2018年2月上旬、Twitterをはじめとしてインターネット上では、NHK教育テレビで放送されている「あたしおかあさんだから」という曲の歌詞について、盛大に炎上している。

歌詞の全容については歌詞検索サイト等を参照してもらうとして、この炎上について自分なりに思うことがあり、それが文字数制限のあるTwitterでは書ききれないので、何年ぶりかにブログ記事をしたためてみようと思い至った。

 


まず思うのは、作品の精度としての問題。
はじめてこの歌詞を目にした時すぐ思い浮かんだのは、「似てるな」という感想だった。
Twitterでも書いたけど、このブログ
https://ameblo.jp/licolily/entry-12140029379.html
に、内容がとても酷似しているのだ。

パクりだ!と言い切る事はできない。とても怪しいとは思うけど。
ただ、もしパクりだとしたならば、元ネタより劣る仕上がりなのがお粗末すぎる。また、パクりでなく奇跡的な偶然の一致なのであれば、残念だけどこの歌詞よりも先に、もっと優れた作品が世に発表されているので、結果的に救いの余地がない。
申し訳ないけれど、作品の完成度としてはとても褒められたものではないという事だけはハッキリ言える。

 


ただ、それとは別に思うことがもう一つ。
ネットでの炎上については、僕は、批判する側を否定的な思いで見ている。
というのも、Twitterに流れてくる批判的なコメントの大半が、「主語が入れ替わってる」とか「その言い方は聞く人の立場によっては失礼にあたる」といった、歌詞の具体的な内容を指摘するものばかりなんだけれど、そもそも「詞」に対してそういった指摘をするのは不毛であり無意味なのだ。

 


詞とは元来、少ない言葉で様々な世界を表現するものであり、矛盾や破綻があって当然で、時にはそういった矛盾や破綻すらも表現の手法として扱われる事もある。

 

(もちろん「あたしおかあさんだから」が、意図的にそれらの手法を演出しているかどうかについては疑問が残るが、それでも、批判を正当化する事はできないと思う)

 

受け取る側が、その矛盾や言葉の足らない部分に自分なりの思いを投影し、想像をふくらませる「言葉あそび」が、詞なのだ。
科学論文や法的文書ならば、矛盾や破綻があっては困るし存分に指摘する必要があるけれど、そうではない「言葉あそび」に対してそれらの批判を投げる事のほうが、知性に欠ける行為じゃないかな…と思っている。

知性を意味する「インテリジェンス」の語源は、ラテン語のinter『行間』とlego『読む』からなると言う。

行間を読む力こそが知性なのだ。

 

今回の炎上では、一部に独自の想像力で作品に対する感想を述べている人もいるけれど、その多くが悪意に満ちた解釈をしている事も残念だったりもする。

好意的にとらえれば、「母親の苦労」を表現したいという意図は容易に受け取れるはずなのに。

(ただし繰り返しになるけれど、それでも作品の完成度としては弱い。そこは間違いない。)

 

「詞に対する批判」という話題でいえば、
かつてマツコ・デラックスが、某女性歌手の書く詞と、それに共感する若い女性たちに対して痛烈な批判をしたのを思い出す。
こちらの批判は、大いに納得のいくものだった。
以下に一部引用する。

あんな単純な詞をどう解釈しろというのよ。どこに心の機微があるの?
それを自分なりの言葉に代えて表現することこそが、作詞活動じゃないの?
あのボキャブラリーでよく歌詞なんか書こうと思ったものね。
あんな三歳児でもわかるようなフレーズじゃないと、
今の若い子たちは共感できないの?そんなに想像力がなくなっているの?
あの稚拙な歌詞を見せられて、「小学生の読書感想文じゃないんだぞ」ってツッコミすらできないの?
でも、彼女だけが問題じゃない。こんな薄っぺらい歌詞を、何の疑いもなく支持してしまっている
女子高生たちの精神構造もわからないのよ。
与えられたものを、何も考えずにそのまま受け入れているだけ。
だから、あんな詞に対して「そうだよね。わかるぅ。」ってなるのね。



ハッキリと、わかりやすく、正確に。
そんな言葉でないと、理解できない人が増えてきているのかもしれない。

作品に対しての感じ方は人それぞれなので、不愉快に感じる人もいるだろうし、Twitterでそういった感想を書くことも自由。僕はそれを否定しない。
なので僕も僕なりに、「あたしおかあさんだから」の炎上騒動に対して感じたことを、
SNSで繋がっている人たちに向けて伝えてみたいと思って記事にしてみた。
もちろん、この意見に対する反論も拒絶はしない。
ただ、できればそれは、飲みながらあーだこーだと話したいかな、とも思う。
よければどなたか、一緒に飲みながら語りませんか(笑)