さんにも取材旅行の同行ですと報告して許可をいただいた」
「私はもう大人よ」
「分かっているよ。でも杏里が高校生の頃、お父さんに交際の許可をいただいた。約束は守りたい」
周志は柔らかな笑みを向けた。
「花の都フィレンツェで杏里の誕生日を祝うのもいいだろう」
一週間後、二人はフィレンツェにいた。周志は杏里を伴い、小さな古本屋へ入った。
「ここはかつて、芸術家や文豪が足繁く通っていたカフェでもあったそうだ」
「だからこんなに美しいイタリアやフィレンツェの本があるのね」
「さすがに『江ノ電 万華鏡』は無いな」
「それは無理よ」
「じゃあ、こっちなら有りにしてくれるかな」
そう言うと周志は杏里を後ろから包み込むと、彼女の掌(てのひら)に『江ノ電 万華鏡』を開いた。
「私の本を古本屋さんに売ってしまうの?」
「これは記念に置いていこう」
周志は一枚のメモを本に挟むと杏里の前に立った。
「誕生日、おめでとう。そして、僕と結婚してください」
息を飲む杏里に周志は言った。
「答えはメモに書いて本に挟んだけれど、君の言葉と同じであって欲しい」
「えぇ、もちろんイエスよ」
「良かった」
周志はニッコリ笑うと本を開いた。メモにはこう書かれていた。
『愛する杏里の誕生日にプロポーズした。僕たちは結婚する』
「私たちは結婚して互いに伴侶になる」
「古風だが、良い言葉だ。さすが作家 水無月アン」
「白浜杏里が上条周志と結婚するのよ」
「真っ当な言葉だ」
「全うな会話ね」
左手の薬指に輝く指輪が落とされる。杏里は嬉しそうに微笑むと思い切り爪先立ちをして周志の首に腕を絡めた。
「愛している、周志さん」
「ありがとう、杏里。愛しているよ」
交わすキスが終わる前に周志は静かに杏里の本を閉じた。
風月☆雪音
次回作『高校生 天堂浬の回想』
【高校生 天堂浬の回想:第1話.クリームパンの謎】
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