アジアから見た大東亜戦争 2005年12月7日 日本政策研究センター

◆白人の有色人種支配の終焉

大東亜戦争はやむを得ざる自存自衛の戦いであったが、人種偏見にもとづいて日本を圧殺せんとするアメリカに対する戦いは、とりも直さず、欧米の有色人種への植民地支配に対する戦いにほかならなかった。わが国は緒戦においてフィリピン、マレー・シンガポール、ビルマ、香港、インドネシアに進攻し、アメリカ、イギリス、オランダに完勝、米英蘭の植民地支配を打破り、昭和十八年、ビルマ、フィリピンを独立させ、またインドネシアに近い将来(昭和二十年)の独立を約束した。大東亜戦争の果した決定的役割につき、イギリスの歴史家クリストファ・ソーンはこうのべている。

「真珠湾事件に続く半年の間に、日本軍は西側諸国に対して連戦連勝の輝かしい戦果をおさめた。その政治的影響はその後の敗戦によって消し去られることはなく、アジアの状況は決して旧に復することはなかった」

「インドでは南アジアや東南アジアの他の地域同様、日本の緒戦における圧倒的勝利に人々は大きな感銘を受けた。……その後日本はアジアの新しい家来たちの忠誠を確保することはできなかったにもかかわらず、民族主義的な自覚と政治運動を大いに促進し、それらは結局白人支配の復活を阻止することになった。……戦時中インドで過ごしたあるフランス人は、日本は戦場では敗れたがこのインドではすでに永続的な勝利を勝ち得たのだと述べたのであった」

「一九四一―四五年の戦争における日本の行動は、一九〇四―五年の日露戦争でのロシアに対する勝利よりもアジアにおける西欧の衰退を早めることになった」

「日本は敗北したとはいえ、アジアにおける西欧帝国の終焉を早めた」

「大方の日本人にとっては、極東における西欧諸国の略奪的な帝国主義的存在と、日本がアジアの近隣地域を本質的に防衛のために領有するのとでは、両者ははっきりと区別すべきものである」

ソーンは客観的態度を以て極めて公正に大東亜戦争の本質を捉えその世界史的意義を認めている。日本に対して「侵略国」とも「植民地支配」とも一言も言っていない。敵国人であった彼の見方は日本の学者にはない説得力がある。

◆インドの親日―なぜかくも深厚なのか

アジア諸国は大東亜戦争をいかに見たか。まずインドである。インドが世界有数の親日国であることを多くの日本人は知らない。インド人が一番親愛する国は日本である。インド人は日露戦争によって覚醒、この時から民族独立運動が始まった。ガンジー、ネルー、チャンドラ・ボースというインド独立の元勲はみな日露戦争に驚嘆感激して立上るのである。

昭和十七年二月、日本軍はシンガポールを陥落、イギリス軍が降伏した。このとき日本軍の手により英軍内のインド兵をもってインド国民軍が結成された。翌年亡命先のドイツからチャンドラ・ボースが日本を経てシンガポールにゆき、昭和十八年十月、自由インド仮政府が樹立された。ボースは仮政府首相及びインド国民軍総帥に就任した。仮政府は直ちに米英に宣戦布告、翌年、インド国民軍は日本軍とともにインド東北部のインパールに向って進撃した。チャンドラ・ボースは日本が米英に対して立上ったこの時こそ、インド独立の唯一無二の好機として蹶起したのである。

インド国民軍は日本軍とともに奮戦したが日印両軍は惨敗を喫した。終戦直後、ボースは非業の死を遂げた。祖国独立の大業は挫折したかにみえた。戦後イギリスはインドへの支配を強化するために、インド国民軍将兵を国家反逆の罪を以て処罰せんとした。ところがガンジー、ネルーに率られたインド人が立上り、イギリス官憲の大弾圧に抗し多数の死傷者を出しつゝ二年間不屈の反英闘争を展開、昭和二十二年八月、ついに独立をかちとるのである。

日本軍によるマレー・シンガポール攻略によるイギリス軍の敗北、及びこれによってもたらされたインド国民軍並びに自由インド仮政府の結成、そしてチャンドラ・ボースによる対英戦の断行が結局インドの独立を導いたのである。即ち大東亜戦争なくしてインドの独立は決してありえなかった。それゆえインド人は日本及び日本人に対し今なお深厚なる感謝と敬愛の念を抱き続けているのである。

平成九年、インド独立五十年の記念式典の際、在郷軍人会のヤダハ代表は出席した加瀬英明氏(日印親善協会会長)に対し、インド国民の感謝の言葉を靖国神社に奉納してほしいと要請した。次の文章である。

「われわれインド国民軍将兵は、インドを解放するために共に戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対してもっとも深甚なる敬意を表します。インド国民は大義のために生命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまで決して忘れません。我々はこの勇士たちの霊を慰め御冥福をお祈り申し上げます」

またレイキ法学博士はインパール作戦にふれ、「太陽が空を輝かし、月光が大地をうるおし、満天に星が瞬く限り、インド国民は日本国民への恩義を忘れない」とのべた。

インド人にとってインド国民軍が日本軍と生死をともにして戦ったインパール作戦こそ、インドの歴史に永遠に刻みこまれる祖国独立、民族解放の聖なる戦いであった。それゆえインド国民はインド独立第一の英雄として、ガンジーやネルーではなくチャンドラ・ボースをあげ、深く尊崇してやまないのである。

日本人としてボースとともにもう一人忘れ難い人物がパール判事である。パールは東京裁判において唯一人、日本の無罪を判決した。彼は東京裁判を全く不正不当の「儀式化された復讐」と断じた。

パールもまた日露戦争に感激した一人である。東京裁判後何度も来日、日本と日本人をこよなく愛し続けた。最後の来日(昭和四十一年)のとき、「私はこの日本を愛している。この日本に私の骨を埋めたい」とまでのべた。

この様なインド及びインド人だから、昭和天皇が崩御されたとき、インド政府は日本より一日多い三日間の喪に服した。インドの独立をもたらした大東亜戦争の最高指導者に対して、インドは国家あげて、深甚なる弔意を捧げたのである。

◆大東亜戦争はアジア人の為の戦い

オランダによる三百数十年間の植民地支配から解放されたインドネシア人の日本への敬愛の念もインドに劣らぬものがある。「独立できた要素の第一は、日本軍が植民地政治体制を粉砕したことです。植民地体制の粉砕なくして独立はありえません。第二は日本軍の猛烈な軍事訓練です。オランダ軍はやってくれませんでしたし、我々自身がやろうと思ってもできるものではありません。日本軍時代の三年半でインドネシア人はすっかり変ったが、こんなに変ったことをイギリス軍やオランダ軍はわかっていませんでした」(アブドル・ハリス・ナスチオン元国防相)

「大東亜戦争が起きるまでアジアは長い植民地体制下に苦悶していました。そのためアジアは衰えるばかりでした。アジアは愚かになるばかりでした。だからアジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。日本軍は有言実行でした。その第一は植民地政治の粉砕です。第二は祖国防衛義勇軍を組織したことです。第三はインドネシア語の普及です。第四はイスラムの団結をはかったことです。第五はスカルノやハッタをはじめとした行政官の猛訓練です。第六は稲作及び工業技術の向上です」(モハメッド・ナチール元首相)

祖国防衛義勇軍として独立戦争に活躍したサンパス陸軍少将はいう。

「日本軍がやった基本的なことは、すなわち最も大きな貢献は、我々に独立心をかきたててくれたことだ。そして厳しい訓練を我々に課してくれたことだ。日本人はインドネシア人と同じ様に苦労し、同じ様に汗を流し、同じ様に笑いながら、我々に対して独立とは何かどういう苦労をして勝ちとるものかを教えてくれた。これはいかに感謝しても感謝しすぎることはない。これは祖国防衛義勇軍の訓練を受けた人が残らず感じていることだ」

同じく義勇軍出身のブルキフ・ルビス陸軍大佐はいう。

「大東亜戦争が契機となってアジアからアフリカまで独立しました。日本にだけ犠牲を払わせてすまないと思います。大東亜戦争中の日本軍政の特徴は、魂を持ってきてくれたことです」

いずれも大東亜戦争の甚大なる意義を語って余りある。有色人種への人種偏見を一掃し植民地支配を打破する為には、日本が軍事的に立上るしかなかった。日本以外にそれができる民族がないからである。それゆえ大東亜戦争は「アジア人の戦争を日本が代表して敢行したもの」であった。

人種偏見をもたぬ日本人が「インドネシア人と同じ様に苦労し、同じ様に汗を流し、同じ様に笑いながら」接したことが、オランダ人に奴隷扱いされたことに比していかに大きな喜びであったことであろう。日本人はインドネシアに魂を持ちこみ「独立心をかきたて」たのである。そしてオランダに対する独立戦争において約二千人の日本軍人が踏み留まり共に戦い約半数が戦死した。この日本と日本人の貢献はインドネシアの歴史と国民の魂に永久に刻印されるものである。

◆ビルマ、マレーシア、タイの人々の感謝

開戦直後、ビルマ(現ミャンマー)独立義勇軍が結成されたが、その生みの親が鈴木敬司大佐である。鈴木はビルマ人から「雷帝」という尊称をもって敬愛された。鈴木が任終えて帰国する時、ビルマ義勇軍は鈴木に感謝状を送りその功績を称えた。

「父親がその子供に教えさとすごとく、その子供を守るがごとく雷将軍(鈴木)は真の情愛をもって、ビルマ独立軍の兵士全員を教え、全員をかばい、全員のことに心を砕いてくれた。ビルマ人はその老若男女を問わず、このことを忘れることは決してない。ビルマのためにこのような骨折りをした雷将軍はいまや日本に帰らんとしている。我らはビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人を末長くなつかしむ。将軍のビルマ国への貢献もいつまでも感謝される。たとえ世界が亡ぶともわれらの感謝の気持が亡ぶことはない」

戦後昭和五十六年、ビルマ政府は鈴木大佐はじめ七人の日本人にビルマ最高の栄誉「オン・サン賞」を授与した。

戦時中、マレー南方特別留学生として来日、陸軍士官学校で学び戦後上下院議員をつとめたノンチックはこうのべている。

「私たちアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍は永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。永い間眠っていた自分たちの祖国を自分たちの国にしようという心に目醒めさせてくれたのです。私たちはマレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍をみたとき、今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかもマレーシアを占領した日本軍は日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ青少年の教育を行ってくれたのです。私もあの時マレーの一少年としてアジア民族の戦勝に興奮し、日本人から教育と訓練を受けた一人です」

タイはアジアでの数少ない独立国として日本の同盟国だったが、元首相ククリフト・プラモードは昭和三十年こう語った。

「日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは一体誰のおかげであるか。それは身を殺して仁を為した日本というお母さんがあった為である。十二月八日は我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない」

有色人種中、日本だけが真正の独立国だった。日本だけが欧米列強に対峙し相戦う力と意志をもっていた。それゆえ日露戦争を行い大東亜戦争に立上った。先には勝ち後には敗れたが、日本は非西洋中ただ一国この戦争を敢行、数百年にわたる欧米の植民地支配を打破し終焉せしめ、人種差別を撤廃させ、有色民族の解放独立を導き、人種的平等の世界を築き上げたのである。

それゆえアジア諸国民始め全有色民族が、欧米主導の世界史を根本から変えた日本に対して今なお畏敬と親愛の念を強く抱き続けているのである。例外はこうした日本のアジア救済の事業を妨害し続けた欧米依存のシナとシナに隷属した朝鮮半島の国家だけである。(完)

フィリピン独立記念日ポスター
1995年、フィリピン、マニラ市内に張られたフィリピン共和国独立記念日のポスター

IndiaChandra.jpg
インドのオールドデリー市街、チャンドラ・ボース公園の「インド独立義勇軍(INA)と日本兵たち」の像(日の丸もある)

ビルマ独立勲章

ある日本人の学校教師が、戦後、マレーシアを訪れました。かつて日本軍は大東亜戦争(太平洋戦争)中に残虐非道を尽くした、と思っていた彼は、マレーシアにおける日本軍の活動を調査しようと思ったのです。彼は、マレーシアの上院議員ラジャー・ノンチックに会って言いました。

「日本軍はマレー人を虐殺したに違いありません。その事実を調べにきました」。

すると、ノンチック議員は驚いて言ったのです。「日本軍はマレー人を一人も殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。それに、日本の将兵も血を流しました」。

『教科書が教えない歴史』(扶桑社文庫)より

参考サイト
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi01.htm



(コメント)
大東亜戦争の際の国家元首であった昭和天皇が崩御し、大葬の礼が行われた際、史上最多の164ヶ国からの参列者があったが、その多くは大東亜戦争後に独立した新興国であり、日本が大東亜戦争で果たした偉大に役割に敬意を払い、昭和天皇に心からの弔意を表した国も多いと聞いている。

大東亜戦争については、今までの記事の中で、歴史的な意義も含めて様々なことを書いてきたが、確実に言えることは、あの当時の日本人でなければ戦えない戦争だったということだろうか。おかしな人間も中にはいただろうが、全体としては今の日本人より義を尊び、人情に厚く勇敢で徳があり、祖国を愛していた勤勉で美しい日本人達だった。そういう人達が300万人以上犠牲になって、ようやく白人至上主義が打破され、植民地が独立し、世界に人種平等が訪れたわけである。

戦勝国の白人達にしてみれば永遠に隠しておきたい事実だろうが、国内の反日マスコミや日教組の洗脳を打ち破り、ようやくここ10年くらいでネット上で認知されてきた印象がある。しかし、マスコミや学校教育を反日勢力に押さえられているので、真実が広がっていくのは緩やかであり、そもそも歴史の真実に興味がある人間より、AKBの選挙に興味のある人間の方が多いという悲しい現実もある。日本人が目覚めるのは一体いつになるのか、愚痴の一つも言いたくなろうというものだ。

大東亜戦争の成果である、人種平等、植民地の独立と引き換えに、戦後の日本人は自虐史観で洗脳され、じわじわ愚民化されていったわけだが、戦後60年以上経っても英霊の遺骨の多くは戦地に残されたままであり、そのことを疑問に思ったり悔しく思ったりする人間は、現在の日本では少数派である。それどころか国のために戦ってくれた先人に感謝すらせず、靖国神社や護国神社に参拝することすらしない人間が大部分である。皇室にも興味がなく、政治にすら関心がない多くの日本人を 日本やアジアのために力を尽くした英霊達はどのような思いで見ているのだろうか。「あんなのは日本人じゃない」という声が今にも聞こえてきそうな気がするのは自分だけではないだろう。

物も言えず遺骨となって戦地の草葉の陰から祖国を想っている英霊達のことを考えると、なんともいたたまれない気持ちになり、最近は英霊の慰霊のために毎朝般若心経を唱えているが、この程度のことしか出来ない自分の至らなさを詫びるしかない。東南アジアやインドなどで日本兵が讃えられていることがせめてもの救いだが、日本の現状の狂いっぷりを眺めると、何ともやりきれない気持ちにならざるを得ない。

客観的に見て、民主党への政権交代自体が狂気の産物だが、鳩山由紀夫や菅直人などは、昔なら問答無用で射殺されているようなレベルの首相であり、こんな連中を持ち上げた上に、日本人を洗脳する目的で韓国アゲアゲ報道をしている反日テレビ局の姿を見るたびに、悪夢でも見ているような気分になる。夢かマトリックスなら早く目覚めて欲しいものだが、テレビ画面の中に映っている奇妙な生物達は、残念ながらどうも現実に存在しているようである。

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日本の近代史は、侵略、罪悪の連続だと中国朝鮮の人々は言う。
いや、そう歴史教育されている。日本人も同様の歴史教育を受け、多くの日本人は、嫌悪感もあって歴史忌避に陥っている。
では、日本が、その“侵略”をしなかったら、東アジアは平和で発展したのだろうか?

東亜の近代史を紐解いて簡単に検証してみます。

仮想:もし、日本が日清戦争を戦わなければ。

朝鮮国は清国によって完全に属国化されたでしょう。しかしその後、南進を続けるロシアによって、外蒙古・内蒙古・満洲・朝鮮がその勢力下に収められる結果となる。清国は、南部及び華中、揚子江中下流域、チベットなどをフランス、イギリスに、山東半島及び周辺地域をドイツよって半植民地化される。日本はイギリス、ロシア、アメリカ、フランス、ドイツなどに分割植民地とされる。皇室はイギリス王室の係累と化す。日本は陸軍、海軍も持てない。すると造船・航空機産業が興らないから、自動車産業の発展もあり得ない。

拠点となった日本が無いことになるので、孫文の三民主義・辛亥革命も起こらない。清国は蝕まれたまま、欧米の半植民地状態が定着していく。

日露戦争がないのでロシア革命も起こらない。従って共産主義ソビエトは存在しない。トルコはロシア領となり、中東戦争(ロシア対米英??)が起きる。白人同士の講和成立。

大東亜戦争もないから、インド、インドシナ、インドネシアの独立もない。アフリカの植民地状態はそのまま継続する。欧米の世界(植民地)支配は21世紀にまでおよぶ。

朝鮮半島に餓死者が発生し、人口が半減する。満洲は完全にロシア領となり、中国人は農奴として扱われるようになる。東洋人奴隷が重宝され欧米に広がる。

白人の世界制覇は完了し、19世紀植民地時代は20世紀に入り安定化する。20世紀半ば、中国人日本人朝鮮人が結託して、反欧米運動が起こるが、圧倒的な武力によって速やかに平定される。

考えてみれば簡単なことで、欧米白人支配の対極に小国日本があり、日本の文化的武力的抵抗があったればこそ、今日のアジア・アフリカの姿があるのだと思います。この小国日本の抵抗さえなければ、白人の植民地支配体制は確固としたものとなり完成されたことでしょう。

この報復的意味から、白人の有色人種支配を糊塗隠蔽するため東京裁判の日本極悪人化が計られたのでしょう。

ロシアの国境線は、万里の長城、対馬・津軽海峡となったことでしょう。そしてアジアの発展は、100年以上遅れる事態に陥ったことでしょう。欧米支配の植民地体制はますます強固なものとなり、中国などは僅かに四川省ぐらいを確保して存続し得た....でしょうか?

わたしが言いたいことは、日清日露戦争を日本が戦わなければ、そして勝利しなければ、19世紀の欧米植民地支配体制が完全に定着して、現在のような地球文明の全般的発達はなかったであろうということです。

名著・林房雄「大東亜戦争肯定論」は、幕末からの東亜百年戦争を説き起こしています。ここでは、明治の日清日露から簡単に検証してみました。日清日露における日本の戦いと勝利がなければ、途中経過はともかく、現在、「ロシアの国境線は、万里の長城、対馬・津軽海峡」は、間違いなかったであろうと思います。

(管理人のコメント)

日本は幕末の開国から、欧米の植民地主義、白人による有色人種奴隷支配と戦い続けてきたのであり、日本という国がもし、日清、日露戦争で敗北していたならば、白人が神として君臨する、有色人種が完全に奴隷化された世界が実現されていたに違いない。近代化の遅れていた清はともかく、ロシアは当時の日本の国力の20倍以上の国力を有する超大国であり、日露戦争の勝利は奇跡以外の何物でもなかった。当時、日本は周囲を自国の10倍~20倍以上の国力を持つ列強に囲まれ、軍国化する以外、独立を守る手段はなかったのである。当時の世界情勢を知らず、自虐史観を正義と信じる浅はかな人間達が、軍国主義を悪と非難しているに過ぎないのだ。

大航海時代の幕開けとなった、南アフリカ南端の喜望峰の発見は、アジアにとって絶望をもたらすものでしかなく、その後、白人達が凶悪な欲望にまかせてアジアを侵略し尽くし、大東亜戦争が起きるまで、長い間、開放されなかったのは周知の事実である。大東亜戦争も、植民地解放の観点から見れば絶妙のタイミングで起こっており、核兵器が欧米列強で完全に実用化された後では、大東亜戦争は起こりえず、したがって、アジア・アフリカの植民地独立も起きなかったであろうことが予想される。つまり、偶然の産物ではあったが、大東亜戦争開戦は植民地を解放するためにはギリギリのタイミングの開戦だったのである。



頭に花畑の咲いた白人ヒッピー達はラブアンドピースと得意げにアピールするが、現在の世界秩序をもたらしたのは彼らとそのお仲間達ではなく、大東亜戦争を戦い抜き、その死後も悪のレッテルを貼られて、今も延々と反日勢力によって侮辱され続けている、日本の先人達であることを忘れてはならないと思う。


欧米列強のアジア侵略はいかにして行われたか

15世紀の大航海時代で世界に進出した西欧列強は、やがてアジア全域を植民地化した。彼ら白人帝国主義国はいかなる侵略行為を行ったのか。

1 掠奪と搾取 350年にわたりインドネシアの香辛料など独占的に収奪したオランダは、19世紀に入ると、強制的栽培制度を導入し耕地の5分の1(実際は半分)にわたって、コーヒー・砂糖・藍などのヨーロッパ市場向け作物を強制栽培させた。これによる巨額な収益は国家予算の3分の1を占めた。インドシナ半島東部を支配したフランスは、無主の土地に没収令を出して、申告のない土地を収奪しフランス人らに無償で与えたため、農地を奪われた農民は小作人からさらに債務奴隷へと没落した。イギリスは、インドの綿織物輸入で利益を上げていたが、産業革命で自国の綿製品が盛んになると、インドの綿製品には課税しイギリスの綿製品には免税して逆輸入させてしまった。これによりインドの紡績業は大打撃を受け、織物都市のダッカの人口は激減した。また、茶の輸入により入超になったイギリスは、中国へ流出した多額の銀を取り戻すためにインドにけし栽培を強制し、大量のアヘンを中国に密輸して暴利を得た。財政悪化を招いた清はアヘンの密輸を取り締まったため、イギリスはこれを口実に戦争を仕掛け、香港を租借した。これが悪名高いアヘン戦争である。


2 貧困と飢餓 列強は、アジアの都市・沿岸地方における貿易で利潤を得るのが目的であったが、18世紀後半の産業革命を迎えると、原料の供給地と製品の市場として広範囲な植民地を直接支配するようになった。土地の集約的耕作と輸出用換金作物の大規模栽培は、白人の資本投下によるプランティションで行われたが、それは無料に近い土地で低廉な労働力を使い、莫大な収益をあげるものがほとんどであった。そして、マレーのゴム、インドの綿花というように、特定の一次商品を宗主国に輸出し、完成消費財を輸入するという経済構造に変質したため、従来の自給型農業が決定的な変化を被った。その結果、水田の減少や失業者の増加により、飢饉に際して多くの犠牲者を出す地域が現れた。ジャワでは人口33万の町が12万に減少したり、インドではイギリスの支配ののち飢饉が増加し、1877年の南インドの飢饉では5百万人が死亡し、1943年での犠牲者はベンガル地方だけで340万にも達した。


3 複合民族化 大規模農業の急速な開発によって、大量の労働者を必要とした列強宗主国は、大量の移民政策をとった。インドネシアでは、中国人苦人(クーリー)が1860年の20万人から1930年の123万人と6倍に増加。マレー半島では、鉱山労働者に中国人、ゴム園労働者にインド・タミール人が大量に移入された。これらの移入アジア人は、現地社会と融合せず固有の習慣や宗教を保持したため、複合社会ができあがってしまった。また、植民統治では、この移入アジア人を金融と流通機構に登用したため、上部に白人支配層が、次に華僑やインド人などの外来アジア人が、最も人口の多い現地民が最下層の地位におかれるという階層社会を造った。この大量の移民政策の結果、例えば、マレーシアでは、マレー人52%、華僑39%、インド人12%という複合民族国家が形成され、戦後も深刻な民族対立の原因となっている。


4 弾圧と虐殺 列強は植民地支配への反乱については、きびしい弾圧と虐殺でのぞんだ。 イギリスは、1857年に起こったセポイの反乱に徹底的な弾圧を加えた。当時のイギリスの『タイムズ』紙は「キリスト教会の破壊1に対し100のヒンドゥー寺院をたたきこわせ。白人殺害1に対し、老若男女を問わず1000人の暴徒を死刑にせよ』と報復を訴えた。事実、イギリスは、みせしめのため捕虜の集団銃撃や焼き殺しなど、珂責ない弾圧と虐殺を行った。 フランスのベトナム支配は、監獄をつくることから始まるといわれた。1940年のメコン河流域の住民蜂起では、6000人のベトナム人が逮捕され、サイゴンの監獄は満員となり多くの囚人が死亡した。1945年、ホーチミン国家主席が読み上げた独立宣言にその怒りが込められている。「…彼らは学校より多くの監獄を建て、容赦なく愛国者を殺害し、蜂起を血の川に溺れさせた。…」 アメリカとて例外ではない。米西戦争に勝ったアメリカは、フィリピンに戦争を仕掛けて8万人の陸軍部隊を送り込み、全域を制圧した。また、1906年、アメリカ式の土地制度などに反発したイスラム系住民の反乱の時は、米軍は彼らの砦を包囲し、戦闘員から女子供を含めて6百人全員を皆殺しにしてしまった。


5 愚民政策  列強のアジア支配の例として、オランダの350年間にわたるインドネシア支配の特徴を、ASEANセンターの中島慎三郎理事長は次のように分析している。 ?オランダの安全と利害に関係ない限り放任し、人民を文盲のままにして各地の土侯(サルタン)を使って間接統治した。徹底した愚民政策をしいたのである。 ?才智にたけたアンボン人とミナハサ人とバタック人を訓練し、キリスト教に改宗させて優遇し、警察官や軍人として登用。そして、オランダとインドネシアの混血児を作り中間階級として使い、民族の分断を策した。 ?社会の流通経済は華僑にやらせ、経済搾取によるインドネシア国民の憤慨と憎悪は華僑に集まるよう仕向けた。 ?インドネシア人の団結を恐れ、一切の集会や団体行動を禁止した。3人のインドネシア人が立ち話することすら許されず、禁を犯せば反乱罪で処罰された。 ?インドネシア国民の統一を阻止すべく、全国各地域で用いられていた320の種族語をそのままにして、一つの標準語にまとめる企ては絶対に許さなかった。



列強に侵略にあえぐアジア

清(中国)
 1662年以降、中国を支配した満州族の清は、東インド会社が経営するインドとの貿易を開いていたが、イギリスとのアヘン戦争やアロー戦争の敗北を契機に列強に不平等条約を締結させられ、外国の圧力を受けた。特に日清戦争の敗北後は、ロシア・イギリス・フランス・ドイツなどによって鉄道の敷設権や要地の租借権を奪われ、半ば植民地の状態となった。 朝鮮 14世紀に李氏が朝鮮半島を統一したが、17世紀に入ると清の攻撃を受けて服属した。欧米列強は鎖国を続ける朝鮮に開国をせまり、我が国も日朝修好条規を結び開国を進めたが、日清戦争によって宗主国の清に朝鮮の独立を認めさせた。その後ロシアが朝鮮を圧迫したが、日露戦争を経て、我が国が朝鮮の指導・監督権を獲得し、1910年、日本の領土(日韓併合)となった。



インド
 紀元前4世紀に統一国家の出現を見たインドは、16世紀にはムガル王朝が成立した。しかし、1600年にイギリスがインドに進出して乗インド会社を設立し、度重なる征服戦争を繰り返して全土を征服した。イギリスは、セポイの反乱の武力鎮圧後、1877年にムガル帝国を滅ぼして英領インド帝国を樹立。以後は直接統治を行い、苛酷な植民地経営を行った。 ミャンマー(旧ビルマ)  1044年にパガン王朝が全土を統一したが13世紀の元帝国の侵入後は小国に分裂し、やがてアラウンバヤ王朝が統一を達成した。17世紀以降、イギリスの乗インド会社と貿易を行っていたが、イギリスが三度にわたるミャンマー(ビルマ)戦争でこれを征服し、1886年に全土をインド帝国に併合し、植民地化した。            



インドネシア
 14世紀にはジャワ島を中心にマジャバヒト王国が勢力を拡大したが、17世紀にはマタラム王国などイスラム系の群小国家が成立した。17紀よりポルトガル・オランダ・イギリスなどが進出し、1818年にオランダがマタラム王国を滅ぼして植民地にし、19世紀末までにスマトラ.ボルネオを支配し、1904年にオランダ領東インドをつくって植民地体制を確立した。



マレーシア
 15世紀にマラッカ王国がにポルトガルに支配され、17世紀にはオランダの支配を受けた。18世紀後半に入るとイギリスが進出し、イギリスは、ペナン・シンガポール・マラッカを海峡植民地として直接統治し、さらに北ボルネオ・マライ半島への支配を強化して1895年にマライ連邦を結成した。



インドシナ三国
 中国支配にあったベトナムは、10世紀に独立政権が誕生したが、19世紀の阮朝がフランスの軍事介入を受け、侵攻された。ベトナムの宗主権を主張する清がフランスと戦った(清仏戦争)が敗れたため、1885年フランスの保護国となった。カンボジアは、9世紀のアンコール朝がカンボジア最盛期の王朝となったが、14世紀以降は周辺国に侵入を受け衰還し、ベトナムがフランスの植民地にされると1863年にフランスの保護国とされた。ラオスも、14世紀半ばにランサン王国が最初の統一国家となったが、1893年にフランスの保護国となった。フランスは、このインドシナ3国を併合して仏領インドシナ連邦(仏印)を形成した。



フィリピン
 7千余りの島嶼をもつこの地域は、マレー・インドシナ系の民族が、イスラム教を信仰していたが、16世紀にマゼラン率いるスペイン遠征隊が侵入。武力でルソン島を平定したスペインは1571年に植民地とし、皇太子フィリップにちなみここをフィリピンと命名した。1898年には米西戦卑でスペインに勝ったアメリカがフィリピンの植民統治を行い、徹底した英語とキリスト教の普及を押し付けた。



タ イ
 13世紀のスコータイ王朝が最初に民族統一国家をつくり、14世紀から4百年続いたアユタヤ王朝を経て、1782年に今日のバンコク王朝が創設された。19世紀から20世紀にかけてイギリスとフランスからの進攻を受けてラオス・カンボジア・マレーにある領土を取られたが、インドシナ半島の英仏両国の緩衝国家として独立を保った。



引用元 http://www.nipponkaigi.org/1700-rekishi/1720-02oubeiajia.html



欧米の野蛮で狡猾な植民地支配の歴史をつぶさに研究すれば、日本の大東亜戦争が人種解放戦争の側面を持っていたことを小学生でも理解出来るだろう。

少なくとも欧米諸国に日本を非難する資格はなく、中韓についてはなおさらである。

欧米の植民地軍を追い出した後の日本軍の軍政下で、東南アジアの諸国は様々な軍組織や、社会組織を結成し、日本軍の指導の下、軍事訓練、教育訓練を受け、独立の基礎を築き、日本の敗戦後、再び植民地経営をしようと上陸してきた欧米の植民地軍に対抗し、独立を獲得したことはれっきとした史実である。

反日勢力は姑息な手段で捏造やでっち上げを繰り返し、日本を悪に仕立て上げるのに躍起だが、真実が明らかになれば、日本が悪ではないことは、明白な不動の事実として歴史に刻まれるに違いない。

確かに国家戦略的にはあの戦争を戦ったことは日本にとっては誤りだったかもしれないが、日本が戦わなければ、欧米の植民地支配は現在も平然と続いていただろう。上

記のような白人達による有色人種への野蛮な奴隷支配が現在も続いていたら....と考えると背筋が寒くなるのは自分だけであろうか?