アマ俳優で職工サラリーマンて、ずるい生き方?ていうようなブログ

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昭和のど真ん中1961生まれ
アマ俳優歴42年
職工歴39年

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36年前のことである

上京してまもなく僕は、、

有楽町改札口前の「M]という

喫茶店で、アルバイトをしていた

 

そのときに、ガリ版刷りみたいな小冊子を100円くらいで、

「買ってくれ」と店に入ってきた人がいた

(この記憶は定かではないが)

 

当時、演劇やミュージカルの情報に飢えていた

僕は、迷わず飛びついた

 

確かに「ピア」には、情報はたくさんあった

しかし、演劇は、実際みてみないと

わからない

 

この「初日通信」は、初日に観たレビューを

くまなく掲載してくれる

田舎者の僕には、「目からうろこ」だった

 

でも、舞芸ミュージカル科は、夜間だったので

なかなか観たい舞台をみにいけなかった

 

その上ぼくは、1年半で帰郷したため

どちらかというと、山梨に帰ってから

これらのお芝居を見に行くことが多かった

 

上の「初日通信」は、本日「断捨離」して

生き残ったもの口笛

 

僕が実際にみたもの、僕らが上演料を払って、

演じたものなどだけを抜粋してみた

 

やはり、切なくなるキューン

 

でもやっぱり・・・

 

すっきりした爆弾

 

それは、なぜか?

 

あの頃の僕は、もういない・・・

 

今やってる演劇こそ、僕にとって

 

生きている時間を実感できるから

 

うまく伝わらないかもしれないが・・・

 

そんなことを考えている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎年のことだが、暮れはぎりぎりまで、仕事が忙しく

中小企業3K現場の大掃除は、まともにやれば

2日半はかかる

 

さらに毎年のように「断捨離」を開始していたのだが

いつも、中途半端で終了ガーン

だったてへぺろ

 

多くの人が、そうなのか知らないが、

自分の場合は、たいてい感傷的になって

モノに対する「ときめき」がなかなか

消えなかったのが、多分原因笑

 

だが、今年は、違う物申す

それは、なぜか?

 

来年が、定年という節目を迎える

さらに、今年は愛する人を二人も失った泣くうさぎ

 

哀しみに浸っている暇はないのだ

 

残りの人生のライフプランというまったくかすんでいたものが

少しずつだが姿を表してきている気がしている

 

それは本職のおいても、趣味の世界においても

そう爆笑

 

さて、本日も断捨離継続口笛

 

今年お世話になった方々

ありがとうございました

 

私は、大丈夫です

誰も、心配してないってか?

 

皆様よいお年を笑笑笑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

S先生は、約束通り、山梨のアトリエで待っていてくれた

 

そして、短い時間だったけど、時折

冗談を交えながらも、「ちょっと病気が

悪化して、入退院したばかりだ」と

笑いながら、話してくれた

 

僕等には、話すのもつらいこと

わかっていたよ

 

ただ、妻君には、なんとか聞き取れたようで

話をじっくり聞いたり、答えたりしている

 

僕には、まるで聞き取れなかったので、

縁側の窓の汚れが気になったので、

景色が見られるように、磨いてあげた

 

それでもつらそうだったので、二人とも先生と握手をして

「また来ます」早々に

引き上げることにした

 

その二日後だった

近くに住む、僕と先生の共通の友人から

「先生が天に召された」と連絡が来た

 

僕は、涙をこらえながらも、「先生、

僕も、精一杯生きていくから」と心に思った

 

「先生、四十年前、僕はプロの俳優になる夢が破れたとき、

とにかくひとつのことを続けていくことだよ」と

帰郷するときに、言ってくれたこと

覚えているかな?

 

僕は、この年になってはじめてそのことの

意味が、わかったよ

そして、先生と出会えた縁のおかげで、

いろんな縁を大事にして生きることを

信じて実践してきたよ

もちろん、演劇も42年目だけど、楽しくて仕方ない

 

僕は、先生の絵画教室には、いけなかったけど

きっと全国にちらばっている生徒さんたちにも

先生の愛が、伝わっていると思うよ

 

先生、僕もそっちに行くときは、

絵画教室開いて、待っていてよ

ありがとう先生、そしてさようなら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この夏の猛烈な暑さのせいで、土壌消毒が、うまくいったのと、

種まきの遅れが功を奏して、我が家の家庭菜園がすこぶる順調である

ハウス栽培は、小松菜、コカブ、ほうれん草だが、

9月後半の種まきがすべてうまくいった感じ

大根は、青首、赤大根、聖護院とも、順調

葉っぱだけだが(土の中はまだ不明滝汗

さて本題のイチゴはどうだろうお願い

昨年とくらべても、根も葉もかなり大きい

というわけで、昨年に引き続いて、

今年も、イチゴ苗欲しい方にお譲りします

右側の苗、家まで取りに来てくれる方限定で、

16日までに、ライン他でお願いします

種類は、毎年ランナーでつないでいるので、よくわからないが

甘いと思うよ

ではまたウインク

 

 

演劇「看護はひとつ 命の灯」無事終了しました

お忙しい中、観劇いただいた皆様、および敷島公民館文化ホールの

スタッフの皆さまありがとうございました

 

今回の公演は、最初にM先生から、1冊の本(平井とみじさんの自伝)

を回し読みすることから、スタートしました

 

僕は、先生の作成台本第1稿を読んで、やはり役者の視点で見てしまうので、

演劇的なシーンを抜粋してこんなメールを送りました

 

本編40ページ(上京)

見知らぬ男性(誰か二役で演じる)が、トメジ親子を淀橋の姉の家まで連れてきてくれて

突然いなくなる~トメジ「あの人にお礼を言わなくては」で、暗転

理由~亡くなった母が、青年をトメジの夢のために

出会わせてくれた気がするから(演劇的でおもしろい、下の震災時の大森さんとの

出会い(後述)も同じ理由)

 

*1稿11ページ17行目トミジ「私、東京に帰ります」のあと、関東大震災勃発

映像とサイレン効果音の中、舞台上に何名か「悲鳴」、「怒号」等演技力とNAで、

時代背景を観客にしめしたい

何人かは、けが人や死体の中に、トメジ一人だけ、生きている。そこへ、大森さん(二役)が現れ、

産婆さんへの道をつなぐ

本編64ページの会話で、65ページトメジ「本当にうれしいわ、お願いします」暗転

 

いずれも、採用されませんでしたが、第2部に関しては、

当て書きのM先生の真骨頂で、稽古中でも、シーンごとに

濃い演技(M先生の口癖)の火花が、バチバチ飛んでいて

稽古が進むたびに、役者のスキルが上がっていくのが

感じられて楽しかったです

 

ちなみに院長の私は、やりすぎて何度もダメ出し、でまくりでしたがウインク

 

今回は、看護にたずさわる方も多く観劇くださって

いたようです。私の母も、精一杯の治療をしていただき

幸せに送っていただきました

 

かさねて御礼申し上げます

ありがとうございました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8月の頭に、母の葬儀が終わってから、

なんとなく胸騒ぎがしていた

 

ラインをみると、既読さえ残っているが、何の

返信もない

すると・・・

突然9月の半ばに不在着信の足跡が・・

 

ちょっと、ドキドキしながら

かけ直すと、いつも通りの明るい声が、

少しでも心配かけないようにという心配りは相変わらず笑

 

「肺がんの末期で、他にも転移していると」

時折、咳も聞こえてきて、話をするのも苦しそうである

 

あまりにも、つらそうなので、

週末に稽古を休んで、細君と急遽

お見舞いに・・・

 

先生は、一回り小さくなっていて、酸素吸入しながら

「誰かが、俺のことみんなにしゃべっちゃったらしいんだよ」と

笑いながら言う

 

それで、お見舞いに来れば(県外からのほうが多い)、

何かお土産をと、自分の創った

大切な絵画や陶芸品をおしげもなくあげちゃうんだと

豪快に笑う

 

何より驚いたのは、自分の最期に入るお寺とお葬式やこの

アトリエも親友に譲って活用してもらうことまで

決まっていると教えてくれた

 

僕も、自分が最期の時、こんな風に明るく

最期を迎えられるだろうか自信がない滝汗

だけど、たったいまここにいられる幸せの時間を

少しでも伸ばしたいと言う気持ちも

けしてウソではなかった笑い泣き

 

 

帰り際、僕は握手をしながら、「また会いに来ます」といい、

年が僕より近い妻君には、玄関で立ったまま

僕等が見えなくなるまで

手を振ってくれていたという泣

 

訪問治療に来る先生も、「最期には

入院してもらいます」と言われている

と言っていたけど、うちの親父のように

「ここで死なせてくれ」と言うんじゃないかと

ちょっと、心配している笑

 

S先生、公演が終わったらすぐまた会いに行くから

必ず待っててください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕が一九歳の頃、地元の大学に2度すべって(この受験も

真剣ではなかったけど・・)、どういう風に

生きていこうか真剣に悩んだ時期があった

 

だけど悩めば悩むほど、答えは出て来なかった

それで、「とりあえず家をでること」

を目標にして、家の仕事(牛乳販売業)と

工場勤務をして、お金をためた

(当ブログのどこかにに詳細は書いてある)

上京に向けて、親を口説けなかったときのために

貯めた貯金だったが、時代の違いこそあれ、

両親が知り合ったのも、東京だったから、

父は特に喜んでくれていたようだ

母は、最後まで反対していたが・・・

 

上京して、最初に友達の紹介で知り合ったのが、S先生だった

画家であり、新宿で絵画教室も開いていた年上の先輩は

僕の、演劇に対する熱い気持ちをしっかり受け止めてくれて

よく飲みに誘ってくれたし、自身の個展にもよんでくれた

 

40年以上前のことだが、S先生とは、不思議なことに

僕が、道に迷うようなときとか、メンタルが落ちているときとかに

会うことが多かった

 

僕は早々と夢破れ、山梨に帰るときには、「演劇は続けるべきだ」と

肩を推してくれたし、実際山梨で自劇団の公演をしたときも、

連絡もなく観客席にいて、僕自身が涙ぐむこともあった

 

今回も、やはり突然のことだった

S先生は、10年前だったろうか、本人曰く終の住処を三富に

作った

ただ、やはり僕のような東京でも慕われていた生徒が

多くいらっしゃったようで、なかなか2拠点生活に区切りを

つけられないようだった

 

そして、本格的に山梨だけでの生活がはじまったのは

昨年の春だったと思う

先生は、ラインを送っても既読にはなるが、

どちらかと言えば、電話でくる

 

だから、今回も返信がなくともあまり気にしてなかった・・・

(その2)に続く

 

 

 

 

 

 

 

母が入院してから、やく一ヶ月半の間

T病院には、大変お世話になった

 

私も実際に医療の現場を目の当たりにして、本当に

身を削り落としてでも、戦い続ける医師や看護師の方々の

苦労にかける言葉がみつかりませんでした

 

この場を借りて、母の代わりに御礼申し上げます

そして、けして母の死を無駄にしないで、未来の医療に

生かしてください

母もきっとそれを望んでいたと思います

ありがとうございました

 

雨宮徹周

 

 

小学生だったころに、お祖父さんの葬儀の時に

仮葬場の煙突から、天に昇る白い煙を眺めていたのを

覚えていて、母の煙もみたいなと思い、外に出たけど、

「ゴーゴー」と唸るボイラーの音は聞こえるが

煙のようなものは、出てこない・・・

 

それでも、天気がよくて、空気も澄んでいるようで

よかった・・・

 

私の母が、亡くなりました

享年八九歳の人生でした

 

詳細は省きますが、介護施設で倒れて緊急入院、

検査の結果、心臓に3カ所の病がみつかり、

9時間に及ぶ大手術に挑んだ結果、

意識が戻ることはありませんでした

 

高齢のため、家族のほとんどが手術をすることに

反対しましたが、本人は、「先生を信じています」の

一点張り。「手術の動画はみられるの?」

なんてジョークを飛ばす余裕?まで滝汗

 

だから、誰もがICUから、笑顔で出てくるのを

信じて疑わなかった

 

だから・・・

 

生きているうちに伝えられなかった言葉

こんな形でこっぱずかしい

事を書くけど、許してください

 

母ちゃん

二二歳の時、バッグ一つで家を出た時

一度も後ろを振り返らなかったこと

赦してください

そして、僕を産んでくれて、立派に育ててもらったこと

本当に感謝しております

ありがとうございました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アマプル、イエローミニ、シュガープラム

来年に向けての、種取り用の3種に決定お祝い

 

最大の反省は、植えすぎと脇芽とりの不足

手前の中玉トマト(見えていないけど)の病気が、

あっという間に広がっていった

さらに、3匹の雀の集団(なんと、玄関にある塩まで

なめていく(猛暑だからね)が、甘みが増すとともに

奥のすずしい場所で喰い漁ったあとが見つかった

その食べかすが、連日右肩上がりにガーン

そこで、

遅っ!

でも、猛暑の前半は、けっこう朝起きるのが、楽しかった

そして、連休は

イチゴランナー切りと土壌消毒終了

ちなみに、アマプルは、一番タマワレが、少なかった

甘みとともに、おすすめです

ではまた