妻の死
妻は昨年54歳で星になりました。
ダイエットを兼ねて41歳でテニスを再開
(学生時代はテニス一色だったとか)
その最中にアキレス腱を断絶
早く治ると手術を勧められ実施
家で療養中に右胸にしこりを発見
近くにあるそこそこの病院で検査したところ、乳ガンと診断され・・
今から思えばステージ2程度だったかと。
全摘を嫌い、少し離れた大学病院で温存式の手術で癌を摘出
その後抗ガン剤を。
よく聞く副作用に苦しみました
その後3年程経った時に左胸にもガンがあることが分かり
今回は全摘出
右胸の治療で使った抗ガン剤でも殺せなかったガン細胞
乳ガンはタイプが沢山あり、抗ガン剤も合致しないと効かないと知った
このガン、実は右胸の検査の時に最初の病院では可能性を指摘されていたもの
本人が大学病院の医師に伝えても「多分違う」と言われ続け、
納得出来ない本人は主治医以外の医師に直訴
調べた結果、やはりガンだった
主治医はテレビの名医特集でも名前が出ていた教授
後から聞いた話ではご本人も体調を崩していた時期で
後々妻に「申し訳なかった」と謝りがあったそう・・
病院選びの難しさを知りました
大学病院などは教授の言ったことは絶対でしょうし、それが招いた弊害だったのだと思います。
そうこうしているうちに3年が経ち、今度は腹痛を訴え検査したら卵巣ガンが見つかりました
ちなみに左胸も卵巣も転移ではなく原発でした
左胸の治療で抗ガン剤を勧められた時、右胸の治療で使った抗がん剤の副作用で髪が抜けたことがトラウマになり、抗がん剤治療をしませんでした。
卵巣ガンについては選択の余地がなかったので、周りも勧め抗ガン剤治療をしました。
これは結果結構長期間、それも相当な量の抗ガン剤を使いました
抗ガン剤については劇薬で正常な細胞も殺してしまうことから、欧米の医師は抗ガン剤を使わないという話があったり、日本でも医師自身がガンになった時に抗ガン剤を使わないという話が聞こえてきたり、諸説ありましたが、本人が抗ガン剤に賭けていました。
最後の最後昨年の2月、医師から腎臓への影響を含め、臓器が弱っていることから抗ガン剤を継続出来ないこと、今後は入院を続けるか、在宅で緩和療法を施すかという選択をせざるを得ず、結果後者を取りました。
卵巣ガンの影響もあってか、盲腸の破裂、度々の腸閉塞が起き、最後は腎臓の機能低下とそれによる毒の排泄が出来ずに身体に回ってしまい、昨年の7月に急変して亡くなりました
妻の両親、兄弟も駆けつけながら最期を看取れたのは息子だけ
皆んなが一時病院を離れて休憩してしまった時でした
食べることが好きでお酒も好きだった人が最後は絶食続き
在宅で戻ってきた際に医師から「よく噛めば肉も食べていい」と言われ、直後に外食した際に娘の注文に添えてあったフライドポテト5本が引き金を引いてしまったようでした
葬儀の手配、初めてのことなので葬儀屋さんの選定も病院側に勧められたまま、全く経験がなかったので大変でした。
火葬場が混んでいて5日程遺体を葬祭場におかせてもらったのですが、遺体を見ていると娘もその都度涙を流しましたが、骨になってしまうとその感情が変わりました
不思議な感覚でした
入退院を繰り返したことで、急にいなくなったのではないから、今でも病院から戻ってくるとも思えるんです。
これは息子も娘も一緒でした
今年7月に一周忌を済ませましたが、その感覚は今でも同じです。
今回妻の闘病では息子、娘の存在と働きが大きかったです
本当に感謝しています
さて、その後どうしてバイクに乗ることになったのか、
次回書かせていただきます
こんなに時間が経っていたんだ・・・
驚きました
久々に覗いたら昨年の春の記事アップが最後でした
「去年の春かぁ・・
あれから色々あったっけ」
と思い、少しずつ思い出しながら書いてみようと思った次第・・
大きな出来事からいうと
・昨年7月に妻が亡くなりました
・昨年9月に教習所に通い始めました
・昨年12月に普通二輪免許に続き大型二輪免許をゲットしました
・昨年12月、大型バイクを買いました
・今年春に腰椎狭窄症と診断され、足に痛みが出て治療
・明日、もう1台、バイクが増えます
まずは妻が亡くなったことから書き始めてみます
続きは次回