お義母さん、、貴女が目じりを下げ、優しい眼差しで見つめていてくれた孫は、49歳と45歳に成りました。
お義母さんの祥月命日が、昭和59年10月12日早朝、、、🙏
毎年、、仏壇の前に座り眼を閉じると、当時の辛さが甦り涙がとまりません、、。
お義母さんとの出会いは、私が19歳、呉服屋の店員をしていた頃に、お客さんとして、よく来てくれていました、、、
私がお義母さんに初めて、お茶を出した、、その時に言われた言葉、、、
「○○ちゃんの入れてくれたお茶は美味しいね~」と、、
そんな褒め言葉をもらった私は、最もっと!美味しいお茶を入れてあげようと思いました、、、。
その内、、お義母さんから、家業が建築業、、所謂、大工さんで、
5人の子供がいて、末っ子の息子だけが結婚してないから、結婚してやってくれない?、、と、、😳
いきなりそんなことを言われて返事に困る私に、、お店の奥さんは、「○○ちゃん、このお義母さんだったら、きっと大事にしてくれると思うから、私は良いと思うよ」、、、と。
それから何度もお店に来ては、お願いだと頭を下げるお義母さんに、、、お見合いといったかたちで、何度かグループ交際をし、早くに父親を癌で亡くして悲しかったこと等、、、
お義母さんが女手ひとつで頑張って子供を育ててきたので、親孝行したいと言う、、、
優しい孝行息子なンだなァ~と、、思って結婚を決心したわけで、、、。
ところが、、、結婚式の日から夫になった、その人は別人のような、行動、発言、、、そう、、
アルコールを呑むと豹変してしまい、暴れ、暴言を吐く、「酒乱」だったのです、、、😰
始めは、物に当り散らしていたのが、私が止めようすると、暴力で殴る蹴る、、、😰
それは長女が生まれてからも続きました、、、。
その時には、さすがに、お義母さんに助けを求めました、、
「弱い女、子供に手をあげるとはなんてことするんだ⁉️」と、私には優しいお義母さんが、自分の息子に激怒しなければならない、、、
その時のお義母さんの気持ちを考えると、辛かったンだろうと思う、、、😔
毎日、お酒を記憶が無くなるまで呑み、暴れて、疲れ切って死んだように眠る、、、
次の日は、全く、自分が何を言ったか、何をしたかを覚えてない、、、😤
最初の頃は、部屋の中がグチャグチャになったのを片付けていましたが、お義母さんに、「自分がやったことを見せてやりなさい」と、言ったと同時に、感極まって、泣きながら私に謝るお義母さん、、ふたりで泣きました、、、。
お酒を呑まない時間は、借りてきたネコのようになる、、、
その時が私がホッとする時間でもありました、、、。
その繰り返しで18年間なんとか、お義母さんが居て支えになってくれたお蔭で踏ん張ってこれましたが、、、
昭和59年10月12日早朝、、天国へ、、、最期迄、私に謝り続けたお義母さんは、一生懸命に子供を育ててきた、優しくもあり、強い人でした、、、
そんなお義母さんも胃癌には勝てませんでした、、、。
不思議なことに、兄嫁と私とで、交代で付き添いをしていましたが、初めて兄嫁が交代の時間になっても来ないため、疲れて起きれないのだろうと、朝まで頑張ろうと、、、
思ったと同時に、喉が乾いてることに気づき、付き添いを始めて、病室で、お茶を飲んだ、、
その数分後に兄嫁が、「寝坊しちゃったよごめん」と、、、。
家に着いたと同時に、兄嫁からの電話に、もしかして、、、
「○○○さんが帰って直ぐに息を引き取ったの」と言う、、
お義母さんと、兄嫁は水と油の関係、、何年も気持ちが交わることがなかった、、
兄嫁は、それでも、お義母さんの看病をしなければいけないことが、きっと、辛かったと思う、、
お義母さんの意識がある時に、、
「○○○には、面倒見てもらいたくない」と、意地をはる😮💨
それでも、亡くなった日に、私が長時間付き添うことになったけれど、兄嫁が寝坊してでも病室に来て、お義母さんの最期を看取ったことに成るわけで、、
それが、お義母さんの粋な計らいだったのではないかと思う🙏
お義母さん!、、、私は貴女が、天国へ帰って逝った72歳に近づいてきました、、
でも、、、まだ、呼ばないで下さいね🙇
貴女の曾孫が成長するまでは、、、。