神は存在するのかどうか、という議論は大昔から続いている。一口に”神”と言っても、とても多くの種類の”神”が信じられていて、どの宗教の、どの派閥かによっても変わってくるし、あるいはアニミズム的発想、もしくは日本国でいう”八百万の神”的なところにまで広げれば、それはもう世の中”神だらけ”である。
人というのは、原則的には必然性を守るために偶然性の存在を認める生き物である。これは一見矛盾しているように見えるかもしれない。人は混沌な世界から美しいものだけを抽出して、そのフィルターを通して物事を見ようとする。そうでもしないと世界は複雑怪奇極まりないのだから、何も捉えることができなくなってしまう。人はその美しいものを守るべく、偶然性を必然性から切り離し、排除し、それを「運命」や「神」などと呼ぶのだ。だから「運命の人」とか「神頼み」とか、そういう類の言葉が皆わりに好きなのだ。
ここでは神の存在の有無証明についてどうこう言おうというわけじゃない。それにそんなことは無理である。存在するのかもしれないし、存在しないのかもしれない。いずれにせよ、少なくとも僕にとってはどちらでもいいのだ。どれくらいどうでもいいのかと言われると、地球が太陽の周りを回っているのか、あるいは太陽が地球の周りを回っているのか、くらいにはどうでもいい。明日の朝のニュース番組で「えー、先ほど入った臨時ニュースです。今朝5:47頃、新宿駅で”神”の存在が確認されました。」と報道されたとしても、せいぜい「へぇ。あとで記念に写真でも撮っておこう。」である。なんでもかんでも白黒つけるのはよくない。グレーゾーン的な、もやもやとした部分をむやみにはっきりさせようとすると、かえって事実を歪めてしまうからだ。
むしろ僕が興味があるのは、仮に神が存在したとして、その神は僕らに一体なにをするのか、というところである。今のところ、消費税引き上げ撤廃や、僕の衣類の洗濯、晩飯の買い出しはしてくれそうにないことは分かる。「あそこのスーパー、この時間帯ならいつもは貼ってある割引シールが今日は貼られてなかったんだ。ったく、どうなっているんだ、あの店。」なんて感じの神なら、存在しててもいいと思う。「あームカついた。ムカッときたから、地球と金星の位置入れ換える。もう決めたんだ。」なんて感じの子どもっぽい癇癪持ちな神だったら、それはとても困る。あるいはデスノートのように人間が後天的に神の力を手に入れてしまうというのも困る。ただ、朝寝坊しそうになったときには、耳元で起きろと一言いってくれてもいいものである。結局のところ神がなにをするのかというのは、少なくとも僕にはさっぱり見当もつかない。つまるところ、いてもいなくても、どちらを信じようが、今起きている事実に変わりはない。だから僕は、どうでもいいと言うのである。
