果たせなかった開拓-失われた集落を追って-
BGM♪Beyond the light♪岩代太郎
果てしなく広がる「無人の荒野」。道北幌加内町「蕗の台(ふきのだい)」。北海道には珍しく「アイヌ語地名」のない地域です。「開拓前」の蕗が群生していた風景が地名の由来になっています。
ここは先住民族のアイヌの人々でさえも足を踏み入れなかった「辺境の地」。しかし、このような「人里離れた地」にも「人々が暮らしていた時代」がありました。

戦後の開拓事業から始まった
戦後の「食糧不足」を救済するために始まった「緊急開拓事業」。日本政府は希望者を募り、多くの人を「開拓者」として北海道に送りこみました。開拓者たちは慣れない北国で一から「農業」に取り組み「食糧増産」に励むことになったのです。この事業によって昭和20年代、北海道では「未開の地」にいくつもの集落が誕生しました。今回、紹介する「蕗の台」(ふきのだい)もその開拓事業によって生まれた町です。
息づき始めた山間の原野
-室蘭市より日鋼開拓団の入植-
室蘭市の「日鋼軍需工場」は戦後、武器や兵器の生産を止めたため大多数の工員を「解雇」する必要がありました。その工員たちの中で農業に転向する者を募り組織されたのが「日鋼開拓団」でした。「昭和22年」開拓団のうち30戸余りが「蕗の台」に入植。こうして「山間の辺地」に多いときで「200人以上」の人が暮らすようになりました。

【昭和35年発行の地形図 地図上の■印が建物】
家屋は駅周辺に密集しているのがわかります。その北側には「学校」・「神社」もあってそれなりの規模の「集落」を形成していたようです。
「日本の鉄道1-懐かしき日本の原風景-」より
完全な「無人地帯」となってから既に40年。しかも蕗の台は「短命に終わった」集落だったので、その「記録」を見つけるのは極めて困難でした。しかし、次のDVDには「昭和30年代」の蕗の台の様子が収められているのです。おそらく、この集落の「往時の姿」を収めた現存する「唯一の映像」でしょう。このDVDから「在りし日の」蕗の台の姿が見えてきました。

深い雪原に佇む「木造家屋」。玄関先にあるのは「スキー」と「かんじき」です。冬場は付近へ移動するにも欠かせないものだったのでしょう。


開拓団の家族。女性の背後に見えるのは「1960年(昭和35年)のカレンダー」。「お正月」を迎えた家族がストーブを囲みお餅を食べています。


壁に掛けられた「書き初め」。よく見ると「昭和三十六年元旦」とあります。上の「学生服のお兄さん」の作品なのかもしれません。先ほどのカレンダーは前年のものなのでしょう。
「もはや戦後ではない」と言われた昭和30年代。日本経済が急成長を迎え「白黒テレビ」・「洗濯機」・「冷蔵庫」が「三種の神器」として宣伝されました。しかし、この地区にはまだ電気も届かず「ランプ」で生活をしていました。


【ランプの灯りで受験勉強をする中学生】
入植の翌年に開拓費で建設された「蕗之台小学校」。最初の入学生は33人。開拓地の子どもたちが集い「文化の灯り」に火が点るようになりました。

「小学校があった場所」は「この辺り」らしいのですが、延々と「笹」が覆い尽くしているだけで、それらしいものは全く見当たりません。「一人きり」で自然に取り囲まれただ「心細さ」が募るだけでした。
蕗の台には駅もあって「駅長」が常勤し、乗降者も年間「10,000人」を超えるほどでした。「廃線ファン」が今でもこの駅跡を訪れていますが、現在は「更地」となり「駅の遺構」はほとんど何も残っていません。

【有人駅時代の蕗の台駅】
【昭和27年の時刻表。上り・下りとも1日3本がこの駅に停車していた。】
蕗の台駅の移り変わり -昭和35年から現在まで-
【昭和35年 駅周辺にはたくさんの民家が並んでいる。】
遠くに見えるのは駅前に残った「唯一の廃屋」。「最後の住民」が蕗の台を去ったのは「昭和46年」のことでした。その方の住居だったのではないでしょうか。

道路が整備されていない時代、ここは「陸の孤島」でした。「豪雪地帯」を走りぬく列車は集落と街をつなぐ「貴重な足」だったのです。
【昭和60年 駅舎は撤去されプレハブ小屋に代わっていた。】
蕗の台周辺の原野を走る列車。時は既に「平成元年」。「廃駅になる1年前」の風景です。
「2012年」駅の遺構は全てなくなり一帯は「自然に還って」いました。まるで最初から「何もなかった」かのようです。

今も残る蕗の台駅の遺構たち
ここは「旧駅前通り」。集落があった昭和30年代は「両側に建物」が建ち並んでいました。

駅跡周辺を歩くと足下から「ジャリジャリ」と音が聞こえてきました。
「確か、線路の下には小石が敷かれていたはず・・・。」ここは「線路跡」だったのです。
【線路に敷き詰められていたバラスト(小石)】

【地面に打ち付けられた木材。建物の「土台」なのだろうか?】
【線路は放置され草木に埋もれていた。】

【この白い陶器は電線の留め具】
【線路沿いにあったレバー】

【さび付いた枕木の杭】

【この木片は家屋の残骸だろうか】

【駅跡から少し歩くと見える蕗の台橋(昭和49年竣工)。集落が解散してから建てられた。】
果たせなかった開拓
大半が「農業未経験者」で占められた蕗の台の開拓団。「耕馬」も持たず「農機具」は不足。「開墾作業」は困難を極めました。「雪解け」は遅く「降霜」は早い高原地帯の気候は農業には適さず、せっかく育てた作物も「冷害」で「全滅」する有様だったのです。度重なる「凶作」は団員相互の「不信感」を招き「団結感」も次第に薄れていきました。農業では生計が成り立たず「離農者」は増える一方でした。

【地元紙で伝えられた開拓団の解散】
蕗の台へ入植した「日鋼開拓団」は昭和37年に「全戸離農」。集落は「解散」。入植からわずか15年目のことでした。こうして山間部から「人の生活」が消えていったのです。開拓団の解散と運命を共にして小学校も「閉校」を迎えました。
「離農直後」の風景。あちこちに散乱した「農具」や「木材」。この頃はまだ木造の「倉庫」と「家屋」がしっかりと残っていました。時の流れと共に全てが「自然倒壊」して跡形もなく「消え失せて」しまったのでしょう。

「住民」が去った後は風が吹きすさぶ「荒涼とした大地」へと戻っていきました。

「解散から約10年後」の様子。ほとんどの建物は姿を消してしまいました。残ったのは「2軒の家屋」のみ。集落解散後は「3世帯13人」がこの地に残って生活を続けていたと言われています。そして昭和46年「最後の住民」が去り、蕗の台は「無人地帯」となるのです。

【昭和45年発行の地形図】
【グーグルマップより現在の姿】
廃線後に「線路」も完全に「撤去」され「開拓前の原野」に戻っています。「線路跡」と「駅跡」がかろうじて確認できる程度です。

周囲を覆う「うっそうとした森林地帯」そして「深い山脈」。最も近い集落から「10km」以上も離れているため「蕗の台」一帯は「民家」どころか「廃屋」すら見当たらず「人の気配」も全くありません。
そして地名だけが残った
自然を貫く広大な「アスファルトの道路」。この道路沿いに「蕗の台」という町がありました。この道の先は「未開発」で「行き止まり」。通り行く車も「皆無」です。

「苦難の歳月」を重ね切り開いた集落は「解散」。人々は去り、建物は朽ちて、全てが自然に還っていきました。結局、広い荒野に残されたのは「地名」のみだったのです。「駅」・「線路」・「駅前の家屋」「学校」そして「ここで暮らしていた人々」・・・みんなどこへ行ってしまったのでしょう。