backrigmesi1986のブログ -5ページ目

backrigmesi1986のブログ

ブログの説明を入力します。

◆目次 index◆(ここからすべての記事に行けます) (うそ) コルトレーン、ヘロインを断つ 目次 ジョン・コルトレーンのプロフィール(take1) ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━ Godzilla - A Rub Sublime 怪獣の声とフリー・ジャズ(前置き) 映画の効果音/BGMシリーズ 1「ゴジラ」(インデックス) のつづき ゴジラ 怪獣怪人大全集1 ケイブンシャ こんなのあった! 片割れが残っていた。 ゴジラ対モスラ モスラがゴジラのしっぽを掴んで引き摺り回す。 これって "Mosura Freight!" ? 写真ものがたり『ゴジラ』 1954年第1作目を写真と文章でつづる。 Sound EFX/BGM on Japanese Film 映画の効果音/BGMシリーズ 1「ゴジラ」(ビクターエンターテイメント、2006年)という怪獣の声ばかりを集めたCDについてのお気楽CD日記、いよいよ本編です。 1曲目…「曲」と記すのはためらわれるので、1つ目、1作目と記すべきか。ともかく一番最初は1954年、第1作目のゴジラの声。悪くない。途方もなく巨大で暗くグロテスクな被曝した未知の生物の、その測り難さをよく音にしていると思う。 具体的過ぎず―意味が過剰ではなく、意味が固まる手前にある音。初代ゴジラのキャラクター設定の暗さ、曖昧さに見合った音になっていて見事だ。紋切り型の、月並みな想像力によるチープな類型というか、そういったつまらなさは回避されている。 他方で、1984年に復活して以後のゴジラの声は、発声器官としての巨大な洞をリアルに再現している感じが逆に興醒めでつまらない。リアルさがゴジラ本来の暗さ、曖昧さを殺いでしまっている感じ。 まず、伊福部昭がコントラバスの低音弦をペグ(糸巻き)から外し、松脂を塗った皮手袋で縦に様々な速度・強度でしごいて出した音をテープに録った。 次いでそれを音響効果技師の三縄一郎がテープのヘッドに手動で擦りつけて逆回転させ、さらになにがしかの音を合成して最終的にあのゴジラの鳴き声は作り出されたという(*)。 だから擦りつけたのは1回ではなくて、2回だったわけだから、正確には "A Rub" じゃないんだけど、まあ駄洒落ということで大目に見てください。 (*)伊福部自身によるエッセー「特撮映画の音楽」(『東宝特撮映画全史』東宝株式会社刊、p.64-65)。伊福部昭の公式ホームページで閲覧可能。特撮映画の音楽  及び、DVD『ゴジラ』収録の伊福部昭インタヴュー、チャプタ10を参照。 アンギラスは金管のマウスピースだけを吹く音、ラドンはコントラバスに人の声を加え、モスラはヴァイオリンで、キングギドラはエレクトーン(*)。 (*)CDの早川優の解説による。 意外なのがキングコング、フランケンシュタイン、サンダ、ガイラあたり―これらは「怪獣」というよりは「怪物」か。それぞれの紋切り型のイメージが醸し出すものからは逸れていて、陳腐でないのがいい。 ゴジラやラドンは「ゴジラと怪獣たちの咆哮」というタイトルでまとめられているが、その他に「超兵器の饗宴」と題して架空の兵器の音を集めており、機械的な動力音が一層の興趣を添える。 「変身する人間たち」の電送機&電送室内音(『電送人間』1960年作品)や後にバルタン星人の声に流用されたマタンゴの哄笑も味わい深い。 さらに、そのざらついた肌理の電子音で侮れないのが「光線は歌う」と題された各種レーザー光線音で、未来的な音響のなかに渋みが活きている。 各種楽器の特殊奏法とテープの逆回転と速度変化によって得られる音にせよ、様々に加工された電子音、機械音にせよ、ノイズ系のサウンドだが、ある与えられたテーマというか題目に沿って創作されたサウンドなわけで、決して無垢な音であるわけではない。 あくまで生き物であることを表すために怪獣たちの声には動物の鳴き声を参照したと思しきイントネーションが付けられているし、架空の兵器の機械ノイズもその律動の持つ癖のせいだろうか、或いはエコーの性質がそう思わせるのだろうか、ともかく、特撮固有のニュアンスをコノートしている。 それでも、そのテーマ、題目がそもそも怪獣―怪しい獣、正体不明の獣、また怪物―得体の知れない無気味な生き物、化け物であり、或いは未知の動力源で動く兵器であるため、あからさまな意味、きついフォーカスは自ずと結ぼれない傾向があって、それが面白い、というか、陳腐なものとして切り捨て難くしているのではないかと思う。 だが、個々の怪獣の声の鑑賞が、このCDの聴取体験の眼目なのではなく、特異な感銘をもたらすのは、非音楽だが、作品である音、しかも、98の断片の連射を浴びることにある。それは音楽ではないが、ある題目をもとにした音響効果技師たちの創意による音響作品であり、それを鑑賞することの、音楽でないことの新鮮さ。「音楽」として自己主張しない音の果てしない連なりの清々しさ、爽快さ。 ラストのボーナス・トラック、紛れもない音楽である伊福部の「宇宙大戦争マーチ」がそのことを一層際立たせるかのようだ。最後に挿入された唯一の音楽は、唐突に異様に響く。或いは異形の音の連なりに異化されて聴こえる? というか…伊福部の曲は、特撮ものであること及びマーチであるという二重に明確な役割を担った「音楽」であり、そのことが一抹の無気味さを醸さないではないのだが。 これはある種の崇高(sublime)か。「音楽体験」であることからの遠ざかり、「音楽」の消去が他ならぬ「快」を呼び起こすのだとすれば、「崇高」という概念を掠らないでもないのかも知れない。 崇高というのは周知のとおり美学上の概念で、苦痛・恐怖といった否定的契機が快楽や生の歓喜へと反転するその精神的高揚、またその反撥と牽引を惹起する当の対象を修飾する。 メロディ、ハーモニー、リズムといった形式がもたらす調和や均整に基づく穏やかな快ではなく、そういった形式から解き放たれた質料=サウンドを主としたフリー・ジャズ、フリー系の即興を価値付けるために、バークの『崇高と美の観念の起源』やカントの『判断力批判』を最近参照しているのですが、どうでしょうか。 崇高の心的動揺(感動)・震撼の振幅の大きさからすると、今回の聴取体験は「崇高」というよりは「アフラマンス(極薄・超薄)」(マルセル・デュシャン)か? 音楽から非音楽への移行、或いは音楽と非音楽のあわいを垣間見る体験であるならば。 安易に自分でもよく分かっていないフレーズを持ち出してはまずいですが、恐らくいくつものレベル、位相の異なる事柄の混在をうまく整理できていない証拠なのでしょう。 しかし、触知し難いし、明確に伝えるのも困難だが、別の場所で生起するより大きな動きの片鱗に触れているような、僅かながら繋がっているような予感しております。 ところで、ゴジラは、怪獣は、崇高だろうか。フィクション内の設定そのものにおいては「崇高」であるといえるかも知れない。その恐ろしさ、巨大さ、破壊力、曖昧さ(第一作の暗さ)はバークの挙げた崇高の条件に叶っている。 ゴジラの「着ぐるみ」は決して崇高なしろものではないが、「見立て」としては崇高でありうる。リアリズムではなく、様式レベルで前提されている、或いは成立する「崇高」さ。 “着ぐるみ”による特撮、怪獣映画を能・歌舞伎・文楽といった日本の伝統芸に連なるものとする観点については『大ゴジラ図鑑』のヤマダマサミ&西村祐次による「序」を参照。 しかし、これはゴジラについて改めて考えてみようと思い立った時から予想していたことなのだけれど、やっぱゴジラは(ひいては「怪獣」は)役割を終えているんじゃないでしょうか。直観でそう感じたんですけど、 高橋敏夫『ゴジラが来る夜に』『ゴジラの謎』、加藤典洋『さようなら「ゴジラ」たち』、中沢新一「ゴジラの来迎」(『雪片曲線論』)「ゴジラ対GODZILLA」(『女は存在しない』)、川本三郎「ゴジラはなぜ「暗い」のか」(『今ひとたびの戦後日本映画』)、小林豊昌『ゴジラの論理』  これらのゴジラに関する論考を読んでみて、自分の直観は間違っていなかったと思いました。ゴジラは高度成長の終焉と共にその役割を終えた、或いは文化象徴としての意義は薄れた、のでしょう。今回、1954年の『ゴジラ』をDVDで改めて観てみましたが、悪くはないものの、やはり正面からこれを「崇高」とすることは躊躇われる。 敗戦後の未曾有の混乱から復興を遂げ、ようやく高度成長に差し掛かったにもかかわらず、未だ空襲の記憶が生々しかったであろう当時の人々、或いは1954年当時の子供たちであったなら、未知の怪獣ゴジラの圧倒的な破壊力にリアリティを感じることができたのでしょうが、遥か昔に高度成長は終わり、戦後ですら終わってしまった今現在からすると、そこに生き生きとしたリアリティを感じることは少し難しい気がします。 それでも、その意義が擦り切れてしまった分、最早余計な期待・幻想が入り込む余地がなく、ゴジラや怪獣たちの発する声・サウンドは、その主たちが中途半端に時代遅れだからこそ持ち得る、担い得る意義があるのではないかと拝察します。それは程良い素材として(だが何の?)、深刻がらずにお気楽に面白がっておけばよいのではないでしょうか。 最後に武田泰淳の「『ゴジラ』の来る夜」(1959年発表。全集第6巻・筑摩書房)のラストを引用してほぼ1年振り、久々のお気楽CD日記を締め括りたいと思います。 「神よ。あなたはゴジラだったのですか」 という想いが、ブリキの破片のようにきらめいて、かすめ過ぎた。  すると、かつて命令にそむいて偶像を崇拝した、古代の諸民族も、あますところなく打ちほろぼしたエホバの、恐るべき哄笑が、私の耳をつんぼにした。 「神よ、あなたは、ゴジラだったの、ですか……」 ゴジラの日本上陸に備え、「ゴジラ特攻隊」に選抜された各界の代表者たち(偶像崇拝者たち?)は、「ゴジラ恐怖」に侵され「ゴジラ的動機」によって無意識的な殺戮を始める。特攻隊の人々がその惨状を嘆いてゴジラ襲来の遅延のせいにする矢先、とうとうゴジラが現れるが、それは姿の見えない、透明なゴジラだった。或いは、実のところ「ゴジラ」であるかどうかも定かではない。小説自体はコミカルなテイストが支配的だが、この見えない「ゴジラ」は明らかに崇高であるに違いない。カント『判断力批判(上)』(岩波文庫)p.197-198を参照。 ジョン・コルトレーンのプロフィール(take1) コルトレーン、ヘロインを断つ 目次 ◆目次 index◆(ここからすべての記事に行けます) (うそ) | ・人気blogランキング | ・音楽ブログ ジャズ・フュージョン | | FC2 Blog Ranking | ・ブログの 殿堂 | ・音楽広場:ジャズ | ジョン・コルトレーン John Coltrane ...
ニューバランス 1500