「私ね、引き揚げてきたんですよ」
談話室で隣に座った年配の男性が話し出した。朝の談話室は人気もなく、窓の外には初夏の青空が広がっている。
「満州から船で帰ってきたんです」
まだ幼い頃に終戦を迎え、家族で暮らしていた満州から命からがら脱出したのだと言う。
「たくさん死にましたよ」
ソ連軍を避けながら荒野を歩いて逃げ続けたそうだ。
「ソ連兵が来ると見つからないようにね、子供の口を押さえて伏せるんです。声出すと見つかってしまうでしょ。そうするとみんな殺されますからね」
どこか遠くを見るような眼差しで続ける。
「でもね、ソ連兵が行って顔をあげると、子供が死んでるんですね」
声を出さないように親から強く顔を押さえつけられたために窒息して死んでしまうのだそうだ。
我が子が声をあげてしまうとソ連兵に見つかって皆の命が危ない。
しかし、自分達の命を守るために我が子を殺してしまうはめになった親の苦悩は想像を絶する。
そしてやっとのことで引き揚げの船に乗ることができても、舞鶴までの船の中でも悲劇は続いた。
「乗った時は沢山いても、子供はどんどん死んでいくんです。病気になりますでしょ。死ぬんですよ」
港までの逃避行で弱った体なのに乗れるだけ詰め込んだ混雑した船内に劣悪な環境。薬ももちろん無い。
「死んだ子はね、船からポンポン投げて捨てるんです」
ゴミのように「ポンポン投げ捨てる」と言うのは大袈裟かもしれないけれど、自分自身が子供だった目にはそのように見えたのかもしれないとも思う。いや、そんな極限状況ではやはり投げ捨ててしまうような精神状態に追い込まれるのか?
「着いた時にはね、二十何人かしか居ませんでした。迎えに来た人がみんなワンワン泣いてね。生きてて良かった良かったって」
帰国してからも家族の生活は苦しく、子供は落ちているものを見つけて口にいれるような生活が続いたらしい。
「でもね、みんなそんなだったですから」
その後、中学を出て就職した勤め先の社長の「これからは学校に行かなきゃダメだ」という好意で夜学に行かせてもらって資格を取ったりして戦後の社会を生き抜いてきたそうだ。
「そしてこの歳になってこんな病気になっちゃって。まぁこれまでやりたい放題にやってきたからですね。仕方ないですけど」
自覚症状もなく何だか調子が悪いと思い受診してみた医者に
「うちでは手に負えない」
と言われて転院。手術が決定。
兄弟そろって海外旅行の計画を立てていたのに自分は参加を見送ることになりそうだと。
「まぁ、変な話、死ぬことは怖くはないんです」
空を見ながら静かに言ってから、
「でもね、いざ本当に自分が死ぬってなったら、その時はヤダヨーってなるかもしれないですけどね。それはわかりません」
と悪戯っぽく笑った。
幼い頃から歴史に翻弄されて激動の昭和と平成を生き抜いてきた彼の晩年が健やかなものであることを祈る。