荒れた海だ。老人は暖炉の前の布張りの肘掛け椅子に深く埋もれるように座っていた。冷えた身体にここはあまりにも気持ちが良かった。外はあんなにも冷え切り、荒れている。部屋は暖かい。老人は窓の外の豪雨を、海を見つめる。夜明けにはおさまりそうだ。しかしその瞳はもっとずっと先の、遥か彼方を見据えていた。部屋の奥で老女がゆっくりと歩き回っている。夕食の片付けをしているのだろう。暖炉の火が赤々と賑やかに爆ぜ、悪戯に老人の小さな丸い眼鏡にチラチラと光を反射させていた。
彼は多くの幸福を知っていた。悲しみに溺れることを知らない幸福は実に幸せだろう。しかしどうだろう、と彼は思う。悲しみを知らない幸福は果たして真の幸福と言えるだろうか。恐らく、幼く小さい無邪気な天使にとってはそれが最良の幸福といえよう。しかしそうもいかないのだ。天使は成長し、悪魔にもなり得る。そうだ、最初は誰しもが天使だったのだ。どうして道を間違えよう。神に召されるまま良心に従い生きるか、正しい人間が作った平和を守り規則に従い生きるか。前者も後者も同様に善にも偽善にもなり得る。結局は何を信じるかだ。老人は眉間に皺を寄せる。しかし人間なのだ。それだけではいられない。悲しみに耐えられるだけの幸福を持ち合わせておらず憎しみに駆られ悪魔へと化す者もいるだろう。だとしたら幸福には愛情が必要なのか。必ずじゃないにしろ、きっとそうだろう。愛された悪魔より愛された天使の方がよく似合う。これが彼の持論だった。雨が激しく窓を打つ。小さな老女は奥の椅子に腰掛け編み物に集中している。親愛なる夫に贈るつもりなのだ。老人はそれに気付いていた。それに―、彼は黙想を続ける。盗みを許さない規則は善であるか。もちろん規則を信ずるのであればそれが善であり得る。しかし規則によって飢えに苦しむ者の犯罪の何を悪党と呼べよう。彼らはいつも身内を救いたい想いで一杯だったはないか!踏み台の上に立って行われる善の何が正解と言えよう!彼らにとって踏み台は誰でも良いのだ。自分がその上に立ち易い姿形をしてさえいれば。懇願する善なる罪人を彼らは振り返りもしない。しかしそれではあまりにも規則を否定しすぎている。社会を救うのは規則なのだ。しかし‥
老女が燭台の辺りで何が手を動かし、間もなくして灯が消えた。老女がおやすみなさいと声をかける。老人は皺の刻まれた白い頬の筋肉を巧みに操り持ち上げて儚かなぎこちない笑顔を作る。老女は眉根を寄せた。―この数日の間に彼に何が起こったというのだろう?彼女はゆっくり寝室にあがった。まぶたの奥の黒い瞳はかつての輝きを失っていた。微笑み方などこの数日の内に忘れてしまっていた。
彼は幸福を探していた。それが癖でもあった。悲しみもまた同じように存在することも知っていた。時に悲しみは幸福を包み込み幸福さえも悲しみに染めていく。その変化を恐れ彼は次第に悲しみと幸福の境目を見失っていった。幸福もまた悲しみであり、悲しみもまた同じように幸福であるべきなのだ。彼は考え続けた。数日前に遭遇したあの男のすべてを知りたかった。彼にもう一度会えば答が見つかると思ったのだ。男は名乗ったが老人は聞いていなかった。名など老人にとってどうでもよいことだった。彼は男にかつての自分を見た。
年代物の大きな掛け時計が時刻を告げる。もうとっくに零時を過ぎて、暖炉の火も消えかかっていた。考え事に耽っているとよくあることだった。彼はもう何年も幸福について考えてきたが、結局納得のいく答は見つからなかった。幸福を知ることは己自身を知ることだ。老人には既に解りきったことだった。明日の朝、あの男がこの家を訪ねてくる。話していくうちにきっと答えは導き出せるだろう‥二人で見つけるのだ。彼には言いようのない自信があった。
最後の火が静かに音を立てて消えた頃、彼は肘掛け椅子にもたれたまま眠ってしまっていた。もうすぐ夜明けだ。いつの間にか雨はやみ、海は穏やかだった。辺りは静寂に包まれていた。
老人は名をダンといった。若き頃のダンは痩せ細ってこそいたが溢れるような笑顔で周囲を魅了し、いつも輪の中心にいた。父親は逃亡し、家はひどく貧困であった。母親も働いてはいたが幼い娘がいるため大した稼ぎは出来なかった。彼は悲しむ素振りなど微塵も見せなかった。勉学に励み、睡眠時間を削って金を稼ぎ、名門校に通った。素晴らしい職に就いて家族を豊かにしてやりたかった。しかし運命はいつも厳しい。幼い妹が飢えに苦しみ耐えられなくなった。ダンの学費の為に苦しんだのだ。彼は学問を捨て、重労働にしがみつく。家族は飢えに泣き叫ぶ。ついにダンは盗みを働く。周囲は彼を嫌い、遠ざけた。盗みは悪人である。投獄は避けられなかった。
彼は実に不幸であった。幸福という海の内の、不幸という潮に引きずり込まれたのだ。いつでも不幸は幸福の内にあった。高く朗らかな笑い声はいつしか聞こえなくなり、今にも泣き出しそうな口元が微笑むことはなかった。微笑み方を忘れた瞳は強張り孤独を恐れていた。
虚ろなその姿は醜かった。話しかける者などいない。誰がそれを気に留めよう?誰がそれを咎められよう?誰がそれに火を灯せよう?彼は孤独であった。貧しさ故に、盗みを働いたのだ。彼は善なる罪人であった。そうあるべきなのだ。良心に従い、常に考え、想い、自らを奮わせていた。
穏やかな海に日が昇る。ドアをノックするか細い音に老人は驚いて目を覚ました。昔の夢など見たくもなかった。しかし今ダンはドアの目の前に昔の自分を見ているのだ。