夏休みに入ってから、子供達に、パソコン占拠されてます(´0ノ`*)
長ーい期間なので、ちょっと、困りますね...
今日は、久しぶりです
教理から離れてみますと...老子やブッタや、ニーチェの言葉に、
思考壊死して、硬直したこころが、(喝入れられて)起動してくるように
感じられることありました
ニーチェの超訳から、思考の転換に役立った言葉のいくつか
<容易な人生を送りたいなら>
この人生を簡単に、そして安楽に過ごしていきたいというのか
だったら、常に群れてやまない人々の中に混じるがいい
そして、いつも群衆と一緒につるんで、ついには自分というものを
忘れ去っていきていくがいい
「力への意志」より
<組織をはみだす人>
みんなが、考える以上によく考えて、広い思考持つ人は、
組織や派閥に、属する人間としては、不向きだ。
なぜならば、そういう人は、いつの間にか、組織や党派の利害を超え
いっそう広く考えるようになっているからだ。
組織や派閥というものは、考えかたにおいても人を枠にはめておくのが、ふつうだ
それは、ドングリの集合体のようなものであるし、小魚の群れのようなものでもある。
考え方の問題で組織になじまなくなっても、自分だけがおかしいと思う必要などない。
それは、組織の狭い世界を超えた広い次元に達したということなのだから
「人間的な、あまりに人間的な」より
<恐怖心は自分の中から生まれる>
この世の悪の四分の三は、恐怖心から起きている
恐怖心を持っているから、体験したことのある多くの事柄について
なおまだ苦しんでいるのだ。それどころか、まだ体験していないことすら恐れ苦しんでいる
しかし、恐怖心の正体というのは、実は、自分の今のこころのありようなのだ
もちろん、おれは、自分でいかようにも変えることができる
自分自身なのだから
「陽光」より
<「~のために」行うことをやめる>
どれほどよいことに見えても、「~のために」行うことことは、卑しく貪欲なことだ
誰々のためにであろうとも、何々のためであろうとも、それが失敗したと思えるときには
相手、もしくは事情や何かのせいにする心が生まれるし、
うまくいったと思えるときには自分の手柄だとする慢心が生まれるからだ
つまりは自分のためにだけ行っているのだ
けれど、純粋に能動的な愛から行われるときには
「~のために」という言葉も考えもでてくることはない
「ツァラトゥストラはかく語りき」より
中でもいいなと思う言葉は、
<朝起きたら考えること>
一日をよいスタートで始めたいと思うなら、目覚めたときに
この一日の間に少なくとも一人の人に、少なくとも、
一つの喜びを与えてあげられないだろうかと思案することだ
その喜びは、ささやかなものでもかまわない。そして、何とかこの考えが
実現するように努めて一日を送ることだ
この習慣を多くの人が身につければ、自分だけが得したいという祈りよりも
ずっと、早く世の中を、変えていくことだろう
「人間的な、あまりに人間的な」より
ニーチェに傾倒している訳ではないのです
物事を色々な側面から見つめ直してみる事が、出来るようになったというか
思考の蘇生とでもいうことでしょうか
ニーチェは、反キリスト者で「神は、死んだ..」という言葉が、有名です
まだ、仏教の方が、現実的だと(^▽^;)
聖書の事もよくわかってなかったようですが、
キリストは、十字架にかかって始めて
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という解釈をしています
という言葉で、分かるように、死の間際に目覚めた!
み言葉では、どうだったかというと、少し違うけど、文字どうりの解釈で!?
キリストは、あの言葉を発してはならなかった
メシヤとして失敗した.. だけど、再臨のメシヤは違う云々~と教えられたなぁ
当時、聖書を暗記しているユダヤ人なら、「旧約聖書の詩篇22篇の出だし」とわかったはずだ
十字架の預言ともいえる内容が、綴られていて、最後は神への賛美で締めくくられている
私が、後年、遠藤周作の「イエス.キリスト」読んで、詩篇の事を、知った
あれ~キリスト教では、違うの?と思いつつ、疑問に対して、深く追求もしなかった
気付か無かったけれど思考を止めていたのだろう (・Θ・;)
、今日も読んで下さいましてありがとうございました