忘却の故郷へ送るレクイエム
BGMは岩代太郎♪Until Dying Day♪
-廃止された中越駅の今-
町境にある「険しい峠」「森林地帯」を貫く国道。「道路脇」に目をやると、草木の向こうに「小さなコンクリートの建物」が見えた。
イメージ 1
JR石北本線「中越駅(なかこし)。現在は「廃駅」となり「信号場」と呼ばれている。もちろん、停車する「列車」もなく「利用客」の姿もない。

「中越地区」は峠の中腹「標高500m付近」「山深い」ところにある。今は「住む人」はいない「無人地帯」。暮らしを支えた「林業が衰退」すると人々は次々に山を降りていった。
イメージ 2
「人の流れ」もなくなり「駅舎」の周りや「線路」沿いには「雑草」が茂っている。
-旧駅前を歩く-
駅周辺には「生活の跡」がわずかに残されていた。駅前にあった「商店」。草がからみつき「自然」に還ろうとしている。列車が「停車中」ここで「買い物」をした乗客も多かったらしい。イメージ 8
 
倒壊した家屋の「残骸」。草原に残ったトタンの「屋根」
イメージ 9
 
ここは「小学校」の跡地。林業で栄えた「昭和30年代」には80名」もの児童が通っていた。地域住民が力を尽くして建てた学校も今は「記念碑」が残されているのみ。閉校は「昭和48年」。林業の衰退と共に「過疎化」が始まった時期だった。
イメージ 10

-2枚の地形図から-
「昭和24年」
の中越地区の地形図。民家は「駅周辺」だけでなく「奥地」にまで点在している。明治44年の「入植計画」によって人々はこの「山間部」に移り住んだ。
イメージ 11
 
「昭和45年」の地形図。奥地にあった「民家」は消えて、家は全て「駅周辺」に集中している。「神社」「学校」もあり「小集落」を形成していた。当時は39世帯」「118人」がここで生活をしている。
イメージ 12
この頃「木工場」が撤退して「住民の流出」が始まっていた。林業が最盛期を迎えた「昭和30年代」500人」を超えた人口も、昭和40年代後半には急速に衰え「昭和55年」には37人」そして「昭和60年」ついに「0人」。中越は再び「無人の原野」に戻っていった

-開拓の足跡を追う-
この橋の向こうにも「開拓民」が家を構えて「生活」をしていた。彼らの出身地は「奈良県」「宮城県」「岐阜県」「青森県」と様々であった。厳しい気候の中で「離脱者」も多かったと聞く。
イメージ 14
 
笹薮の中から「コンクリートの門」が顔を出す。これも遠い昔の「生活の跡」だった。
イメージ 13
 
大正時代に開校した「尋常小学校」の跡地。当時は既に「全戸数27戸」「人口116人」に至り、開拓民の子息の「教育」「切実な問題」になっていた。「孤立した山村」にとって「小学校の開校」はまさに「念願」叶ってのことだった。
イメージ 3
これ以上は「集落の跡」は何も見つからなかった。僕は再び「駅舎」へと戻った。
-峠を越える列車-
廃駅となった「中越信号場」では列車は「脇目も振らず」に通り過ぎてゆく。足早に通過する「特急オホーツク」。この駅舎に気づく乗客はどれほどいるだろうか。
イメージ 4
 
峠の向こうの町へ向かう「特別快速きたみ」。運行は「1日1往復」のみ。「旭川駅 - 北見駅間」「約3時間20分」で結ぶ。イメージ 7
 
古い線路を彩る「ルピナス」。まるで「失われた町」に捧げられた「レクイエム」のようであった。
イメージ 5
 
イメージ 6
明治時代の「開拓」で始まり70年余り」でその「歴史の幕」を閉じた上川町「中越」。今は「駅舎」「記念碑」だけが残りそこに「人の暮らし」があったことを伝えている。