FaceBook記事より

どうして中国と戦争に至ったのか?

そもそも中国(支那)は、満州の地を領土と見なしておりませんでした。
日露戦争で勝利した日本は特別権益より満州へ進出し、社会インフラを整備し発展していきました。実はこれを境に米国とイギリスは、日本がヨーロッパ諸国への脅威になると見なすようになりました。

1937年7月7日に北京郊外の盧溝橋で演習中の日本軍に対して発砲事件が起きます。この事件で日中双方の軍の衝突が起きますが直ちに和解が成立します。

ところがその後も日本に対しての攻撃が止まず、中国人による日本人大量虐殺のあった通州事件など様々な事件が中国側(国民党)によって引き起こされます。

そのころ、蒋介石率いる国民党と対立していた現在の共産党(毛沢東)は権力を掌中にするため、国民党を日本と戦わせる戦略をとり、これで日中戦争が起きました。

この共産党の戦略とは、満州に駐屯する関東軍に民間に化けて侵入し、武器弾薬を搾取し、その成果を新聞を使い中国人民に勝利を訴え、支持を増やしていきます。

今もつづく、嘘で塗り固めることを厭わない共産党のプロパガンダ戦略です。

共産党は国際世論へこのプロパガンダを発し、日中戦争の原因が日本であるかのような風潮にしてしまいます。

これで、中国と日本との間で戦争状態が深刻になります。
米英は中国側に立って日本に対して経済封鎖をして来ました。
この経済封鎖をその国の頭文字を取ってABCD包囲網(アメリカAmerica、イギリスBritain、支那China、オランダDutch)と言います。

日本としてはこの状態では経済が立ち行かず、石油資源等を求めて東南アジアへ向かいますが、そこは英米蘭の植民地であったからそれらの国と戦争になりました。

それでも日本は和平を求めて船津梅次郎氏を上海に派遣し和平交渉をしようとしました。
ところがその直前に海軍の大山大尉が何者かによって惨殺され、さらに上海の日本人租界地を中国軍が4万人もの大軍で包囲します。

上海は国際都市で日本人ばかりでなく英国人やフランス人も租界地がありましたが、中国軍は日本人だけを狙って来たのです。

和平交渉は中断、そして包囲を完了した中国軍は日本人に対して戦闘を開始して来たのです。
守る日本軍はかき集めても五千人。とても太刀打ちできる状況にはなく、政府は救援の派兵を送ります。
この事件を第二次上海事変と呼び、これを契機に日本と中国は完全戦争状態に突入しました。

このように中国(共産党)は自らが戦争を仕掛けたにも関わらずに世界に向かっては日本軍が侵略したと宣伝。

米国議会では中国国民党総統蒋介石の夫人、宋美齢がチャイナ服姿で演説。
その演出効果は抜群で米国議会の賛同を得ます。その結果がABCD包囲網に繋がったのです。

日米戦争が始まる時に駐米中国大使だった胡適という人物がいます。
この人が支那事変が始まる以前の昭和10年に発表した論文に「日本を中国から放逐するには世界の二大強国である米ソの力を借りなければならない。

その為にはまず中国自身が正面から日本と対峙する必要がある。
そして連戦連敗し続ける事で世界の同情が中国に集まり、やがて米ソが日本に参戦して日本が滅びる。」と書いています。

日米交渉大詰めの段階で米国のハル長官は日本の妥協案を受け入れようと一旦は思いましたが、その事をこの胡適に相談したところ胡適は断固反対すると憤ったと言います。

日露戦争以降は米国とイギリスは日本を脅威だと思っていましたが、米国は植民地政策で支那への進出が遅れていたという背景があり、さらに米国議会にはコミンテルン(ソ連共産党スパイ)がおり、ソ連の指示で秘密工作を展開していました。

そして米国全体が反日へと傾き、米国議会は日本への経済制裁に踏み切ります。
そうして我が国は世界大戦へ巻き込まれていくのです。