育児の真理・見えない糸を解きほぐすヒント集

育児の真理・見えない糸を解きほぐすヒント集

子育ての悩み、それは子供の問題だけではありません。親自身、夫婦、あるいは他の家族の問題が子供に反映していることも多いのです。対処療法的なアドバイスでは解決できない悩み、複雑な家族や人生上の悩みも、解決できるヒントが、このブログのなかにあるかもしれません。

ベビー用品を扱う中で、子供のこと、育児のことを勉強してきました。そのうち、命というもの、人生というものについて、興味が広がり、表面に現れない秘密が、この世界にはたくさんあるのだということがわかりました。
会社の経営者であり、業界団体の責任者でもありますが、そういう肩書きを離れて、素の自分で向き合った、命の仕組み、人生の秘密などを綴っていきたいと思います。
世界がダイナミックに変化していく中で、人の人生も劇的に創造性豊かになっていきます。ひとりひとりの幸せのためのトピックを贈ります。



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ある高齢のご夫婦の話です。
病院暮らしのご主人は、老衰で余命半年と言われました。

ほとんど意識も薄れている中で、ご主人が

「家に帰りたい」

とつぶやいたのを聞いた奥さんは、
先生に自宅介護を申し出ました。

「大変ですよ。大丈夫ですか?」

先生は全く体が動かせないご主人の容体を考え
心配しましたが、奥さんの強い希望で帰宅を許可しました。

頻繁にチアノーゼになり、
緊急入院もたびたびでした。

それでも奥さんの献身的な介護のもと、
ご主人は命をつなぎ、
寿命を迎えたのはなんと8年後でした。

「奥さん、えらいですね。」
「介護大変だったでしょう。
 よく頑張られましたね。」

だれもがそう声をかけます。
けれど、奥さんは首を横に振ります。

「とんでもない、誰だって同じ状況なら
 同じことをしますよ。
 それに私は、お父さんに
 いっぱい愛を教えてもらったのよ。」

といいます。

「私は動けるし、話せるし、
 たいして不自由ないけど、
 お父ちゃんは、動けないし、
 食べれないし、何もしゃべれないの。

 本当に大変なのは、お父ちゃんなのに、
 本当にかわいそうなのは、お父ちゃんなのに、
 みんなが私のことを 
 「大変ね」
 「頑張ってるね」
 と、励ましてくれる。
 みんな、お父ちゃんのおかげなの。」

「子どもや孫が遊びに来るでしょ。
 その時も子どもたちはまずお父ちゃんに挨拶して、
 いろいろ報告するの。
 意識はないよ。
 返事ないよ。
 でも、孫もちゃんとお話しするの。 
 わたしはうれしくてね。
 お父ちゃんは、寝たきりで、
 だまって聞いているだけだけど、
 そうやって私たち家族を結び付けてくれてたの。」

「だからね、私はお父ちゃんにいっぱい愛をもらったのよ。
 幸せだったの。」


これは、介護関係の仕事をする親友が
教えてくれた話です。

こんなに感動に出会える仕事が出来てうれしいと
涙ながらに語ってくれました。



ペタしてね
妻方のおばあちゃんが亡くなった時の話。

元気だったのに、脳溢血で倒れ、
突然に植物人間状態になってしまいました。

機械でかろうじて生きているものの
意識はありません。
こちらの声が、聞こえているのか、
聞こえてないのか、わかりません。

でも妻や妻方のお母さんは、
きっと聞こえている、
わかっていると信じて、
毎日病室にむかい、声をかけ、体をさすり、
手を握っていました。

ときどき、手が動いたり、
涙を流したりするので
それは単なる反射かもしれないけど、
身内としてはちゃんと生きている
と感じていたのです。

それまでのご恩を思い返しながら、
毎日、朝に、夕に、病院に通い続けました。

特に妻は、あの「トイレの神様」の歌のように
おばあちゃんに育てられた子だったので、
必死に看病に通い続けました。

それでも一向に容体は良くならないまま
ちょうど1年が過ぎ去りました。

病院からの帰り道、
ふっと、ふたりが、どちらからともなく

「ちょっと疲れたね」

と話しました。

その二日後、ふたりの夢枕に
おばあちゃんが立ちました。
と、同時に、病院から危篤の知らせが・・・。
駆けつけるとすでに、
おばあちゃんは天に召されていました。

意思表示が出来ないままに、生き続けるのは
地獄の様な苦しみと思います。

けれど、おばあちゃんはひょっとししたら
あえて1年間がんばって生きてくれたのかもしれません。

その間、家族は想いをこめて看病できたし、
徐々に覚悟もできていきました。

家族の愛の行動の受け皿として、
おばあちゃんは逆に私たちを
見守ってくれていたように思います。

そして、家族に
「やりきった」
という気持ちが起きた時
おばあちゃんは、「この時」と見定めて、
自分の命に終止符を打ちました。

残された家族は、悲しかったけど、
不思議なくらい、落ち着いていました。

すべてが、ぴったりとシンクロしていて、
愛情深く、賢明だったおばあちゃんらしい
最後だったと思います。

寝たきりでも、なお、おばあちゃんは
愛を送り続けてくれていたのです。

ありがとう、ありがとう、おばあちゃん。


ペタしてね
この世にむだな存在はありません。

この世は大きなジグソーパズル。
似たような形で、似たような色のピースも多いけれど、
どんなちいさなピースも欠けることは不可能です。

そして、どんなちいさなピースでも、それが形や色を変えると、
大なり小なり、全体の絵に影響を及ぼすのです。


この世にむだな体験はありません。

いじめられ、罵倒されたつらい思い出が、
人を思いやるやさしさに変ります。

病気になって失ったとき、
ただあるだけでありがたかったと気付かせてくれます。

立ちはだかる障害によって
本気で生きる大切さをを知ります。

全てがとてもよくできた映画のように伏線となっていて
必要な気付きをもたらします。
親子の縁には完璧なシナリオがある。

自分の人生の目的を果たすのに、
一番助けとなってくれる親を選んで生まれてきた。
たとえそれが、身を削るような荒い砥石であっても。

同時に、私は親に教えるべきことを携えて生れてきた。
それが親不幸と嘆かれることであっても。

すべては繋がっている。
一切の無駄なく。
私たちの性格、人格は、
家族や教育などの環境から影響というよりは、
それをどう受けとめるか、
本人の自由意思による選択の積み重ねと思います。

だから、兄弟でも全く違う人格に育つのは
個性の当然の成り行きです。

さらに実際には過去世の経験値も
影響していますから、
今世だけの影響で変えられるのは
一部分にすぎないでしょう。

子どもですら、魂レベルでは
生きることの大ベテランぞろいなのです。
兄弟姉妹で性格が大きく異なるのはよくある話です。

同じ親、環境で育ったのに不思議だなぁと思いますが、
それはいかに家族から学ぶか、
という観点でみるとよく理解できます。

自分にないものに触れることで、
知り、選び、行うことが出来ます。

そのための組み合わせが
あらかじめ「契約」として仕組まれているのです。

子供を0から育つ未熟な存在と思うと
理解できないことがいろいろ出てきます。

人は何度でも生まれ変わります。
子供は、生まれてきた時点で
リセットされて生まれていますが、
その性格や、魂に刻まれた思い、
この人生にかける課題などが
すでに設定済み。

家族も、それぞれの個性が活かされて
人生の目的に都合の良い環境が得られるように
組み合わせが計算されています。

あの世で交わした「契約」に基づいて
私たちは家族になっているのです。

すべてを忘れていますが、
契約したのは他の誰でもなく
自分自身です。





失敗を許せない人がいます。
成功の積み重ねによって
より大きな成功があるという考え方です。

失敗は成功の種という人がいます。
失敗の積み重ねが、
確実に大きな成功を引き寄せるという考え方です。

どちらでもいいです。
その人にとってはそれが真実なのです。

どちらかが真実だとジャッジすると戦いが始まります。
それは無用なことです。

色々な人がいるのは、色々な真実を追求するためなのですから。
経験したくないけれど、
経験する必要があって出会うこと

・・・病気、解雇、倒産、離婚 etc。

それは天からのプレゼント。
子どもにとって、案外
氣の合わない夫婦というものも、
良い親になることがあります。

なぜなら、子どもは、
価値観の全く違う考え方に、
いつも触れることが出来るからです。

子どもは多くの引き出しを持つことが出来るでしょう。
そして選択することを学ぶでしょう。

そう考えたら、もう少し一緒にいようかなって
思いました?
http://livedoor.blogimg.jp/babypro/imgs/c/7/c70ee075.jpg

「みんなちがって、みんないい」
私の住む山口県の詩人、金子みすずの詩ですが
僕はこの言葉がとても好きです。

ただ、世間一般で
「みんなちがって、みんないい」と言うとき、
「だけど、悪人は別」とか
「危険なものは含めず」といった例外があるみたいです。

ある教育関係の、パネルディスカッションを拝見する
機会があって、コーディネイターが
「みんなちがって、みんないい」と言ってました。

その話題の中で、

「けれど、ホリエモンは絶対に認められない。
 お金で何でも買えるなんて大間違いだ。」

とか、

「子どもに携帯やパソコンは必要ない。
 危険から守るためには買い与えてはいけない。」

といった意見が概ねの賛同を得られていました。

それはまぁそうでしょう。
ホリエモンを肯定する要素はありません。

子どもの携帯だって、ほんとに犯罪に繋がったり、
サイト利用によって、いじめのツールになったりするので
警戒するのは当たり前です。

でも、「みんなちがって、みんないい」
と言った金子みすずの想いはちょっと違うように思うんです。

実は、ホリエモンがやったことは、
その結果うまくいかなかったよ、という
失敗例を生きながらに見せてくれているようなものです。

そして、この集会においても、みんなで彼を否定することで
一体感、連帯感が明らかに増大していました。
そういう役立ち方もあるのです。

彼のような象徴的な存在を共有することで、
多くの人が学びを得ました。
反面教師の代表格でしょう。


また、子どもにとっての携帯電話。
その会場でアンケートをとったところ
2000人の参加者のうち、与えてもいいと言う意見は、
僕を含めて3人だけでした。

子どもにパソコンもテレビを必要ない、
という意見がこの教育関係の集会では
肯定的に受け取られていました。

僕は、子どもに携帯を渡しています。
パソコンもテレビもおおむね自由です。
(安全のためのアクセス制限はかけています。)

それは僕の子供たちを見たとき、
インターネットの危険にはまるおそれよりも
それをツールとして使いこなす経験を積むことの方が
有意義だと感じたからです。

与えずに飢えるよりは、
与えた上で自分で選び取っていく
心の余裕を大切にしました。

でもそれは、わが子をずっとそばで見ていて、
たまたまうちの子には、これがよいだろうと
判断したにすぎません。


要は、その人にとって、ひとりひとり状況は違うのです。
この世に生まれて、学ぼうとしている課題も違うのです。

私たちに個性が与えられているのは、
みんながみんなちがった可能性にチャレンジするためです。


僕にとっての正しいことは、
あなたにとっての正しいことと違う。
それは、誰かが間違っているのではなくて、
ポジションが違うというだけだと思うんです。

ホリエモンには、彼なりの役割があったのだと思います。
うまくいかなかったとき、人は改めるチャンスが
与えられるべきでしょう。

そして、帰ってくる場所を用意しておいてあげる、
そんな愛ある社会になっていって欲しいと思います。


みすずにとって、「みんないい」に例外はなかっただろうと思います。


僕も、例外をもたずに、
その人の瞳の奥の真実を見つめていきたいと思います。