去年、母が認知症になってしまった。

まだ軽度ではあるが、症状は少しづつ進行している。

今年90歳である。物忘れは仕方ない。だが「物盗られ妄想」を抱くようになってしまったのだ。

いや、それだってかなりマシな方なのかもしれない。それほど手がかかるわけではないのだから。

世間にはもっと若い頃から発症し、どうしようもないレベルにまで悪化しちゃった人も多い。90歳であのレベルなら、むしろ立派とも言える。

 

とは言え、困ったことはある。

当然のことながら近い将来死ぬことになるだろうが、その後のこと(葬儀や墓についての希望、財産が何処にどれだけあるのか、逆に借金の有無、遺言書の所在、伝えるべき友人知人など)が全く謎なのだ。家や土地の名義さえ解らない。

 

私と弟は、何年も前からそれを心配していた。そこで母に尋ねたことがある。

だが頑迷な母は怒りだしたのだ。

「お前たちはお母さんに早く死んでほしいのか。縁起でもない」

と、取り付く島もなかった。

もちろん我々兄弟には、そんな反応が返ってくるであろうことは予測出来ていた。案の定といった感じだ。

だったら勝手にしろとばかり、それ以上その話題には触れないことにした。

 

母は昔からバカだった。

必要なことは、自分が死ぬ直前に我ら兄弟を枕元に呼んで伝えればいい──そう考えていたのだろう。

そう思い通りに行くとは限らないことぐらい、ある程度人生経験を積んだ者なら解るはずだ。急に倒れるとか事故に遭うとか、ボケるとか、何があるか解らないのだ。

だが頑迷な母は「自分は大丈夫」と根拠の無い自信を抱いていた。

 

車を運転するなら自動車保険に入るのは当然のことである。というより「義務」になっている。

保険の話をする時に、「俺に事故を起こしてほしいのか、縁起でもない」なんて怒る奴はいまい。

しかも車の場合、必ず事故を起こすとは限らない。無事故で終わることだって十分あり得る。それでも保険は必要なのだ。

一方で、人はいつか必ず死ぬ。人だけではない。犬も猫も、生あるものはいつか必ず死ぬのだ。死亡率100パーセントなのである。

しかも、「もしもの話をすると寿命が3年縮まる」とか「死を口にしたら悲惨な運命をたどる」なんてことは無い。そんな統計は出ていないし科学的根拠も皆無だ。そういう会話と生死との因果関係は無いのだ。不安を抱くようなことは無いのである。

逆に、「縁起を担ぐと寿命伸びる」なんてことも、当然のことながら無い。

であれば、意識がはっきりしていて分別がつくうちに、そういう話をしておくことは絶対に必要ではないか。

「縁起でもない」なんて言って、震災に対する準備や用意を否定するか。

「もしも」に備えておくことは大事なことだし義務と言ってもいい。

 

例えば、結婚式などで「切れる」とか「別れる」なんて言葉を使わない、あるいは受験生の前で「滑る」とか「落ちる」なんて言わないという常識も、私には未開人の呪術にも似た愚かで無意味で非科学的な風習でしかない。どんなに周りが気を配ったって縁起を担いだって、別れる時は別れるし不合格になる時はなる。

だから仮に私が結婚するとしても、そんな気遣いは一切無用だ。

ただそういうものは、例えばスポーツ選手のジンクスとか、占いや御守りや神頼みと同じで、一つの文化であり気持ちであり思いやりであって、否定するようなことではない。縁起というものを気にし、験(ゲン)をかつぐという気持ちは十分理解できる。それを大事にしたいというのもよく解る。

だがそれとこれとは違う。

 

「死」は必ず訪れるものなのだ。

であれば、死んだ時にどうするか、どうして欲しいかは伝えておくべきである。

 

ずいぶん前から、「終活」と呼ばれる「その手の準備」の重要性が認知され広まっている。

今なお「縁起でもない」と批判的な頑迷老人がいる一方で、一部の「ちゃんとした人」は着実に「準備」を進めている。良いことだと思う。

私の母はもう仕方ない。今更理解も出来ないし、そもそも何がどこにあるなんてことも思い出せなくなっている。死んだ後で我ら兄弟が何とかするしかあるまい。

親は自分のことより子供のことを第一に考えるとか言うが、結果的にそんなことはないということになってしまっている。息子たちの苦労より、自分が縁起を担いで安心でいられることの方を優先させてしまったのだから。

 

ちなみに我々兄弟は、互いにその手の話を済ませてある。