ヤマケンの今日の日記と似たような内容になってしまったが、こちらはネガティブな側面が強い。愚痴が満載なので一応注意。
なぜ今の大学に進学したかと聞かれたら、教育学の勉強をしたかったからというのが近い。その中にはもちろん、教師になりたいなという気持ちもあった。いわゆる旧帝大の教育学部は教員養成ではなく「教育学」という学問を学ぶ学部だ。それゆえ教員になる人はあまりいない(もちろん、免許は取れるが)。しかもどれも文系学部であり、理系からのアプローチに興味があった自分はそれが学べて、なおかつ理科教員免許を取れる広大に入ったというのが一番近い理由だろうか(とか言いつつ、ぶっちゃけ、自分が理系だったからそういう理由付けをしているというのが一番正しい。文系科目ができないから理系に行ったし、高2の段階で倫理を習っていたとしたら間違いなく文系に行っていた)。
とはいえ、教育について学べば学ぶほど(1年次の学びなんてたかが知れているが)教育に対して失望していき、だから日本の教育は衰退していくんだなと感じてしまう。未だに「教師は聖職者」であるとの思想は強く、生徒のために朝早くから夜遅くまで働き、なんでも仕事をこなす人が「正義」であり「良い先生」とされている。最近では、埼玉県で教員の残業代についての訴訟が起こった。教材研究は自主的な仕事であり、授業準備は5分が妥当であるとの判決が下されて「ああやっぱりな」と思ってしまった。教師は決して聖職者ではない。こんなんだから、現場の教員は悲鳴を上げ、人員不足になる。肝心の授業では「主体的・対話的で深い学び」が重要だ、アクティブラーニングを実践すべきだと文部科学省は謳っている。ところが、いざ現場で行われる主体的な授業とやらの多くは教員が理想とする答えがあらかじめ用意され、議論をしているとみせかけて、できる子が答えを共有していくだけのまったく中身のないものばかりである。こんなもので生徒の自主性が育まれるわけがない。そのくせ、本来自主性が育まれるはずの部活動や生徒会活動はコロナ禍をいいことに縮小されていった。学生の本分は「勉強」であるが、「学問」ではない。机に向かってペンを走らせる座学も、課外活動を通して得られる経験も等しく勉強でありどちらも重要である。教員になりたかったのは、2,30年前の時代だったんだなと自分の中での結論が出てしまってから一向に大学での勉強への興味が薄れていった。
教員になる道がほぼなくなってしまった今、一般企業への就職を考えているわけだが、教育学部出身と言うとどの企業でも「なんで教師にならなかったの?」と聞かれる。それならば法学部出身の人に弁護士や検察官にならなかった理由を聞くべきだし、文学部出身の人に作家にならなかった理由を聞くべきである。冗談だが、こういう学部に対しての偏見が未だに残っているのが気に食わない。「教育学って知ってる?」と聞き返したくなる。大学は本来自分が学びたいところに行くはずなのに就活では大学で学んだことがどう生かされるかに比重が置かれる。「すぐ役立つことはすぐ役立たなくなる」という言葉があるように、世の中にはすぐに社会に生かされない学問は山ほどある。日本は基礎研究を疎かにしているがゆえ、有能な科学者は海外へ行きノーベル賞受賞が遠のいてる。就活でも、やっぱりこういうところに悪い意味での日本らしさの片鱗が見えているのだなと思う。
もはや日記ではなくただの愚痴になってしまった。文句を言ったところでどうしようもないし、結局は配られたカードで勝負するしかないのだ。教育学部に失望しきった今、転学部や編入も考えたが来年は大学祭に本腰を入れるため現実的に厳しいものとなる。教員免許は就活に失敗したときのために、せめて高校だけでも取っておこうと思っていたが、古岡の偉い人が口酸っぱく言っていた「迷った時は困難な道に進め」という言葉が頭を離れない。中学の免許を取るには介護等体験(だるい)もやらなければならないし大学祭準備ともろに被るがこの言葉を信じてやっぱり中高両方取ってみようかなと考えている。もし、就活に失敗したら教員になればいいし、教員になれなかったらYoutuberになればいいだけの話である。人生は意外とチョロいかもしれない。