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不景気でお金を払うのに億劫になっている傍、お金を貰うのにも億劫になってきていると思う
自分の技術や働きでお金をもらうのはなんだかとても恐縮なことなのではなくて、もっとも人間らしくて、自然の摂理で素晴らしいことなんだと
小学校、中学校と図工・美術・技術という、所謂 “ものづくり” の授業が苦手で、いつも成績が悪く、絵や造形への熱をなくしてしまった
未提出の課題もあった
それでも線と字を書くことが好きだったので建築を学んで所謂 “ものづくり” を生業としている
唯一後悔しているのは才能がなくても評価されなくても提出をすればよかったということ
失敗をしなかったこと
最近出会う人でかっこいいと思える人はいっぱい失敗してるから
昼休憩中に、保険のお姉さんがいつも受付のところでお待ち(営業)しているんですけどね。
大抵、スルー。
保険に入る気もないのでお互い労力をかけないようにしているんですけど。
一昨日、こんなことが。
保「最近、気になったニュースはなんですか」
鮭「佐野さんです」
保「…、あー五輪の」
あのニュースはいろいろ考えさせられる。
・デザインというものは良いデザインをみて参考にして作り出す「努力派」
・爆発的なひらめきと発想から思いつきのように創造する「天才派」
がいるのではないかと思う。
当然、「天才派」は少数派である。
だから普段からデザインを生業としている人は良いデザインに触れようとセンスある広告や服装、雑貨、空間にお金を払ったり、足を運んだりしている。
分かりやすく言えば、建築学科の大学生が有名建築家の建築物を見に行ったり、建築雑誌を習慣的に購入するようなものである。
(いやこれが分かりやすいのは建築学科の大学生だけか)
要するにデザイン的なものに触れてそこからなにか生まれるものを大事にする「天才派」ではないヒトはこの世にはごまんといて、おそらく私もその一人なのだということ。
「意匠」なんてそんなもんだし、そういうものだと思ってました。
実際に、建築学科の授業では、先生から与えられた課題を自分の中に スン と落として次に起こすアクションは図書館行って建築雑誌を読み漁り、
「この建築家のこういうの真似たいな」
「このコンセプトそのまま使えそう」
なんて学生、けっこう居たんじゃないか。
(私は自分のセンスのことになると急に頭の中に井戸の中にいる蛙を思い浮かべて憑依してしまうくらい鬱になるのでこういう課題は苦手だった GA建築の作品をよくもわるくもパクッていた憶えがあります)
建築はまだいい。
与えられる課題一つとっても表情がまるで違うからだ。
計画地はどこ。暑いとこ、寒いとこ。日射の向きはどうか。その土地の歴史は、文化は。近隣の住民の動線は。使う材料は。日々技術革新で新しい材料・工法が。
なんて具合。
デザイナーはどうだ。
モニュメント、ロゴ、フォント。
限られてくるのか。専門じゃないだけにとても幅(条件・選択肢)が狭く感じる。
学生は真似してもいいのに、プロは真似してはだめ。
それは発信力の違いなのか、収益性の違いなのか。
わからない。
例えば、革命!奇跡!と思った自分が感動した建築物とまったくおなじ建築物を仕事として設計しようと思うとしてとしよう。
地盤の悪さが違う。ハザードマップ(浸水地域)のレベルが違う。
当時の材料と現在生産されている材料が違う。
建築の場合はまったく同じはないのだ。
これは一つの設計で何千・何万・何億も稼ぐ自動車の設計とは似ても似つかない非なるものなのだ。
だから、もし佐野さんが五輪のエンブレムのデザインをスイスかドイツかどこかの国のものに感銘を受けてそこからできたものだとしても、(佐野さんはそのデザインを知らなかったとのことではあるが)造られたコンセプトや想いがまったく異なるのであればそれはそれでよいのである。
だからニュースで最初の佐野さんの会見は万人に支持されたのだと思う。
お次のトートバッグ。
これは例えるなら、有名小説家が面白い文章をネット上で見つけそれをそのままコピペしたようなものであろう。(よーくニュース見てないので比喩表現に語弊あったらすみません)
基本的には「いいだろ別に」が私の意見。
上述の表現が悪かったかもしれない。
建築業界に例えるならこうではないか。
良い工法や良い材料を使うのと同じではないのか。
良いものは世に出て多くの人に触れより良いものになるのではないか。
ただそれが言及されたときに、面と向かって、○○のデザインを真似しましたとか○○の納まりを参考にしました、○○の記事からもってきました・と言えるかどうか。
そこだと思う。
ちっちゃいころに読んだ漫画でこんなくだりがあった。
ある文豪が書いた長編作品を書き写された。
「これは私の作品だ」作者が言う。
「いや、私の作品だ」偽りの作者が言う。
もしあなたが本物の作者だったらどうするか。
そんなもん続きを書くに決まってんだろ・って。
まあ論点はずれているかもしれないがそんなとこ。
人間全体を見て、良いものができれば、
それはそれでそれこそが良いことなんじゃないか・って思います。
大抵、スルー。
保険に入る気もないのでお互い労力をかけないようにしているんですけど。
一昨日、こんなことが。
保「最近、気になったニュースはなんですか」
鮭「佐野さんです」
保「…、あー五輪の」
あのニュースはいろいろ考えさせられる。
・デザインというものは良いデザインをみて参考にして作り出す「努力派」
・爆発的なひらめきと発想から思いつきのように創造する「天才派」
がいるのではないかと思う。
当然、「天才派」は少数派である。
だから普段からデザインを生業としている人は良いデザインに触れようとセンスある広告や服装、雑貨、空間にお金を払ったり、足を運んだりしている。
分かりやすく言えば、建築学科の大学生が有名建築家の建築物を見に行ったり、建築雑誌を習慣的に購入するようなものである。
(いやこれが分かりやすいのは建築学科の大学生だけか)
要するにデザイン的なものに触れてそこからなにか生まれるものを大事にする「天才派」ではないヒトはこの世にはごまんといて、おそらく私もその一人なのだということ。
「意匠」なんてそんなもんだし、そういうものだと思ってました。
実際に、建築学科の授業では、先生から与えられた課題を自分の中に スン と落として次に起こすアクションは図書館行って建築雑誌を読み漁り、
「この建築家のこういうの真似たいな」
「このコンセプトそのまま使えそう」
なんて学生、けっこう居たんじゃないか。
(私は自分のセンスのことになると急に頭の中に井戸の中にいる蛙を思い浮かべて憑依してしまうくらい鬱になるのでこういう課題は苦手だった GA建築の作品をよくもわるくもパクッていた憶えがあります)
建築はまだいい。
与えられる課題一つとっても表情がまるで違うからだ。
計画地はどこ。暑いとこ、寒いとこ。日射の向きはどうか。その土地の歴史は、文化は。近隣の住民の動線は。使う材料は。日々技術革新で新しい材料・工法が。
なんて具合。
デザイナーはどうだ。
モニュメント、ロゴ、フォント。
限られてくるのか。専門じゃないだけにとても幅(条件・選択肢)が狭く感じる。
学生は真似してもいいのに、プロは真似してはだめ。
それは発信力の違いなのか、収益性の違いなのか。
わからない。
例えば、革命!奇跡!と思った自分が感動した建築物とまったくおなじ建築物を仕事として設計しようと思うとしてとしよう。
地盤の悪さが違う。ハザードマップ(浸水地域)のレベルが違う。
当時の材料と現在生産されている材料が違う。
建築の場合はまったく同じはないのだ。
これは一つの設計で何千・何万・何億も稼ぐ自動車の設計とは似ても似つかない非なるものなのだ。
だから、もし佐野さんが五輪のエンブレムのデザインをスイスかドイツかどこかの国のものに感銘を受けてそこからできたものだとしても、(佐野さんはそのデザインを知らなかったとのことではあるが)造られたコンセプトや想いがまったく異なるのであればそれはそれでよいのである。
だからニュースで最初の佐野さんの会見は万人に支持されたのだと思う。
お次のトートバッグ。
これは例えるなら、有名小説家が面白い文章をネット上で見つけそれをそのままコピペしたようなものであろう。(よーくニュース見てないので比喩表現に語弊あったらすみません)
基本的には「いいだろ別に」が私の意見。
上述の表現が悪かったかもしれない。
建築業界に例えるならこうではないか。
良い工法や良い材料を使うのと同じではないのか。
良いものは世に出て多くの人に触れより良いものになるのではないか。
ただそれが言及されたときに、面と向かって、○○のデザインを真似しましたとか○○の納まりを参考にしました、○○の記事からもってきました・と言えるかどうか。
そこだと思う。
ちっちゃいころに読んだ漫画でこんなくだりがあった。
ある文豪が書いた長編作品を書き写された。
「これは私の作品だ」作者が言う。
「いや、私の作品だ」偽りの作者が言う。
もしあなたが本物の作者だったらどうするか。
そんなもん続きを書くに決まってんだろ・って。
まあ論点はずれているかもしれないがそんなとこ。
人間全体を見て、良いものができれば、
それはそれでそれこそが良いことなんじゃないか・って思います。