babelogue …わたくしの常識は世間でも常識なのだろうか -40ページ目
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江戸時代のこと

rain


きれいな物の写真を載せてみる。

これが江戸時代の人が描いた絵なんだが、何をいっておるのか皆目わからない。

たぶん、これはこっちが上だろうと見当をつけて写真を撮った次第。合っているのか。

線も適当でぴゅんぴゅんと、くちゃくちゃっと、まあ迷いはない。

で、難物はこの斜線。

わたくしはこいつは雨なんじゃないかと睨んでおるのだが、もちろんわからない。

暗雲が立ち込めて雨ざあざあ。で、その上にドラゴン踊ってませんか。気のせいですか。

それかこの線は木の幹で上に葉が生い茂っているんだろうか。

そうするとドラゴン部分が何だかわからん。ひっくり返して山の絵。うーむ。

なんでこんな絵を描いちゃったんだろう。


わたくしはこのブログを書いているうちに、そうかもし読んでもらえるものならば人々がそいつぁそうだ納得するぜと思ってほしいと思い始めた。前に「わたしがこの時とった(見聞した)行動は常識的でしょうか」という問いに対して筆者が答える、それにまた別の人が反論する・意見を述べる、またそういうやりとりの後に始めに質問した人が後日自分はこうしたという報告をするという、雑誌に連載された質問コーナーをまとめた本を読んだことがある。いや人々の「常識」っていい加減なもんなんだなと感じた。

「常識」が人によって千差万別だったら困っちゃうじゃんねえ、生活しづらいじゃんねえ、と思う。

生活しやすくするためには、まずわたくしの考え方で人々に共感してもらえる部分を把握しておきたい、と精神安定が心もとない者としては考える訳だ。


だいたい「常識」ってのは前から怪しいとこがあると思っていた。

例えば江戸時代。乳飲み子を連れた母親が暴漢に襲われたその時、自分はどうでもこの子の命だけは、って展開になると思う訳じゃないですか、現代人であれば。それが常識だと思う。でも江戸時代には、子供を見殺しにしてわが身の貞操を守った人が女の鑑と賞賛されたんですね。むちゃくちゃじゃんか。と思う。


そういうことを考えると、なんでこの絵なのかってすごい考えちゃうのね。

わかんないけど、見ていて楽しくなることは間違いない。


…なりませんか。

日本一

少し車をいじった。その後、歩いていたら靴が妙な感じだ。

見てみると、靴の裏に「日本一」とでかでかとシールが貼ってあった。

「日本一」とはご存知の方にはすぐわかる、軍手の商品名(たぶん)だ。軍手の入っていた袋に貼ってあったシールが剥がれて、知らぬ間に踏んでいたのだった。やられた。


しかし日本一。えらいもんになってしまったものだ。派手である。派手だがいかんせん靴の裏だ。

これって歩くたびに後ろの人からはちらちら微妙に見えるんだろうか。普段自分はどんな歩き方をしているのか、気になってしかたがないのだが思いつかない。何だか歩き方がおかしくなってきて、ついにはまっとうな直立歩行がままならぬ有様である。


家に帰って靴を脱いで見たら、すっかり踏みしだかれてぼろぼろになって、付近の砂・泥・石・草・ゴミなどをシール故の粘着力で集塵・提示していた。このようなみすぼらしい日本一は日本中探したってないだろうと思われ、非常に情けなくなって泣きながら風呂場で死闘30分をもって、安っぽい粘着シールの日本一のしつこさに打ち克ったことであるよ。

やられたね。

nihonichi


ああ、きれいごとを並べようとしていたのが、ついにこんな汚い画像をアップしてしまうとは。

肥やし飼いにした牛

わたくしも、時間さえあればじっくりと話し合ってみたい。

若い頃は暇を持て余していたから、実際じっくりと話し合ったものだ。

で、今となって実は時間は結構あるんだが、うーんやっぱり時間かかりそうでめんどくさいからやめとくって、年をとって卑怯者になったわなあ。


それはその、宗教勧誘のことである。


各戸を回ってくるやつだ。昔はいろんなのが来たものだったが、引越し人生なので地域差なのか時代性なのかは不明だが、ここ何年もあるひとつのやつしか来なくってちょっと寂しい。あるひとつって言えばたいがいみなさんどこのことかぴんと来るとは思うが、とっても真面目でわたくしは好きだ。


すぐに集会所へ連れて行こうとする高名な団体もあるが、人々が集まることが楽しいとみえ、教義などは難しいからさておき、みたいな雰囲気があってわたくしの好みではない。何だか不真面目に感じる。


それにひきかえ、約2名による戸別訪問を主として黙々と布教活動を展開するこの団体は、常に教義に関する何かしらを人に伝えようとする一貫した姿勢がうかがえる。真面目だ。

しかし卑怯者と堕落してしまったわたくしは、いつしかめんどくさいからドア越しに手短に話すだけとなってしまい、相手も長居はしないでそれでは後で読んでおいてくださいと言ってパンフレットをドアのポストに投函していくにとどまっている。


で、新年ということで投函されたパンフレットにこのたび手書きのカードが入っていた。


葉書大のカードに、「新しい年が始まりましたね。きっと良い一年であってほしいと思われるかも知れません。昨年は子供たちが犠牲となる恐ろしい事件が相次いだので…」と続いていく。

女の人の字(ところでどうして文字って、女か男かすぐわかるんだろう)だが、年齢不詳の優等生文字で(年齢は文字の成熟度である程度わかるものだが、男性の場合いい歳ぶっこいてすごい子供の字な人が案外いるので要注意。女性の場合は思春期時代の流行というのがあってそれに影響されててだいたいの世代が判明する人が少なくない。ただ、全然影響されてない女性もいるし、すごく影響を受けている男性もいる。以上、わたくしの「文字」に関するデータ解析)、いかにも「宗教の人」といった風情である。清々しい。ただ、真ん中辺りに、たぶんこのカードのメインのことばとして、

“野菜の料理とそこに愛があれば、肥やし飼いにした牛とそれに憎しみが伴うのに勝る。”

と書かれているのに、目が釘付けだ。


あ、あ、肥やし飼いって何だ。肥やし飼いにした牛ってどんなんだ。それに憎しみが伴っちゃうって何かの間違いではないのか。憎しみが伴った牛って、牛が怒っているということか。しかも肥やし飼いだ。

それだけでは済まずその対照は「野菜の料理」ということになっておるのだが、例えばほうれん草のおひたし。小皿に載った緑色のひんやりした、上にちょこっと茶色の鰹節のかかっているほうれん草のおひたしがあってだな、それにあい対して怒った牛、これはもう怒っているからにはスペインの闘牛に決まっている。色は黒。しかも肥やし飼い。

わからん。どうしてここはひとつ「愛は憎しみに勝る」って言わずに、こんなややこしいことになってしまったのか。自分で連想しておいて、勝手に「しかし鰹節って愛なんだな」と誤解を始める始末。


手に汗を握ってしまった。

そういえばずっと昔、同じ宗教の布教者がわたしに一枚の絵を見せて、「ここに分捕り品があります」と説明したんでくらくらしてしまったのを思い出した。

中年のとても品の良い奥様、落ち着いていて地味だが芯の強さを感じさせる女性の、よい香りのしそうな美しい口から発せられた「ぶんどりひん」という言葉があまりにミスマッチだった。だってぶんどりひんですぜ、ぶんどりひん。

しかし、悪者がどっかの家だか町だか企業だか城だか国だかに押し入っていろいろ分捕ったイラストだったと思うんだが、どうせそれを神がどう裁いたとか、その時略奪に甘んじたいいもんの宗教家がどうだったとか何か言ったらどうなったとか、そんな辺りの話だったんだろうけど(すっかり忘れてるね)、一体どうしてその説明に「ぶんどりひん」のイラストを使わなきゃならなかったのか。

もっと言えば、あの日の彼女はどうして分捕り品をわたくしに指し示す必要があったのか。


まったくもって、肥やし飼いにした牛である。



黒柿

kurogaki


黒柿である。

この、こう茶色の部分に混じってくる黒、の、鈍く光ってゐる。ここの色、というか感じ、にくらっときてしまう。

昔、疲れてふと入った喫茶店のテーブルに黒柿が使われていた時には、テーブルを見つめ手でつい撫ぜ思わずしんみりしてしまった。温泉入って疲れがとれるあの瞬間と同じ。じわっと、こう。

じわっとこう、を噛みしめているうちにしんみりしてしまった。

こういうことで心底寛げるわたくしは、ほんとーうに偏屈なのかもしれん。

これはなあ、マーブルケーキなどとは違う。コーヒーにクリームを入れて溶ける感じとも違う。どっちかと言えば練り切りの薄桃色と若草色の境界線だ。ああ、さもなくば月の影にかかる淡い灰色の雲。

など変態の気分になってきて不安になる。この美しさへの感動は、果たして一般に通じるものなのか。


それにしても写真を撮るって難しいものですね。黒柿の美しさの30%も発揮できていなく感じられて悲しい。

わたくしはブログのテーマを、えっとテーマを、テーマはあんまり認識しとらんなそういえば。でもこう、何というか先にも述べたようにきれいなものや楽しい、世間一般の皆様に共感していただけて「そっか、わたしもちゃんと社会人でいける」という確信を安易に持つことのできるような、欺瞞に満ち満ちたもので飾り立てたいという欲望があって、写真はいっぱい載せたいのよね。

それが、始めてみてどうやら画像は画像フォルダという所に置かないとアップされないようだ。それだけならいいが、画像フォルダというのは容量が20.0MB、って書いてあるから20.0MBらしい。それだけならいいが、「画像フォルダから画像を削除すると、ブログにアップロードした画像も削除されます。」ってさりげなく表記されてるんだけど、これってわたくしが死ぬまで一生かかって毎日こつこつブログを書き続けても、20.0MBなのか。はみ出た画像は死ねってことなのか。徳川家康全26巻に対抗できる長大ロマン傑作への夢が、画像容量20.0MBなんぞによって簡単に打ち砕かれるのか。

スタートして瞬時に、ほかのサービスへと乗り換えねばならない窮地に立たされてしまった。

ちょっと困った。


ただ、20.0MBってどのくらいなのかとんと見当がつかないし、徳川家康26巻はちょっとしんどそうだしな。きれいな写真を続けて載せられるような美しい話題がわたくしにあるかも謎だ。何より写真撮るの難しいよなあ、これ。何でブレるんだ。

再び、テレビのこと

自分は年寄りなのかもしれない。

子供だった頃、何か公けのことにぶつぶつ文句を言うのは年寄りだった。ように感じていた。年寄りといえば典型的にこういった文句を、疑問形でぶつぶつ愚痴るのであった。

それは典型的中の典型、テレビを見ている時であった。


報道ステーション。どこかの会社が阪急の株をたくさん買って筆頭株主になったニュース。古館伊知郎がこの阪急ってとこには宝塚歌劇団もあるんだと説明する時、「あのオスカルの宝塚」と力を込めたので、つい前のめりとなってしまった。宝塚を語るのに「あのオスカル」で納得する人がいるのか。

何だか「ラスカル」という名前の小動物まで連想してしまったぞ。

伝統ある宝塚を「あのオスカル」で象徴しちゃいかんだろうとも思うが、オスカルって何者かわかる世代はかなり限られてはおらんか。

なんだこりゃと見ていると、VTRにまとめられた昨今の企業合併(だか買収だか)の解説の段でナレーターが「果たして松村氏は第二の村上氏となるのか」などとおっしゃる。いやあ、松村氏は松村氏だろやっぱり。

で、話を括るにあたって古館伊知郎は、阪急が抱えている会社を挙げる時「東宝、宝塚、あ、ふたつとも『たから』ですね」と言っておった。この人、このニュースがあまりにつまんないのでふざけているのだろうか。


次は大雪で各地が大変なさわぎとなっているニュース。

積雪が多くて道路の閉鎖が相次いでいる。取材班が「我々は自衛隊の許可を得て、入ることを許されました」と言って、いや近頃の日本語の乱れは嘆かわしい。それでも報道者か。画面の、許可を得て許されたアナウンサーは妙に得意気に見えた。

大雪で孤立してしまった町では、放水による除雪をやめてもらおうと役場から呼びかけの放送が幾度も繰り返されているという。

「お互い、自分の身になって考えましょう」

って、気は確かか町役場。お互いも何も誰だっていつだって自分の身になって考えていると思う。んだが、ひょっとしてわたしが間違っているのか。

皆様はたいがい相手の身になって物事を考えるんだけどここは一大災害時、人の身よりまず自分の身を守るのが先決だ、相手の身にばかりなってたら死ぬであんた。という教えなのか。

だんだん自信がなくなってきた。


あかん。こんな年寄りじみたことをしとっちゃ、今に若者から見向きもされなくなるであろう。危機感を覚えるのであった。

始まりはいつも愛

ところで「きっかけはフジテレビ」ってさ、何のきっかけかわからんじゃん。でもそれについて今までちっとも疑問を感じなかったなあ。テレビに不慣れだったわたくしも、いよいよそこまで成長したのだろうか。つまり、現実的な細かいことに囚われない、という。

とちょっと感慨に耽ってみたが、いや待て。昔、「始まりはいつも愛」で始まる歌があったのである。それ、そのことよ。


今しがた、頭の中でその歌が始まってちょっとぐるぐる回っていたと思ったら、これって「きっかけはフジテレビ」とおんなじじゃん、と気づいたのだった。「始まりはいつも愛」ってねえ、全然説明にもなってないし、歌の中でも意味があるとは思えんのだわ。出だしの調子づけだね、いわば。

と、これはシンディ・ローパーよりさらに古い歌なので今さらここで語ってもいたしかたあるまい。わたくしの記憶にもあやしいものがある。


で、何でそんな歌が頭の中で始まっちゃったかというと、このブログを書き始めたきっかけのようなことを書いてみようと思ったからである。ま、何というか「言い訳」ですね。


わたくしの場合、「始まりはうつ」である。

手っ取り早く説明すると、お気楽な人生を送っているようでこう見えてもいろいろあるのだ、わたくしには。でも、お気楽な人生なのでいろいろある、という言い方もできる。まあとにかくああやこうやあって、ある日発作が起きるのですよ、あなた。

これはパニック症というやつで、もうずっと昔からこの発作はたまに起こっているし通院もしたことあるのでまあよし。薬を服用すればわりと何とかなるものだと知っているので、事務的に心療内科へ行った。「パニック症ですね」と医師に言われる。「それから、」医師は続ける。「少しうつ病も入ってますね」。

心療内科などに縁のない御仁にとっては、だから何だという話かと思うのだが、これはわたしにとって少なからず驚くべき事実だった。

パニックのほうはわかる、知ってた。でも「うつ」? 初耳だ、知らなかった。ああ自分はうつ病なのか。心療内科などに縁のない御仁にとっては、パニックだろうが鬱だろうが躁だろうが同じかもしれん。が、わたしにとって「うつ」は意外だった。

そういえば、本当に動けないという日が時々ある。ずっと昔には1ヵ月間ヨーグルトと牛乳以外は何も口にしないで、考えることもできず、ぼうっと過ごしたこともあった。あの時は道で知った人に挨拶をされると、10秒くらいは何事かわからず挨拶を返しそびれて、いやあ思考が本当に止まっておるなあと感心したものだった。あの辺りか、「うつ」は。

心療内科などに縁のない御仁にとっては薄気味悪いだけの話だろうが。わたしはただの怠け者なのだとばっかり思っていた。でもそう言われると、ちょっと度が過ぎていたと思われる事象が次々と思い出される。


まあとにかく、パニックが起きるし、いろいろあって仕事を辞めた。うちでだらだら。これは単なる怠け者だとは思うのだが、どうも頭の中には「うつ」の文字が陣取っている。

ああ、うつ病のわたくしが社会で人様の中に入って仕事をすることなんて、もうできないかもしれない。それは働かんでいいってことにならんか。だいいち、あんなんやこんなんやくだんねい人間の中で仕事なんかできるか、やってらんねーよ、馬鹿馬鹿しい。けっ。など、暴徒と化してしまった。

そしたら、仕事もせずに家ででれでれしているわたくしに姉から電話が入り、「インターネットで商売でもせんか」と持ちかけてくるのだった。この姉というのがさすがにわたくしの姉だけあって、「馬鹿にあごでこき使われて、やってられねーよ」などと年中言っておりながら、会社勤めをやめられない人である。

が所詮、自分で何かを創り出すようなことのできる器でない小心者、ぶつぶつ悪態をつきながら馬鹿にこき使われるような人物なのでわたくしどもは、インターネットで何をどう商売したらいいのか見当もつかない。

しかしそこで「うつ」のわたくしは、このままじゃ本当にいつまでたっても就職ができず食うに困ってしまうかもしれないという気持ちもあり、暇なことも強みとなって、とりあえずインターネットでは何が起きているのか見てみよう、という行動に出たのである。ババ抜きでジョーカーを手にすると得意になるタイプである。


で、見てみた。まともなホームページを見ていると、はい、なるほどそうですか、はい。としか言えないものばかりだった。そんなことが自分でできるとは思えなかったし、やったところで商売になるまでにする自信はない。

道を歩いていて、本屋さんとかレンタカー屋さんとか喫茶店とか箒専門店などを目にし、そこで働いている人を見るのと変わりない。羨ましい限りである。


音に聞こえる、2ちゃんねるというやつを見てみた。こわかった。小学生の頃「ばーか、かーば」と憎たらしい相手を精一杯罵ったやつの、ボキャブラリー増えたバージョンで100倍にパワーアップされ長期化された罵り合いだった。こんなんを浴びたら「うつ」のわたくしなんかひとたまりもない。くわばらくわばら。しかし本当にこれで見方は正しいのかわからんのだが、どこまでいっても2ちゃんねるは汚い言葉の応酬が繰り広げられているばかりだった。どこかに救いはあるに違いないといろいろやってみたが、ついには知人がフルネームでスレッドを立てられ、勤務先だとか経歴とか家族構成まで挙げられて攻撃されているのを発見してしまった。いや確かに多くの人を敵にまわすタイプだけどさ。本人はこういうの見ても絶対へこまないタイプだけどさ。


ブログというのも見てみた。

前っから絵文字というものはよくわからんと思っていたがそれだけでなく、理解不能な言語や、変換しそびれたような「w」とか本当に変換しそびれたと思われる子音アルファベットが出てきて、こんなややこしい世界かなわんと思う。全くもって意味不明な会話が次々と展開されて焦る。

「ブログって。よくあんな恥ずかしいことができるねえ」という意見があった。「ブログって一体どんな奴が書くんだか」という意見もあった。こういうのがブログ上で発せられるのだから、困る。真意がわからん。が、少なからずわたしもそう思う。ま、日記を人様に公開している訳で、恥ずかしいことは確かだ。

だが、ブログを書かずに普通に生活していて恥ずかしい人間だって多いぞ。わたしなんぞもそのテだと思うが。

2ちゃんねると同様、人々から悪意の塊のコメントがつらつらとついていくブログもたくさんあった。これ、かなわんなあ。

しかしうつ病のわたくしは、この「ブログ」に強く惹かれてしまったのである。溜まっていく何がしかを発散していく、うってつけの行為ではないか。馬鹿やろてめ、何様だ? ということが日常生活で非常に頻繁に発生するわたくしにとって、それを何がしかの形で人様に訴えるというのは、誰も聞いてなくっても効果てきめんな感じがするのであった。厭な現実から逃避を図ることもできるような気もするのだ。

だから本当は「w」を始めとする理解不能な言語でコメントされたら、英語が喋れない人がアメリカ人に道を尋ねられるくらい困るし、「ばーか、かーば」のコメントがついたらむちゃくちゃこわいのだけど、人様からの意見で目から鱗が落ちたらそれはうれしいし、何せ「うつ」だから人様とコミュニケーションをとることができたらうれしいし、あんまり考えずに始めてしまおう。

何せ始まりはいつも愛だ。


ということで、姉には悪いがとりあえず商売の話は目下ぶっ飛んでいる。とりあえずブログやってたら、またいいアイディアが浮かぶかもしれないし。

シンディ・ローパーを聴いた。

テレビを見ていて、自分が驚くほどわがままなことが発覚した。待っていられない。テレビの速度についていくのが苦痛だ。

テレビをあまり見ないで人生の大半を過ごしたので、以前はテレビを2、3時間見ているとにわかに吐き気がして船酔いのようになってしまって寝込んだものだ。

ここ数年、テレビにはずい分慣れてきた。面白い。子供のようにじぃーっと画面を見つめ続けてしまう。故に以前は気持ち悪くなったりもしたのだが、今ではコマーシャルの間にちょっと席を立つなどの技も習得して、船酔い状態にはならない。

が、本日見ていたら、妙にいらいらしている自分に気づいた。速度が遅いのだ。でもって、自分の思ったような展開にならない。

これが例えば読書だったら、まどろっこしかったらすっ飛ばしたり読みたい部分だけ拾ったりできる。続きは好きな時に読むことにして一時中断も可能だ。テレビのように場面全部が見えてしまってアラや辻褄の合わないことにいらいらする頻度もぐっと少ない。見えない部分は勝手に想像することができるから、自分の思ったような展開になりやすい。


だってさあ、死んだ娘さんが海外旅行した時のアルバムを見せてくださいって刑事が訪ねて来てさあ、きちんと写真1枚ずつ台紙に貼ってあるアルバムだって今時見かけないのに、事故現場でどっかのおっちゃんが血を流して死んで救急車に載せられてる写真を数枚きちんと貼っておくか?

それを感想もなく平然と母親が刑事に見せるか?

ここに倒れている人物は…、と顔を見合わせるより先にこのお母さんのほうが100倍怪しいと思わんのかふたりもおって刑事がからに。

だいいち役者が文句も言わずにこういう役を演じるのは何故だ。役者のストレスをいっぱい溜めさせてダメにしたいのか、テレビ局の目論見は。そして新しい役者をどんどん登場させて、新陳代謝をよくする。そんなとこか。ほう、そうかそうか。


「おーっと追い詰められた猿はこの後とんでもない行動に! 衝撃の映像はコマーシャルの後!!」とふっておいて、コマーシャルの後にもう一度同じことを言って、猿がぼわーんと飛び降りる映像を3回繰り返して流して、すごいですねえ、やりましたねえ、猿も必死ですねえ、と司会者とゲストが大笑いしながらコメントし合っておる。

普通の人間の会話だったら、「お、猿もさすがに飛び降りたか」「そりゃそうだわな」で済む。どう見ても時間をかけて丁寧に見る状況でも笑う状況でもない。

なぜみんなこんなにハッピーで時間をかけて笑ってしまうのか。


逆に言うと、テレビでのこういった現象は非常にしばしば見られることなのでひょっとしてみなさん、この現実感のない場面が面白く、自分のわがままを押さえ込むために見ているのかもしれない。自分のわがままなんて醜いものを持ち込まずに見ている姿勢。偉い。

しかしわたくしは、わがままによって、ついいらいらしてしまうのだった。観テレビ歴が浅い初心者の煩悩である。


で、唐突に音楽を聴くことにした。30年前から続いているテレビ批判のような寝言をほざいたところで人々の共感は得ることができまい。


シンディ・ローパーを聴く。これはかれこれ20年近く前の音楽でご存知ない方も数多いらっしゃる筈だが、わたしとて10年ぶりくらいに聴いた。探したが、CDでは持っておらずレコード盤を発見してターンテーブルに載せて聴いた。何でシンディ・ローパーを聴く気になったかは不明。

が、これが迫る宵闇と相俟って、涙が出そうに感動的なアルバム鑑賞タイムとなった。そうだ、テレビとか小説とかよりももっと簡単に純粋に人の心を動かす素晴らしい音楽!! こうでなくちゃ人の心を動かせない。など興奮し、シンディと共に絶唱し踊りつつ、この感動をわたしはぜひ書いて人々と共感したいと思った。そうして、小説がああだとか本がこうとかよお、くだんないテレビがこんなんだとかよお、そんなちっちゃなことじゃなくって、いいぜシンディ・ローパー。

って、中学生の交換日記並みか、阪神が優勝した時の梅田の酔っ払いのコメント並みの言葉しか出てこないのであった。


写真を載せてみる。おっ、このアマゾンさんの写真は便利でいいですね。是非多用しよう。

いやしかしいかれてるね、この姉ちゃんは。見た目だけで十分かっこいい。歌はもっといいぞ。


Cyndi Lauper
Night to Remember

だからできればきれいごとを。

きれいなものを、挙げてみたいと思う。
…ない。
いや、わたくし的にはきれいなものはいっぱいあるのだ。
しかしひょっとしてよそ様がご覧になるかもしれない。ここはひとつ、説得力のあるきれいなものを挙げてみなければいかんだろう。


…ない。


paper weight


しかたがないので小学生の時、父親からもらった文鎮を載せてみよう。

「うっわー、きれい」と人生の初期に感じた物なのだ。うーん。ポップだね。





できればきれいごと

turtle


ブログを始めてみようと思いました。


日常でどろどろとうんざりするようなことが多発してくそ面白くもない毎日を送るくらいなら、美しいもの、楽しいことを書き連ねて少しは憂さを晴らすのもよいのではないかと思い立った次第でございます。


もし何かの機会があってどなたかのお目に触れ、何かしらのコメントをいただけるような事態が発生しましたら、大海に漂う板に空いた穴に何百年に一度水面に出てくる亀(違ったっけ)の顔がすっぽり入るほど、これはこれは有難いお話ではあります。


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