バックミンスター・フラーを知ってから -5ページ目

利子

現在の経済学の主流と呼ばれる者達は、大部分は中央銀行のイカサマを
大衆からめくらましするために組み立てられた理論であり、そのためにこそ
真の目的は存在する。

要は、世界のごく一部のスーパーリッチの正当性を確立するためなのだ。

その欺瞞の最たるものに、「利子」の解釈がある。

彼らは市場の自由な経済活動が活発になればなるほど、お金が増えて景気が
上向き、その増えた分が利子として偏って移動したはずのお金の不足を説明する。

しかし、これは蛇が自らの尻尾を食べて即、それを消化して尻尾を再生させるから
尻尾はなくならないとでもいうような珍妙な理論であると私は思う。

ごく一部だけの狭い範囲を限定して起こる現象を全体の説明の理論に当てはめようとする
ひどい詭弁だ。

しかし、利子の真の働きは世界の権力機構に立つ者達が、私たちからお金を吸い上げるための
形而上的なツールであるとみなせる。

一旦大衆に投げ込めば、一回りも二回りも大きくなってさまざまな現物の富の所有権さえ
引っ掛けてくる巨大なブーメランだ。

利子があれば、貧しいものはより貧しく、富める者はより富むという現象を引き起こすことができる。
今まで先進国で中産階級が富むことができたのは、利子があるにもかかわらず、その利子の分を支払っても
市中にお金が減るどころか増えていったのは、それ以上に中央銀行が紙幣を刷り増していったからに
ほかならない。
そしてその紙幣を銀行というツールで大衆に貸し出したからだ。
貸し出しが増えれば市中の大衆が使えるお金が増える、そして貸し出しを減らせば
お金が減る(相対的に利子+元本が銀行に返還される量が貸し出しを上回るからだ)

私たちは銀行というポンプの排出するお金という水で体を潤すため池のカエルのようなものなのだ。
そしてこのため池には利子と元本の返済という銀行についたもうひとつの揚水ポンプで
絶えず水をくみ上げられている、そしてその水位はその入水と出水のバランスで変化する。

これが私たちの今現在住んでいる高度資本主義社会の全体図だ。

そして干上がりそうなカエルは水があるところに我さきに飛び跳ねる、水口を司る者の指図するほうへ
利子と銀行の貸し出し、そしてその貸し出しの元本である通貨の中央銀行の供給量こそが
彼らの秘訣であり欺瞞だ。

誇大

自分を大きく見せたいという動機から、ある思想に同一化を
図ろうとする、バックミンスター・フラーについても、
そのような動機でワタシは接している部分がある

それでは、よい成果は生まれないだろう。

フラー自身は著書で何度となく、それを注意深く排除しようと
していたことが見て取れる。

彼にしてさえ、その落とし穴にはまり込まないように
注意を絶えず払わなければならなかったのだろう。

それに対する対処には思考の記述化(=外部化)を絶えず行う
ことが欠かせないはずだろう。

たった今存在した自分の他人化は迷妄の牢獄から精神を解き放ち
効果的に働かせるためには欠かせない。

希望

どれほど陰鬱な世界の予感に捕らわれようとも

自分の子でなくとも、子供たちの存在、ただそれだけで

実在として希望がある、どんなに悲観しようとも

ただそれだけで希望と責任が私達にはある

希望と責任だ