azim18のブログ

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 生きること自体に意味はないと思う。長生きするために生きているわけではないし、大半の人間は凡人で、いなかろうが世界は回っていく。だからこそ、自分の生きている時間をどのように使うのか、自分のために考えないといけないと思う。幸福の形は人それぞれだろうけど、生きるからには、幸福にならないといけない。「だらだらと惰性で続く物語は美しくない。きっとそれは人生も同じだ。」私がよく考える言葉だ。私は自分の死ぬタイミングを自分で決めたいと思っている。

 

 生後10000日は、27.4歳で達成されるらしい。最近、私はこれが人間の1回目の寿命のように思う。普通に生きていたら、27.4歳までに大体のことを経験できるだろう。子育てだけを除けば、その後の人生は今までの繰り返しな気する。それでも、この先も、この世界は生きるに値するのか。27.4歳は、ポケモンでいえば、チャンピオンを倒して、エンドロールが流れているあたりだろう。その後も、図鑑クリアやポケモンバトルの大会で遊ぶことはできる。でも、やる派とやらない派に別れるところだと思う。現実だと、世界の隅々まで冒険をやりこむか、子供を産みその子の体験を支えるか、の3択な気がする。そして、私はもういいかなという気持ちが最近ある。

 

 非常にシンプルな時間の使い方が一つある。自分の好きな人(性別問わず)と楽しく過ごすこと。生きるという行為の一つの大きな柱だと思う。1人が割と平気な自分でも、思い返せば、幸せな記憶は、好きな人といる時の記憶だ。そんな記憶を沢山集めることが人生の充実に繋がる。最も古典的な真理だと思う。結局は、安定した日々の退屈を幸せと呼ぶのだろう。

 

 けれど、自分の手元には、安定した日々の繰り返しすらなくて、孤独。結局はそんな単純な話に帰結してしまう。自分の好きな時間はなんだろう。この世界でやり残したことはないだろうか。なんて考えると、私は、日本の花火大会が好きだし、趣のある温泉街も好きだ。海外旅行に行ってみたいという希望がある。ただそのどれもが生きるのに決定的な強さを持たない。私が世界の端で、一人満足していても、どこか虚しいだけだ。

 

 年々人に心が動かなくなっているという危機感がある。非常に怖い兆しだと思う。新しく会うに対して、好きを抱くことも嫌いを抱くことも減っている。良さげな人は多いと思う。高校の時は、この人とずっと友達でいるだろうみたいな感覚があったが、最近はあまりない。人に強烈な嫌悪感を抱くことも少なくなった。どんな人とも、一定の交流を深めることができる。現代社会の構造にただ慣れただけなのか、感性が死んでいるのか、自分ではわからない。ただ、この人と一緒にいたいと強く思う機会が減っているのが、とても怖く思う。

 

 それと同時に自分が、他者から見て魅力的な存在かと聞かれたら、何も答えられないと思う。人と一緒にいるということは、人と話すことと同義だ。この人と会って何を話せるのか、この人の話し方は好きなのか、そこが肝だと思う。そう考えたときに、自分は何を話せるのだろうか。私の話し方は聞いていて心地よいだろうか。

 

 人は、世界のほとんどのことを知らないで死んでいくと思う。学問という意味でも、人生という意味でも。普通の人は、プロキシサーバーやデリバティブ取引なんて単語に触れる機会はないだろうし、大曲の花火を直接見たことある人も日本の中でも一握りだろう。逆に、自分の専門外のことはわからないし、メイクの話なんかは一生ついていけないと思う。本や映画は数えきれないほどあるし、世界196ヵ国を制覇するのはかなり難しい。年齢に比例した世界のことを知っていれたらいいなと思うし、それを話すことができたらいいなと思う。

 

 人の価値観を表す話題についても整理してみた。何の為に生まれて何をして生きるのか。何が君の幸せなのか。好きな時間はなに?お気に入りのものはある?暮らしのこだわりは?どんなことにお金を使っている?どんな人が好き?今楽しみにしていること。大切なもの。忘れられない思い出。この世界の美しさって何だろう。面白さって何だろう。死ぬ時に、自分が人生で集めたと言えるものはなんだろうか。こんな話題に人間一人一人の生き方と価値観、人生が詰まってるような気がする。これらの話題は、自分の言葉で話ができる大人でありたいと思う。

 

 貧乏は不幸だが、金持ちが幸せとは限らない。正社員は安定するが、自由は少ない。長生きすることが目的ではないのだから、安定を捨ててでも、住んでみたい街ややってみたい事をやっている人な方が幸せなのだろうか。老後が安定したところで、老体でできることはたかが知れてるし、極論、死が救済になり得る。将来のための貯蓄は加減が大切だと思う。25歳で使える1万円と60歳で使える1万円、その価値は決して同じではないと思う。世の中には、本当にいろいろな人生があると思う。高校生で親になった人もいれば、死ぬまで親にならなかった人もいる。自分の技を生涯極め続けた職人はすごいし、安定して定年まで会社員を務めあげた人もすごい。同級生の中でも、海外と日本を行き来しつつピアノを弾いている子や、国際結婚をした子、本を出版している子。いろいろな人がいる。恐らく正解はどこにもない、それに複数の選択肢を同時に選ぶこともできないし、他方の選択肢を後に残しておくこともできない。どうやって生きていけばいいのだろう。

 

 人はどこを目指して生きていくべきなのだろうか。無理して立派な人間を目指しても幸せになれるとは限らないし、優しい人が愛されるとも限らない。賢さを目指したところで余計なことに気づくだけかもしれないし、完璧な人間は少し寄り付き難い存在になってしまうのも確かだ。信念をどこに置くのか。これは、非常に難しい問題だと思う。20歳を超えたら年来的には大人だけど、何をもってして、ちゃんとした"大人"を名乗ることができるのだろう。

 

 人の人生は結局1人だと思う。大人になったら親とは離れなければいけないし、高校や大学の友達とずっと一緒にいられるわけはない。昔の人間なら、地元から出る理由は、他の地域で学んだことを地元に持ち帰り、地元を発展させる、そんな志だったと思うが、そんな地元愛があるわけでもない。そうなると、私が生きて誰か喜び、死んで誰か悲しむのだろうかという虚しさがある。私はこうやって生きてきた、そう話せる人がいることは一つの幸せなのだろうと思う。私の命は、どこにも帰る場所がない、そんな感覚がある。

  

 どうしても一人暮らしをしたくて、レベル的に一人暮らしを許容してもらえる大学が東京か大阪にしかないから東京に来た。そのまま、良さげの企業を見つつ就活をしたら、東京の勤務になった。ただ、別に東京は何かある街ではない、そんなことを最近思う。(求人の数は一旦別として。日本の大企業の本社機能は、ほとんど東京にあり、収入面で有利なのは間違いない。)自分が、生きていくには、映画館と図書館、ボードゲームカフェがあれば充分な気がしている。別に東京にこだわる必要はない、と最近思い始めている。

 

 極論、この世界はなんであるんだろう。という疑問がずっとある。少なくとも自分は自分の人生を好きになり切れていない。ただ、自分は置いておいて、世の中の過半数の人が、自分の人生が好きであってほしいと思う。でも、それは現実的ではないかもしれない。不幸の人のほうが多いとなると、この世界の存在そのものに疑問が生まれてしまう。宇宙という巨大な空間に、地球という小さな星がある。宇宙全体の大きさを、今の地球位の大きさだと仮定すると、地球の大きさは、ウイルスよりも遥かに小さいくらいらしい。そんな狭い狭い空間で、人類は文明を発展させている。何のために、誰のために。神様が外から見ていたりするのだろうか。

 

 他人はこの世界をどうみているのだろう。私がある人を見てて、わざとらしくて痛々しいと思っているとき、痛々しいその子は、何を考えて視界には何が見えているのだろう。私がくだらないと思うyoutuberを面白いと思ってみている人がいる。逆に、私が面白いと思う映画をつまらないと見ない人もいる。犬一匹ですら、可愛いとみる人と汚いとみる人、何も思わない人と色々いる。多くの人はこの街を、この国を、この世界をどんな目で見ているのだろう。レジで必ずありがとうと言えるおばあちゃんと、わざとらしく人にぶつかっていくおじさんとでは、見えている世界がきっと違う。性別説と最悪説、希望と絶望、世界の本当の姿はどんな姿をしているのだろう。私はどんな眼をしていたいのだろう。

 

 最後に社会の話に少しだけ触れたい。世界情勢は薄氷の上にある。ベネズエラの大統領が米国の拘束下になり、イランの政権崩壊も予測がつかない。共産圏は弱っている。ただ、ロシアや中国という大国がそのまま世界情勢の舞台から退くか?と考えたら否だろう。もしプーチンが自暴自棄になって、核攻撃を使い始めたら、恐らく世界は跡形もなくなってしまう。窮鼠猫を嚙む。最悪の形で起きる可能性がある。それくらい未来なんて大して約束されていないのが現状だと思う。自分の人生なんていつ終わるかわからない。時代の激流に巻き込まれなくとも、交通事故にある可能性だって0ではない。いつ死んでもいいように生きないといけないと思う。

 

 それに、経済そのものの先行きも不透明だ。少子高齢化に伴う労働人口の減少、それに伴う日本の地位の低下。地球全体として、レアメタルやエネルギー源などの資源の枯渇が予測され、確保の争いは激化が予測される。今の暮らしは、1億の人口と600兆円のGDP、それをもとに成り立っているものだと思う。なんやかんや世界4位の経済大国だ。海外に対して一定の財力と影響力がある。人口減少に伴い、経済力が低下した場合、どこまで今の暮らしを維持できるのだろう。AIやロボティクス技術によって、仕事が代替されることは悪いことではないと思う。この道なら、600兆円を、5000万人の人口で、稼げる可能性があるのではないかと思う。資本主義経済の自由と競争は、しっかりとした基礎がある場合に成長を最大化させるもののように思う。基礎がぐらつき縮退局面になった時に、全てが共倒れする危険性を孕んでるような気がしてならない。30年後の日本は住みたい国であり続けてるだろうか。どうにかそうであって欲しい。

 

 命があるということはこの世界に存在できるという権利なのかもしれない。この世界に対する入園チケットみたいなものなのかもしれない。最後に読み返している時にふと思った。もしそうであるならば、世界を全力で楽しまないと損だ。この説についてはまたいつかじっくりと考えたい。

 

 最後の段落以外をGeminiに渡して、続きを書かせたら、こんな文章でした。私は好きです。"結局のところ、不確かな世界に対して私たちができる唯一の抵抗は、自分の生活の靴紐をしっかりと結び直すことくらいなのだろう。巨大な虚無に飲み込まれないように、食事を丁寧に作り、部屋を掃除し、自分の身体という唯一の資本を手入れする。意味なんてなくていいし、立派な大人でなくていい。ただ、明日も目が覚めたなら、その一日を私が私として消費する。整った生活は、それだけで美しい。いつか世界の終わりのような景色の中で、あるいは寂れた温泉街の片隅で、こんな答えのない不安を誰かと笑って語り合える日が来るだろうか。もしそんな日が来るのなら、この退屈な人生も、生きるに値する物語だったと言える気がする。"