あ~久しぶりの歴史ネタです。しかも、ジョン万次郎、そもそもなんでそんな名前の呼ばれ方なのか、何をした方なのかご存知ですか?恥ずかしながら、私は全然知りませんでした。
なぜジョン万次郎が気になったのかを思い直し、そうだ!って思った理由がくだらなすぎたのですが、一応お話しておきますね(*≧∀≦*)
みなさん、テレ東で放送している「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」という旅番組をご存知ですか?おなじみ太川さんと蛭子さんが毎回変わる女性マドンナと共に目的地を目指す番組なのですが、なぜがうちの旦那がこの番組が好きで好きで・・・
しかもお笑い芸人のネタとか見ても聞いても全然笑わないのに、蛭子さんのリアクションやコメントや、ただの表情を見ただけで爆笑している・・・ならまだしも、私が蛭子と似てるっていいだすんですよ!(いつのまにか呼び捨てに
)
あくまで旅番組ですし、いろいろな場所に行くからご当地のものを食べようとする太川さんに対して、自分の好きなものしか食べない所とか、旅館じゃなくてビジネスホテルがいいってこだわりがあるとことか、天然なところとか・・・って、明らかに誉められてない。しかも、私見てないのになんで蛭子に詳しくなってるんじゃ~いって(*≧∀≦*)
その旅の四国一周編を私もちょこっと見ていたんですよね。その時の旅は、経由しなくてはいけない場所があったらしく、その一つに足摺岬があり、残念ながら到着した時には時間が遅くて真っ暗。星空はすごい綺麗だったみたいなんですがテレビではその様子は伝わりませんでした。その岬にバスの運転手さんがジョン万次郎さんの銅像が立ってるんですよ~って話してたんですよ。確かにテレビでも映りましたよ!暗めですけど。
そもそも、ジョン万次郎さんの銅像がなぜ土佐にあるのかも知らない私は、そんなきっかけから彼のことが気になってしまったというわけなのでした(・∀・)
ではでは、前置きが長すきましたので、万次郎さんの本題に入りましょう![]()
ジョン万次郎こと中濱万次郎は土佐の漁師の家で育ったそうです。土佐は出身地だったんですね!不運なことに、万次郎が2歳の時に父親が他界。貧乏生活まっしぐらを想像してしまうのですが、前向きで逞しかった万次郎は、奉公先でもせっせと働き、14歳で漁師になったそうです。
しかし、天保12年、漁師になって初めて漁に出た際に不運が襲います。なんと遭難してしまい、今の伊豆諸島の南果ての「鳥島」という地に漂流してしまうのです。その島には水もなく、食料もなく・・・人々は途方にくれかけていましたが、万次郎はなんとかこの危機を脱出しようという希望を絶対に捨てませんでした。
この時期に飛来していたアホウドリを捕まえて飢えをしのいだばかりか、その肉を干して食べるなど美味しく食べる工夫までしてしまったというのでびっくりしてしまいますよね。(最近絶滅危惧種のアホウドリのニュースをみたような・・・この時代にはまだたくさんいたんですね)
漂流してから約140日間の無人島生活でしたが、ある時転機が訪れます。なんと、「ジョンハウランド号」という捕鯨船が万次郎達を発見してくれたのです。万次郎達はどんなに喜んだことだろうか・・・とか想像してしまいますが、その船からでてきたのはもちろん日本人が見たこともない鬼と見まごうほどの大男達!喜びと驚きでなんだかどうにかなってしまいそうです(((( ;°Д°))))
この頃、外国では「鯨油」が重宝させていて、捕鯨船がたくさん海に出ていたそうです。万次郎達を助けてくれたホイットフィールド船長もとても気のいい人でしたし、万次郎自身も好奇心旺盛で人懐っこい性格だったので、多国籍の人々の中でも、ものおじせず異国の言葉を覚え始めたりと、捕鯨船での新しい環境に馴染んだそうです。
鎖国していた日本にとっては異国人の外見や鯨を食べる文化にもびっくりしたりと万次郎にとっても驚きの連続だったはずですが、そこで馴染めるとは彼がいかに愛される性格だったかが想像できますよね。船ではジョンハウランド号の名前をとって「Johnman」ジョン・マンの愛称で親しまれていたそうですよ
こうして、幸運に恵まれ命を救われた万次郎でしたが、鎖国状態にあった日本に戻るにはいろいろと問題がありました
万次郎自身にも何かしら罰せられてしまうかもしれませんし、助けてもらったにもかかわらず、異国人の船員たちにまで害が出てしまうかもしれない。
そんな不安材料がいくつかある中、船長のホイットが万次郎にアメリカで勉強してみないかと提案してきたのです
その申し出を受け、万次郎は船長が親代わりとなり、マサチューセッツ州の学校に通い、基礎から徹底的に英語を学びました。
「英米対話捷径」という英会話のテキストブック的な本が現存しているのですが、その発音表記が実際の音に本当に近いもので、万次郎の勉強熱心さが伝わるものとなっています。当時の日本人で彼ほど英語が話せる人物はいなかったそうですから。英語以外にも、初めて見る蒸気機関車や、航海術などを学び、どんどんと力をつけていきます。
万次郎を家族として迎えてくれたホイットも、子供がいなかったせいか、本当に彼のことを大事にしていたんだなというエピソードがヒストリアか何かで放送されていたのでちょこっと紹介
ある日、二人で教会の礼拝に向かおうとしたところ、そこの神父が白人でないことを理由に万次郎の入会を断ったそうです。教会が差別をするとは何事だとホイットは腹を立て、長年通っていた教会をすぐに退会し、二人で通える所を探してくれたそうです。万次郎にとって彼との絆は父との絆のように切っても切れないものになっていったのかもしれませんね。
そんなホイットへの愛や絆は言うまでもなく、万次郎の中で大きく膨らんでいたでしょうが、土佐にいる自分の母の事も気がかりでした。突然の漂流で安否もわからず何十年もの間心配し続けているであろう母親への憂い。そんな思いも万次郎は捨てきれていなかったのです。
そんなおり、アメリカの捕鯨船が日本付近で難破することが幾度かあり、鎖国状態の日本に漂流した異国人への仕打ちがひどいという話を万次郎は聞かされ心を痛めることとなります。
「どんな時でも他人の幸せに役立つ術を考えて欲しい」
この言葉はホイットフィールドからの教えでした。万次郎はその教えを胸に、母への思いも傍らに持ちながら、船乗りたちが安心して仕事ができるように、自分が日本に戻って開国をさせようと日本へ帰る決意を持つようになっていきました。
・・・といってもお金の問題もありますし簡単に日本に戻ることは難しい。それでもそこは万次郎のすごい所。ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで見事に金を掘り当てて帰国に必要なお金をゲットしちゃうんですよ
そのお金で買った船を「アドベンチャー号」と名づけ、まずは、中国とも関わりがあり鎖国もしていない琉球に目をつけ、そこに上陸しようと向かいました。
万次郎の読み通り、多くの事情聴取はあったものの罰せられることはありませんでした。異国を見てきた万次郎の話は、いろいろの日本人に刺激をもたらし、琉球の島津斉彬から長崎奉行、そして土佐藩とおよそ1年半もの取り調べの末、やっと母のもとへ帰ることができたそうです。そのときすでに25歳。感無量とした言いようがありませんね
万次郎は身分制度が厳しかった土佐藩には珍しく、その海外経験の豊富さから、土佐藩の学校の英語教師として取り立てられました。もちろん、開国の目的も忘れたわけではなく、授業の合間をみては、その必要性をあらゆるところで説いてまわりました。
その半年後に来たのが・・・あのペリーさんです。
ペリーは開国を迫り、返答を1年先延ばしにし一度は帰って行きましたが、アメリカの内情を知らず、初めて見る黒船に幕府はてんてこまい。
万次郎はお役人でもないのでなかなか意見を申し上げる機会がなくもどかしいおもいをしていたのですが、彼を知る者が幕府に彼を紹介し、江戸でアメリカの情勢を語る機会を得ることができたのです。アメリカにはプレジデントがいて、選挙(入札)で選ばれたりする。新たな情報に幕臣は驚くばかり。そして、彼らには敵意はなく、よしみを結びたいだけなのだと必死に説きました。船中八策の中の政策にも万次郎から見聞きしたことが受け入れられているというので、龍馬さんとも関係があったんでしょうね。
こうして開国への道が開きかけそうになったとき、徳川斉昭が万次郎をアメリカのスパイだと疑っており、日本にとって良い決断を、彼らに恩がある万次郎にできるのであろうかというような噂も立つこともあったようですが、阿部正弘は1854年日米和心条約を締結。捕鯨船の為に港を開き、漂流民も保護する内容も盛り込まれ見事に約束を果たしたのでした。
実際、時代も少し早く場所は違えど万次郎と同じような感じで漂流した所をロシア人に助けられた大黒屋光太夫も、己の目で異国を見て、もっと外国を知り国交を持つべきだと幕府に唱えていたそうですが、蝦夷の開拓を進めようとしていた老中田沼意次が不運にも失脚し、次の松平定信の時代には開拓自体打ち切られてしまい、光太夫の意見は全く生かされずに彼自信が幽閉されるという不運に見舞われてしまったので、せっかく光太夫のように早くから開国をといていた人がいても、時代の差があったとしても幕府の上の人の意見で一掃されてしまうというのはいつの時代も悲しいことですよね。
全くの異国での苦境での新しい環境のもとで落ち込むのではなく好奇心でぐんぐんなんでも吸収!そして、たまたま命を救ったようなものでもあったのですが、学べる環境を与えてくれたアメリカの親ともいえるホイット船長との巡り合いと、その恩に報いようと捕鯨基地を日本に置くため開国させようと彼らの義に報いようとする精神は、今の時代にも必要とされるべき信念ですよね
万次郎はその後も通訳として海を渡ったり、開成学校では福沢諭吉や大山巌の英語の指導をし、日本の行く末を担う人のサポートをしたそうです。そして、アメリカ経由で渡欧した際の待ち時間に、ホイットフィールド船長に20年ぶりに再会を果たしたそうです。
万次郎とホイットさんの絆はそれに留まらず、子供や孫まで続き、太平洋戦争の時に一度は途切れかけたものの、安否を確認しに来たホイットさんの依頼により、現在5代目の交流も続いているそうです
国の争いよりも人と人とのつながりの強さを教えてくれるような本当に素敵なお話ですね。
勝手に外国の使節団か何かで渡米した方だと思っていた万次郎さんが、こんなにも開国に尽力していた方だったなんて初めて知りました。本人の性格や運もあると思いますが、無人島で命を救われたこと、そしていろんなことを経験させてもらえて生涯途絶えることのない絆を得たこと。結果的にそれが日本とアメリカの架け橋となるところまで来たのですから、私たちも人と人との絆というものを大切にしていきたいですね。
おまけ

ジョンハウランド号での異国への航海に心踊らせる万次郎を描いてみました♪
漫画っぽく久々に手書きで~す













ケータイも今やっと打てるようになったってとこです。


