慰霊-激戦のペリリュー島



この度私は念願叶って先の太平洋戦争の激戦地. ペリリュー島を訪れることが出来ました。


日本軍の守備戦はサイパン. グアム. 硫黄島. 沖縄がよく知られていますが、[現]パラオ共和国のペリリュー島は今一つ認知度が低いように思います。しかし日本軍守備隊の定石であった水際作戦から、内陸に洞窟陣地を築いての徹底抗戦へと戦術が移りゆく分岐点を示す戦いでもあり、その戦略的有効性からその後の硫黄島. 沖縄戦に大きな影響を与えました。

また、日本軍守備隊約10500名(陸海軍将兵約7500名. 軍属3000名)のうち約10200名が戦死と文字通り全滅したのに対し、米軍はのべ兵員数48000名を投入して戦死者は約2300名ですが、戦傷者. PTSDを含む戦病者を合わせた死傷者はおよそ18000名とも言われており、日本軍のそれを大幅に上回るという「タワラ環礁の戦い」と並び犠牲率の極めて高い苦い戦歴となりました。

このように日米双方共に大きな犠牲を払い死闘を繰り広げた代表的な戦地なのです。


ペリリュー島は、グアムから南西に約1300kmに位置する大小200以上の美しい珊瑚礁の島々から成るパラオ共和国の最南端に近い小さな島です。その10km南西の最南端にアンガウル島があり、当時はこの2つの島に日本海軍の本格的な飛行場がありました。

当初米軍はフィリピンを奪回する為にこれら飛行場を押さえるべく上陸作戦が計画され実行されました。

しかしペリリューを制圧する前にフィリピン進攻の拠点確保のため同時進行していたインドネシアのモロタイ島に上陸して制圧し、飛行場を建設して一足先にレイテ島上陸の足掛かりとしました。これにより米国内からはペリリュー戦の意義を問われることになり、日本軍を上回る死傷者を出すという苦々しい戦歴と共に忘れ去られようとしています。


パラオと日本の関係はとても深く、日本は第1次世界大戦に参戦した際にこの地域を植民地としていたドイツに勝利し. 1920年に国際連盟から日本の委託統治領と認定されました。それから太平洋戦争終了時まで日本は主要な島のインフラ整備. 教育. 産業振興. 医療整備などに尽力したことで現地の方々とはたいへん良好な関係を築きました。現在もパラオ共和国は台湾と並んで親日国です。


私は近代戦争の歴史に強い関心があり、長らく史実や戦争体験記などの関連書物を探しては読み耽ることを繰り返すうちに、直近の太平洋戦争では敗戦した為なのか祖国に尽くして亡くなった将兵の多くが国に還ることなく手厚く葬られることもなく忘れ去られて南海の島々や海底で今なお眠っていることに心痛し、このまま風化させてはならないと考えるようになりました。特にペリリュー島は屈指の激戦地でありながら認知度が低いので是非とも知っていただきたいのです。


日本からはグアムで飛行機を乗り継ぎ、そこから約2時間でパラオ共和国のパラオ国際空港(バベルダオブ島)に到着します。

空港からは車に乗り換えて橋で繋がったコロール島経由でマラカル島まで行くと、程なくペリリュー島行きの船が発着する波止場に到着します。定期便は片道2時間半を要するし運行が不安定なので、現地のツアー会社で「ペリリュー島戦跡を巡るツアー」に申し込みスピードボートに乗って1時間少々で快適に移動することをお勧めします。島内もマイクロバスで移動しながら効率的に巡ることが出来ます。

何せリゾートホテルが多いコロール島. アラカベサン島. マラカル島に比べてペリリュー島は強烈に暑い上に地面はゴツゴツして歩き難く、処理されていない不発弾や地雷が無数に残っているので個人で訪れるのはやや危険で不安があるのです。


[写真]スピードボートで1時間. 右手にペリリュー島が見える。ここから先は珊瑚礁で座礁しやすいので速度を落として弧を描きながら島の北端に向かう。

[写真]信管を抜いて処理された不発弾


時は1944年9月15日、米海兵隊第1師団がこの島に上陸を開始し、73日間の死闘の末に11月27日. 日本軍守備隊司令部の玉砕をもって組織的な戦闘は終了しました。

生い茂るジャングルの至る所に破壊されて朽ち果てた軍用車輌や航空機が置き去りにされ、足下には不発弾や兵器の破片がゴロゴロと散乱して洞窟陣地内には鉄兜や飯盒. 食器までもが遺されていて..  今迄の人生においてこれ程までに鮮烈な印象とともに心に刻まれた体験は他にありません。


[写真]米海兵隊第1師団. 3個連隊の上陸地点-オレンジビーチ南端


これに先立ち同年6月.7月マリアナ諸島のサイパン. グアムといった絶対国防圏の要衝では米軍の上陸に対して徹底した水際作戦で白兵戦を挑み果敢に突撃を繰り返しましたが、圧倒的な火力の前に抵抗虚しく早期に陥落、B29爆撃機による本土空爆を許すことになりました。

そしてペリリュー島守備戦では戦術が変化し、敵上陸時の水際で叩く作戦に固執せず、前線の海岸陣地. 一歩引いての内陸陣地. 最後の拠点として山岳地帯の複雑な洞窟陣地と段階的に戦う言わば島全体を要塞として徹底抗戦する陣容を計画的に構築していました。


緒戦の水際では、日本軍守備隊は引き付けての猛攻で反撃を開始し瞬く間に双方に甚大な被害を出しました。米軍は水陸両用トラックで将兵を海岸に輸送する堅実な上陸方法を採用しましたが橋頭堡を築くのにかなり難儀し、片や日本軍守備隊の海岸. 内陸陣地は壊滅に近い損害を被り先頭を切った士官の大半が戦死して命令系統が麻痺してしまい、早い段階で後退せざるを得なく山岳地帯に築いた堅牢な洞窟陣地に篭って徹底抗戦の構えとなりました。

予め極力無闇な突撃による消耗を避けて持久戦に持ち込むよう全軍に指令が出されており、限られた兵員と武器弾薬を節約しながら局面ごとに極めて正確な射撃と砲撃を加えて米海兵隊を苦しめました。

特に戦車に対する棒地雷突撃や塹壕に銃剣一つで忍び寄る夜襲は恐ろしい挺身攻撃ですが、陸軍の通常戦法の一つとして中国東北部の任地の頃から訓練していたそうです。

その後の硫黄島. 沖縄戦は更に洞窟を利用した複郭陣地の構築に重点を置いて徹底抗戦に備えたことで、日本軍は持久戦をよく持ち堪え一方の米軍は予想外の大苦戦を強いられて多くの死傷者を出しました。

初めから上陸部隊を水際の弱点で攻撃せずに容易に上陸させ、洞窟陣地のある内陸深くに誘い込む作戦は決して勝利する為の作戦ではありません。しかし敵が本土に近付くのを極力遅らせる為に前線の守備隊に決死の持久戦を命じて相手に少しでも長く損害を強いて時間を稼ぎ、本土決戦に備えていたか又は降伏の条件を引き出すために模索していたのかもしれません。戦争はあまりにも非情です。


[写真]米海兵隊-水陸両用上陸艇[アムトラック]

[写真]ベテランガイドの元自衛官Hさん-情熱と使命感をもって懇切丁寧に説明してくれました. 日本陸軍95式軽戦車


戦況が劣勢に転じてからの守備戦はほぼ制空権と制海権を獲られて補給の見込みもなくなり、米軍の上陸前には必ず徹底的な空爆と艦砲射撃で地上にあるものは全て破壊され焦土化する程の猛攻撃に晒されて、何処の戦地でも多勢に無勢の大苦戦を強いられたと戦記などから伺い知りました。

米軍は上陸後は前線部隊が進撃を阻まれれば通信で援護を頼み、空爆に砲撃に艦砲射撃にと猛烈に攻撃してくるため守備隊の苦労は測り知れないものがありました。


[写真]零式艦上戦闘機52型 操縦席


[写真]燃え尽きて岩肌露わになった山岳地帯. ここを中心に洞窟陣地が構築された。


しかしながらペリリュー島に於いては、予め陸軍第14師団を主力とする精鋭揃いで守備を固め、武器弾薬. 食料. 水が極端に不足しながらも練度の高い有効打と挺身攻撃をもって、同じく精鋭で鳴らした米第1海兵師団を消耗戦の末に完全に退けて米陸軍第81歩兵師団に交代せしめた健闘は誇らしく思います。

最後は弾薬尽きて陥落しましたが、今回実際にペリリューの地で米軍が上陸したオレンジビーチ、旧飛行場と日本軍総司令部跡、峻険な尾根が入り組む複郭陣地の一つ. 大山と順に案内していただいて感じたことがありました。


[写真]日本軍総司令部跡


それはこの灼熱の地で洞窟陣地に立て篭もって持久戦を継続する作戦が如何に厳しく困難なことか、生還を期さない守備戦で昼夜を問わず動ける者は出撃を繰り返し、武器. 弾薬. 食糧が尽き水源を奪われても尚戦い続けた驚異的な粘りは、敗れはしましたが敵が戦慄するほどの凄まじい気迫を示したに相違ないということです。


[写真]峻険な山岳地帯の洞窟陣地に無数にある出入り口. カモフラージュされて見えない処が多数ある

[写真]洞窟内部-ほぼ当時のまま


私個人の考えですが、このように環太平洋の島々の守備戦を戦った将兵の決死の覚悟と凄まじい敢闘のおかげで今の日本国が存続していることに間違いはないと思っています。

なのでペリリュー島戦跡ツアーに参加して、散華された英霊に祈りを捧げ感謝の気持ちを伝えることができて感無量です。


今後もジャングルは益々生い茂り、貴重な戦跡の遺留品は徐々に朽ち果てていくでしょう。ありがたいことにパラオ共和国政府は戦跡の全てを保護し手入れをしてくれていますが、最近ここペリリュー島と南西のアンガウル島で米軍が旧飛行場の整備拡大工事を始めており、おびただしい数の重機と兵舎を目の当たりにして底知れぬ不安を覚えました。いつ何時軍事機密を理由に入島が困難になるかもしれないのです。

この島にはまだ祖国に還らぬ8000柱以上の英霊が眠っています。遺骨の多くは山岳地帯の洞窟陣地内で出入り口を塞がれて捜索には困難を極めているそうです。この先、今まで通り慰霊に訪れたり遺骨の回収が支障なく出来得ることを願います。               


[写真]日本軍守備隊 - 終焉の地

[写真] 石碑

「この島を訪れるあらゆる国からの旅人よ、この島の守備戦で全滅した日本軍兵士が如何に勇敢に愛国的に戦ったかを知りたまえ」

太平洋艦隊司令長官 チェスター・ニミッツ



[おわりに]

かれら日本軍将兵が崇高な精神に基づく自己犠牲により護ろうとした祖国日本は、今やかつての高い民度と秩序を失い我欲に走る国民が蔓延るようになり退廃しつつあります。

また、国を守る法制度になっておらず日米安全保障条約という幻想に惚けて国防を軽視し再検討する気力もないように見受けます。

私はこの現状に抵抗して、古来育んできた日本の高潔な伝統文化と民族の誇りを何としても取り戻さなければならないと考え、先ずは祖国の為に戦い散って逝った英霊を慰霊することから始めました。近代に於ける戦争の歴史を正視して為すべき事を為すつもりです。